◆7◇ 闇の中であなたに触れれば。
脱衣場に戻り、浴衣に着替える。
さぁ、いよいよだ。
ちらり、と傷痕を見る。
触れてみると、そこは少し盛り上がっている。縫ってくれた先生の話だと、今後もここだけ毛が生えたりはしないのだそうだ。といっても、その当時も大人になった俺もそれほど体毛が濃いわけではなく、せめて周囲がもじゃもじゃだったら隠れたかもしれないのだが、そんなこともなかった。
触ったらわかったりするかな。
そう考え、どきりとする。
いや、大丈夫だろう。大丈夫、大丈夫。
そう自分に言い聞かせながら暖簾をくぐった。
「行こうか」
湯上りの潤さんの頬がほんのりと赤い。
普段はどんなに飲んだって染まることのないその赤い頬に手を伸ばしかけて――、いやいやここは廊下だぞ、と引っ込める。
「帰り、売店で温泉饅頭買わないとなぁ」
俺の葛藤も知らないで、潤さんはそんなことをぽつりと呟く。
そんなところもちっとも色っぽくなくて、潤さんらしすぎるのが可愛い。
「いや、ゆべしでも良いかな。部屋にあった最中も美味かった……。せっかくだし、実家にも送ってやろうか」
顎に手を当て、まじめに検討しているその横顔を見つめる。
「潤さん、ご実家に送るんなら、朋さんにも」
「え? あ、そうか……。実家だと
待てよ、その感じだと、家族宛に送ったものと個人宛に送ったものとで差が出るのではないのだろうか。
実際に会ったことも会話をしたこともないが、潤さんの話では、最も厄介な――というのはシスコン指数の高さが、という意味だが――人物らしいから。一人だけ遠く離れているので(でも潤さんからは一番近いけど)、実家の方にだけ送るとなると、彼だけ潤さんからのお土産をもらうことが出来ない。それは可哀想だと提案したは良いものの、そうなると今度は彼だけが特別になってしまう。たぶんそれはそれでちょっと厄介な結果になりそう、というか。
「よし、この際だ。いくつか買って帰ろう。朋兄には直接渡しに行けば良いしな」
そんなことを話しながら部屋に戻る。鍵を開け、それを下駄箱の上にあるくぼみに差し込むと、ふわり、と室内に灯りがともった。
スリッパを脱ぎ、それを揃えていると聞こえてきたのは、ぱち、という音。それと共に、明るかった室内が再び闇に包まれる。鍵の刺さったくぼみの下にある非常灯の淡い光の中でうっすら見えるのは、電気のスイッチに手を伸ばしている潤さんだ。
いつの間にか浴衣を脱いでいて、一糸まとわぬ姿になっている。
「おいで」
こちらに手を差し出してそんなことを言われれば、やっぱり俺の方がヒロインなんじゃないかなんて思えてしまう。
いや、このままだと確実にヒロインポジションのまま終わるだろう。
そうはさせるか。
そう思わないでもない。
だから、差し出されたその手を取って、ぐい、と抱き寄せた。
俺からキスをして、彼女がそれに応えるようにキスを返してくる。それを何度か繰り返す。布団までの距離がもどかしい。
「――わぁっ!?」
もう待てない、と、潤さんを横抱きにし、畳の上を歩く。
彼女が俺の首に腕を回し、首筋にキスをしてくる。そっちに意識を持っていかれそうになるが、ぐっと堪えなければならない。流されてしまったら、潤さんを畳の上で抱くことになってしまうからだ。
気持ち急いで移動し、つま先が布団の端に触れたところで、ゆっくりと彼女を下ろし、その上に覆いかぶさった。
「寒くないですか」
「全然。暑いくらいだよ。藍は?」
「……暑いです」
身体の中が燃えるように暑い。
熱がこもっているようだ。
「だったら脱げば良いじゃないか」
と、潤さんの手が衿に伸びる。するり、と右肩が出、次いで、左肩。袖を抜けば、後は帯を
「いまこれ解きますから、ちょっと待ってください」
帯の端に手をかけたところで、その手を掴まれた。
「そのままで良いよ。もう、少しも待てない」
と言い終わるかというところで今度は潤さんが上になった。
ここでも気を抜けば主導権を握られかねない。油断大敵なのだ。目の前にいる人は敵じゃないんだけど。
次々と落とされるキスの雨に、負けるか、と呟いた。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
藍の肌は温かく少し汗ばんでいる。
付き合いが始まって、もう数ヶ月経つ。なのに、頑なに彼は私の素肌に触れようとしなかった。それだけ大切にしてくれているのだろうか。こんな可愛げのない年上女を。まるで壊れ物かと思うほどに丁寧に扱ってくれることに対して、感謝しかないわけだが、それでも少々物足りない気持ちもある。
そりゃもちろん、そういうことは少なくとも婚約してからであるとか、もしくはきちんと籍を入れてから――という考えを持っている人もいるだろう。もし藍がそういう考えを持っているのであれば、そこは尊重すべきだ。けれども、そういうわけではないらしい。私も同様である。
だから、やっとこの時が来た、ということなのだ。
スマートフォンの充電ランプであるとか、電気のスイッチの下に貼られている蓄光テープのかすかな光しかない闇の中である。顔なんか見えないのに、藍はたぶんものすごく真剣な目で私を見つめているのだろう。あのいつもきりりとした目で。
それがわかるから、この闇の中でも、私は決して目を瞑ったりはしない。
キスとキスの間の息継ぎがもどかしい。
どうして息をしなければ、人は死んでしまうのか。
そのわずかな瞬間さえも離れたくなくて、私は彼の首に手を回した。彼が逃げないように。逃がさないように。
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