◆6◆ 湯気の向こうに見えるもの。
扉を開けると、湯気がふわりと脱衣場に入り込んで来る。狭い脱衣場の小さな鏡がうっすらと曇り始めたことに気付き、慌てて浴場に身を滑り込ませ、扉を閉めた。
湯気の向こうに見えるのは、肩から上が露出している潤さんの後ろ姿だ。
湯気のせいか、髪の毛がぺたりとしている。
白い肩が艶めかしい緩やかなラインを描いていて、一歩、また一歩と彼女に近付けば、かちり、かちり、とカウントダウンが始まっていくような気がする。何のカウントダウンかといえば――それはすなわち、俺の理性のタガが外れるまでの、という。
いや、まさか、こんなところで。
それは駄目だ。絶対に。
「藍? どした?」
扉が開く音がしたのに、身体を流すでもなく、湯に近付くでもない俺を不思議に思ったのだろう、潤さんはそれでもこちらを向かずにそう尋ねてきた。
「い、いえ、何も……」
慌ててかけ湯から湯を汲み、ざばり、とかぶる。そして「失礼します」と断ってから、そぅっと足を入れ、その隣に並んだ。
「やっと来たな、藍」
「えぇ、はい」
恐る恐る隣を見ると、潤さんはとても満足そうな顔をしている。岩の上に腰を掛け、広い湯の中に足を投げ出して。それをゆらゆらを揺らしているようだった。目のやり場に困る。せめて濁り湯だったら……と思わないでもない。
「やっぱり広い湯は良いなぁ」
「……そうですね」
「しかしあれだな、藍は――」
そこで潤さんは言葉を区切り、ばしゃ、と湯で顔を洗った。
「何ですか?」
「――ん? いや、『うあぁ』とか、そういうの言わないんだなって」
「『うあぁ』ですか? 潤さん言うんですか?」
「勝手に出ちゃうんだよね、何でか。聞こえなかった? 皆出るもんだと思ってたんだけど、女湯じゃ誰も言わないんだ。だから男の人は言うのかなって」
それって男は男でも『オジサン』という部類の人間なのでは。とはちょっと言いづらい。
「聞こえませんでしたよ。それに俺は言わない……ですかね……」
「なぁんだ、そうか」
タオルを巻いているとはいえ、ほぼほぼ裸の状態で並んでいるというのに、潤さんは、ともすればオフィスにいるのと何ら変わらないようなテンションである。それはそれでちょっと寂しい気もするんだけど、ホッとしているのも事実だったりする。
「そうだ、明日帰る時にさ」
「はい?」
「ちょっと寄りたいところがあるんだけど、良いかな」
「良いですよ、どこですか?」
そう尋ねると、潤さんは再び、ばしゃり、と顔を洗った。
「うーんと……ショッピングモールかな。大きいところが良い」
「大きいショッピングモール、ですか」
「そう。いや、藍も用があるんじゃないか?」
「俺? ええと……あった、かなぁ……」
何だ? いや、そりゃショッピングモールとなれば、何もなくとも気付けば何かしら買っていたりするのである。だから、いまは用がないと思っていても結果的にはあったりする、というか。
ううん、と唸りつつ考えていると、潤さんは汗で額に張り付いた前髪をかき上げて、くしゃり、と笑った。
「……本当にない?」
「えっ?」
そして、少々探りを入れるように流し目を送りつつ。
「いや、待てよ。藍のことだからな、既に準備している、という可能性も……」
「潤さん? もしかしてアレですか? その……ホワイトデーの……」
「そう、それそれ。そろそろ買いに行かないとさ」
「なん……、いや、何でもないです」
危うく「何で潤さんが?」と問い掛けそうになる。何でも何も、彼女ももらっていたじゃないか。むしろオフィス内で一番。
「ええと、俺はもう一応準備してあります。潤さんへのも、会社の人へのも」
「おお、さすがだな。じゃあ申し訳ないけど、私の買い物に付き合ってもらえないか」
「もちろんです、行きましょう。せっかくですし、盛岡のレオンモールに行きましょうか、仙台のじゃなくて」
なんてことを話しながら、ふと思い出す。
自分達がいま、ほぼ裸である、ということを。
やっぱり、全然色っぽい感じにならない。
それは、相手がきっと潤さんだからだろう。
本来なら、たぶん残念に思うところなんだろう。
だけど。
これはこれで良い。
「盛岡のレオンなら――」
「はい?」
ふいに手を握られた。
驚いて隣を見る。
潤さんの白い肌が見える。
すっきりとした鎖骨のライン。
胸元はバスタオルで隠されているが、例えばその……谷間が見えるとか、そういうことはない。潤さんはまぁ、いわゆる、モデル体型というのか、正直胸は大きくないのだ。むしろそれが良い、というか。何言ってんだ、俺は。
「手を繋いで歩けたりするな。ははは、デートっぽい」
「そ……うですね……」
っぽい、って何ですか。デートですよ、デート。
「デートといえばさ、あれやってみたいな。何か変な形のストローで向かい合って一緒に飲むやつ。ハートとかの形になってる」
「――っふ! 古くないですか! 潤さん!?」
「あれ? 古い?」
「多分、いまはもうそういうのはないと思います」
「なぁんだ。それじゃ向かい合ってコーヒー飲むだけで良いや」
「いつもと同じですね、それって」
「ははは、そうだね」
熱くなってきたのか、潤さんは赤い顔で笑っている。向かい合ってコーヒーを飲むくらい、オフィス内では日常茶飯事だ。
「そろそろ熱くなってきたなぁ」
手を離し、ざば、と腰を浮かせる。そのまま上がるのかと思いきや、潤さんはその隣にあるもう少し高めの岩の上に移動した。さっきまで湯の中にあった部分が露になる。半身浴、という状態になった潤さんは、ちょいちょいと俺を手招いて、さっきまで自分が腰掛けていた岩を指差した。俺がそこに腰掛けると、胸から上が出るのだが、一般的に男性は胸元にタオルを巻かないため、当然、素肌をさらしているわけで。
どういうわけか、その辺りを潤さんがじぃっと見つめてくるのである。
ちょっと恥ずかしいんですけど……何……?
まじまじと凝視した後で一体何を言うかと思えば――、
「藍は鎖骨がきれいだな」
「――んなっ……!!!??」
何言ってるんですかぁっ!?
「明日着る服って、鎖骨出る?」
「え? いえ。たぶん出ません……けど……?」
「そうか、良かった」
「良かった? 何でですか?」
そう尋ねつつも、もしかして、と思うのは――、
もしかして、俺の鎖骨を誰にも見せたくない、とか?
そういえば慰安旅行の際に、俺は潤さんに言ったのだ。潤さんの肌を他の男に見られたくない、と。潤さんも同じように思ってくれているのだろうか。
そんなことを考えて頬が緩みそうになる。
が。
「いや、心おきなくキスマークが付けられるな、って思って」
「――は? はいぃっ?! っとぉっ!?」
思わず慌てて立ち上がり、その拍子に腰に巻いていたバスタオルがずり落ちそうになる。すんでのところで何とか押さえたけれど、一番隠したいところと同率一位で隠したい箇所をどうにか守り切った形である。
「どうした? 大丈夫?」
「大丈夫……じゃないです。何てこと言うんですか、もう」
「ええ? 駄目だった?」
「駄目っていうか……。ここでは駄目です」
どうにかタオルを直し、ざぶりと身体を沈める。
まったく心臓に悪いというか、何というか。
「そうか。それじゃ、ぼちぼち上がろう。私が先に出るから、藍はゆっくり上がると良いよ」
そう言うと、潤さんはすっくと立ちあがって湯船から出、バスタオルの裾をぎゅ、と絞った。が、もちろん、そんな裾だけをちょっと絞ったくらいで水気が切れるわけもないのだが。
ひたひたという足音が遠ざかり、脱衣場へと続く扉の開閉音が聞こえたところで、俺はゆっくりと立ち上がった。
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