◆5◆ 片岡藍が隠したい『もの』。
「私が先に入っているから、少し時間をあけて入っておいで」
と、潤さんは言った。
貸し切りとはいえ、脱衣場は男女で分けられている。
「そっちに時計があるかわからないけど、まぁ、2、3分かな。身体を軽く流すくらいだから」
そう言うと、「じゃ」と手を振って、スリッパをぺたぺたと鳴らし、暖簾をくぐってしまった。
これは気を遣われたのかもしれない。
散々潤さんの裸を恥ずかしがっていたのだ、タイミングが合ってしまったら否応なしにも見ることになるし、俺が先に入るとしてもまぁ同じことだろう。
だから、すべて済ませて湯に浸かっていてくれるつもりなのだ。
情けない、と思う。
いい年して……と、年が関係あるのかは置いといて。だけど、男らしくびしっとタオルなんか取っ払って堂々と入れたら良いのかというと、それも違うとは思うけれども。
暖簾をくぐり、脱衣場へと入る。
大人数が利用することを想定していないのだろう、脱衣かごも3つしか置いていない。本当にただ服を脱ぐだけ、というその場所は、頼りない豆電球の明かりしかないのだが、それも妙に風情があるというか。
濃紺色の帯を、しゅる、と解き、浴衣を脱ぐ。下着に手をかけたところで、ふと、自分の左腿を見た。
左の膝上10センチ辺りから腰にかけて斜めに走る傷痕。
それが何によって出来たものなのかと問われれば――、
まぁ、何ていうか、その、喧嘩、というか。
そりゃこの目つきだから、やっぱり多少やんちゃな先輩から絡まれたりすることはあった。けれども、こっちが手を出さなければちょっと睨まれたり小突かれる程度で済む。いつもそうしてやり過ごしてきたのである。
だけど、あの時だけは。
桃がいたから。
桃が震えていたから。
だから、止めてください、と言った。
だけのつもりだった。
絡まれるとはいっても、メンバーは固定で、一昔前の言葉でわかりやすく言えば、『番長』とその取り巻きが数人といった感じである。絡んでは来るものの、少々形式的、というか、ちょっとしたふざけ合いのような程度である。彼らのターゲットとなったことで、その他の、もう少し厄介な先輩達は逆に手を出せなかったらしい。おかしな言い方だが、俺はその『番長』に守られていたのかもしれない。
けれど、ただ、その時は相手が悪かった。
その人は、その取り巻きの1人で、『番長』の陰に隠れ、俺を睨んでいるだけの人だったが、彼はいつもこっそりナイフを携帯していて、その先輩がいないところではこれ見よがしにそれをちらつかせてきた。自分の方が立場が上なのだということを
それを忘れていたわけではなかったけれども。
でもまさか、それを振り回すとも思っていなかった。
ましてや、
いつも黙って小突かれていた俺が、反抗的な態度をとったことに腹を立てたのだろう。
人を殴ったのは後にも先にもその時だけだ。
たぶん、桃を庇おうと背中を向けたら刺されて終わりだろうと思ったのだ。
だから、どうにかその手を掴んで、一発だけ殴った。
正当防衛とはいえ、俺は、自分よりも力の弱い人間に暴力を振るってしまったのである。
地べたにぺたりと座り、戦意を喪失したとばかり思っていたその先輩は、すみませんでした、と近付いた俺を、たぶん振り払いたかっただけなのだ。あっちに行けよ、と。
だけど、その手にはまだナイフが握られていた。緊張のあまり指が固まってしまって、離せなかったのだろう。彼もそう言っていたし、俺もそう思う。
ただナイフの切れ味が良すぎただけなんだ。
買ったばかりだったみたいだし、それまで全く使っていなかったんだから。
学生ズボンが切り裂かれ、その下に赤い線が、すぅ、と走った。痛い、というよりも、どちらかといえば『熱い』と思った。もちろんただの学生ズボンだから、防刃素材なわけはないのだが、それでも多少は丈夫な素材だったため、そう大して深く切られたわけでもない。
だけど残念なことに痕は残ってしまった。うっすらとではあるけども、消えない。
いまでもまぁ多少は引き攣る。
あの時、自分がどんな行動をとっていたら、良かったのだろう。
こんな傷も残らず、あの先輩も退学になんてなることもなく。
桃はしばらく俺から離れなかったし、救急車の音が聞こえると俺が連れていかれると思って泣くようになった。それは数ヶ月でおさまったけど。
仲の良い男友達は口をそろえて「藍のせいじゃない」「片岡は悪くない」と言ってくれた。だけど、クラスの女子は、それまでもちょっと距離はあったけど、なおさら俺に近寄らなくなった。
だってやっぱりこれは俺の暴力が招いた結果であるわけだから。
だから、きっと、潤さんは、それを知ったら俺に失望するだろう。
やっぱり元ヤンなんだ、とか思ったりするかもしれない。
他の誰にそう思われても良いけど、潤さんには。
潤さんだけには。
そう思い、腰にぐるりとタオルを巻いた。
大丈夫、こうやって隠せばバレない。
肌を重ねる時も、明かりさえ消えていれば、きっと。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます