◇9◆ DRINK OR DIE の状況。
「ああ、潤。どうしたんだい、そんな血相変えて」
と、朋兄がいつも通りの穏やかな笑みを向けてくる。彼はどんな時でも私にだけは優しい顔をするのだ。彼は私に対して、ほんのわずかにでも不機嫌な顔を見せることはない。
「朋兄、藍におかしなことをしていないだろうね」
「おかしなことだなんて、酷いなぁ潤。なぁ片岡君。俺、何もしてないよなぁ?」
なんて藍に視線を向ける。藍は、緊張のためなのか少々青い顔で「はい」とだけ返した。その様子を見れば、決して『何もしてない』ようには見えない。
「じゃあ、この真ん中に置いてるものは何なんだ。どう考えてもいま置くべきものじゃないと思うけど」
「ああ、これね。ごめんごめん。さっき買ってきたんだけど、お茶のボトルか何かだと勘違いしたんだろうな。いやぁ、お恥ずかしい。俺も緊張してるみたいでさ」
信じがたい話ではあるが、普段の朋兄ならば、これは案外よくあることだったりする。さすがに飲むまでは至らないものの、食器用洗剤を冷蔵庫にしまったり(ジュースと間違えたらしい)、冷凍庫から玄関用の芳香剤が出てきたり(冷凍庫用の脱臭剤と間違えたらしい)したことがあるのだ。リビングのテーブルに食用油のミニボトルがずっと置いてあると思ったら、どうやらお茶と間違えたらしく、口をつける寸前で気が付いた、なんてこともある。目が特別悪い、というわけではない。確かに視力は低いが、眼鏡もそれに合ったものを装着しているし、運転や仕事にもまったく支障はない。
ただ、私が近くにいると浮かれすぎて、その辺りのことが注意散漫になるのだという。だから、今回だって、「ああ、またか」で済ませられる話ではあるのだ。
が。
目の前には藍がいるのだ。
それに、さっき朋兄ははっきりと「さっき買ってきたんだけど、お茶のボトルか何かだと勘違いしたんだろう」と言ったのだ。ということは、それが事実だとしても、私が指摘する前に気が付いているのである。ならば、さっさと避けているべきだろう。本当に間違えていたのなら、私が指摘した時に気が付かなければおかしい。
まさか、朋兄。
まさか本当にその茶に混入したわけじゃないだろうな。
さすがにそこまでするわけはないと思うものの、藍は未だに青い顔をして動かないのである。考えたくはないが、可能性はある。
だったら。
朋兄を睨みつけたまま彼の向かいに座ると、何かを言いたそうな藍をちらりと見、にこりと笑ってから、目の前の湯呑に手を伸ばした。
「潤?! それは……!」
「潤さん?! 駄目です、それは俺の……!」
2人がほぼ同時に腰を浮かせたところで、それを一気に飲み干した。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「じゃあそろそろ俺は」
と恵さんが退室しようと障子に手をかけた時、彼が開けるよりも早く、すぅ、とそれは開いた。その向こうにいたのは、写真でしか見たことのない伏見家の次兄、朋さんである。わざわざお茶まで持って来てくれたらしい。
画像で見た時と少し雰囲気が違うと思ったのは、ヘアスタイルのせいなのか、それとも服装のせいなのか。それとも眼鏡の形だろうか。とにかく、俺は彼を見た時に、おや、と思ったのだ。この雰囲気、どこかで会ったような、と。
そう思っていると、恵さんと入れ違うようにして入って来た朋さんは、じぃ、と俺を見るなり「ああ、君か」と言ってきたのである。
「ええと……?」
「覚えてないか。3月だったか……ほら、TOOLSで」
と言いながら、胸ポケットに差してあったペンを指差す。
「
「そう、あの時の。そうか、まさか君が潤の恋人だったとは、ねぇ」
「ええと、はい。あの、お付き合いさせていただいております」
口調は穏やかだが、圧が凄い。もちろん、オーラだとかそういうのは一切見えないのだが、それでもそれを感じ取ってしまうほどの何かがあるのだ。数歩下がり、手をついて頭を深く下げると、まぁまぁ頭を上げなよ、なんて優し気な声が降ってくる。と同時にどうやら向かいに座ったらしく、しゃ、という畳の擦れる音と、ちゃぶ台の上にトレイを置いた音、そして、カサカサ、とビニール袋から何かを取り出したような音が聞こえた。恐る恐る頭を上げると、湯呑が置かれていた。さっき潤さんが持って来てくれた方はトレイの上に片付けられている。
そして、ちゃぶ台の中央には『ザグラス』という名前の液体除草剤のボトルが置いてある。これか、ビニール袋に入っていたのは。えっ、いや、何で? 確かに、朋さんの淹れた茶は飲むなとか言われたことはあるけど、これはもうガチなやつじゃないですか。
「まぁ、飲みなよ。冷めないうちに」
「え、あ、はい。でも、その、ええと……」
さすがに手を伸ばしづらい。でも、飲まないわけにもいかない。ええ、これはどうしたら良いんだ。
ちらちらとボトルを見ていると、朋さんは「ああ、これね」と言って、ボトルを手に取った。
「まぁ、気にしないで。大丈夫だから」
「そう……ですよね」
いや、気になります!
下剤程度ならまだしも、さすがに除草剤となると、これは殺人未遂だ。潤さんのお兄さんを殺人犯にするわけにはいかないし、俺だって死にたくはない。
「それで……、潤とは? もちろん清い交際をしているんだろうね?」
「えっ……と、その……」
来た。
とうとう来た。
いや、正直、さっき恵さんにその辺を突っ込まれなかったのもおかしいとは思ったのだ。嫁入り前の妹に手を出すなんて、と数発殴られるか、あるいは投げ飛ばされる覚悟をしていたのだが。
「おや、即答出来ないところをみると……どうやら、手を出しているようだな」
「……はい」
「成る程、潤を傷物にしてくれた、というわけか。成る程、成る程」
「申し訳ありません。ですが、真剣にお付き合いをさせていただいております」
「ふうん、真剣、ねぇ」
「まだプロポーズはしておりませんが、ゆくゆくは潤さんと――」
再び手をついて頭を下げると、「良いから」という声が返ってきた。一体何が「良いから」のだろう、頭を下げなくても、ということだろうか、とゆっくり頭を上げる。
と。
成る程これが「やくざの弁護士」と言われる所以なのだろうな、と思わず納得してしまうような冷たい笑みを浮かべた朋さんが、「飲みなよ」と顎をしゃくった。
これはもう、腹を決めて飲むしかなさそうである。
が、この感じからして、やはり何かは盛られているのだろう。
それが目の前の除草剤でないことを祈るのみである。
そんな時だった。
勢いよく障子が開いて、顔を真っ赤にした潤さんが飛び込んできたのは。
彼女は朋さんに対し、仕事の時よりも厳しい口調で問い詰めると、俺の隣にすとんと座し、何も言わずに目の前の茶を飲みほしたのである。農薬が混入されているかもしれない、その茶を。一切の迷いもなく。
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