◆10◆ もう一杯、淹れていただけませんか。

「潤さん!!」


 一気にお茶を飲み干し、たん、と湯呑を置いた潤さんは「うう」と苦しそうに顔をしかめた。湯呑に添えられたままの手がぶるぶると震え、湯呑の底がカタカタと鳴る。


「……朋兄、何だこれは」


 いままでに一度も聞いたことのない、地の底から響くようなその声に、思わず「ひい」と叫んでしまう。思わず朋さんの方を見ると、彼も彼で顔に色がない。何か恐ろしいものでも見ているかのように、その表情は引き攣っている。


「違うんだ、潤、これは……」

「何が違うんだ。藍に何を飲ませるつもりでいたんだ」

「だから、その……」


 とりあえず、この様子からして農薬ではないらしい。それに一応安堵する。ただ、とんでもないものを飲ませようとしていて、そしてそれを俺ではなく潤さんが飲んでしまった、ということだけはわかった。


「そっちのは?」

「えっ、そっちの……?」

「朋兄の方も同じものなのか?」

「いや、俺のは……」


 違うのだろう。

 そう判断したらしい潤さんは、手にしていた俺の湯呑を朋さんに突き返し、その代わりにと彼の前にあった方を奪い取ると、喉を鳴らしてそちらも飲み干した。


「はぁ、何とか。でもまだ舌に残ってる気がする」


 どうやら口直しのために飲んだらしい。ほぉ、と息を吐いてちらりとこちらを見、「藍が無事で良かった」と笑った。その笑みにきゅうと胸が締め付けられる。いや、惚れ直している場合ではない。


「俺のことより潤さんですよ。どうして何も聞かずに飲んじゃったんですか」

「どうせ聞いたって答えてくれないと思って」

「も、もし、もしですよ。もしも……その……だったら」

 

 とちらりと『ザグラス』のボトルを見る。さすがに本人を目の前にして農薬を混入、なんてことは言いにくい。


「そこはさすがに我が兄を信じたよ。いくら朋兄でも私のために人を殺すわけはないと思ってね。ただの小道具だろ」

「潤……」


 真っ青を通り越して真っ白くなっていた朋さんの顔にうっすらと赤みが差す。何よりも大切な妹に信じていると言われたことが嬉しかったのだろう。


「それで? だから、これは、何なんだ」


 と、問題のお茶が入っていた方の湯呑を指差すと、朋さんは観念したのか、はぁ、と息を吐いてから「苦丁茶くていちゃだよ」と言った。


「クテイチャ? 何だそれ」

「世界一苦いと言われているお茶だよ。いまUNICOウチの職場で流行ってるんだ」


 世界一苦いお茶が流行る職場ってすごいな、と思ったが、そういえば朋さんは大手飲料メーカーの開発部にいるのだ。どのような味にしろ、飲料への関心が高いのだろう。


「こんなものが流行るのか……。好き好んで飲みたい味じゃないけど」

「良薬口に苦しだけあって身体にも良いし慣れれば癖になるんだってさ。俺は絶対飲みたくないけど」


 まぁ、お茶というからには身体に良いのだろう。良薬口に苦し……って苦すぎる気もするけど。しかし、身体に良いと聞くとちょっとだけ興味も沸いてくる。俺はまだ若いけど、健康に気を遣うに越したことはない。それに苦いだけのお茶なら大丈夫だ。


 と、のん気なことを考えていると――、


 だん、と潤さんが拳でちゃぶ台を叩いた。

 その音に、俺も、朋さんも、びくりと身体を震わせた。ほぼ同時にしゃきりと背筋が伸びる。


「自分が飲みたくもないようなものを藍に出したということだな?」

「……え」

「それが妹の恋人に対する仕打ちか! いや、それ以前に客人に対する扱いかぁっ!」

 

 ぴんと張ったその声に、障子紙が震えた気がした。何ならこの和室全体が揺れた気さえした。俺は潤さんがここまで怒ったところを見たことがない。部下を叱責することがないわけではない。牧田さんがあり得ないレベルの誤発注をやらかした時なんかは、もちろんお説教らしきものはあった。しかしそれよりもその後のフォローの方が長かったのだ。いまは叱るよりも先に得意先への対応だから、と。まぁ、それが片付いてからこってり絞られたみたいだけど。


 だから、ここまで感情的に、というのか、怒りをが爆発させたところなんて見たことがない。


「……覚悟は出来てるな、朋兄」

「か、覚悟って」

「例え自分にとって憎い相手だとしても、客人をもてなす心も無いような人を兄とは思わん」

「そんな、潤……」


 え、ちょっと待って。潤さん。兄妹の縁を切るとかそんなこと言い出すんじゃ……。


「ちょ、ちょっと待ってください、潤さん!」

「どうした、藍」


 こちらを見た潤さんは、怒りのせいか赤い顔をしていたけれども、俺を見つめるその瞳はいつもの潤さんだ。プライベートというよりは、『伏見主任』の目だったけど。


「俺はまだ飲んでません」

「え?」

「俺はまだそのお茶を飲んでいません」

「そうだな、私が飲んでしまったから」

「だから、飲みます。飲ませてください」

「何を言ってるんだ、藍。わざわざそんなものを飲まなくても」

「もし、もし俺がそのお茶の味を気に入ったら、それは俺にとって最高のおもてなしとなるとは思いませんか」

「いや……世界一苦いお茶だよ? そんなわけ……」

「こんなこともあろうかと、ここ数日、毎日センブリ茶を飲んできたんです。大丈夫です」

「一体何を想定してたんだ、藍」

「朋さん、申し訳ありませんが、俺のためにもう一杯だけそのお茶を淹れて来てくださいませんか?」

「……は? ま、まぁ良いけど……」


 俺が原因で兄妹の縁を切るとか、そんなことは絶対にあってはならない。妹を大切に想う気持ちは俺にだってわかる。桃がいる俺だからこそ、わかるんだ。俺だって、可愛い可愛い桃が彼氏を連れてきたりしたら、正気でいられるかわからない。もしかしたら、お茶に塩とか入れてしまうかもしれない。だから。


 どうにかこの場をおさめなくては。 



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