◇4◇ 君の香りと、自分の香りと。

「なぁ、藍――」


 と、窓を見つめたまま、その名を呼ぶ。


「はい?」


 その声は、部屋の奥――つまり、2組の布団の方から聞こえてきた。もうどちらの布団にするか決めたらしく、その上にちょこんと正座をしている。


「月が出て来た。さっきまで隠れてたんだけど」

「あぁ、本当ですね。ええと――上弦の月、でしたっけ」

「どうだろ。良くわかんないな。藍は詳しい?」

「詳しかったら疑問形になりませんよ。テスト前に必死で勉強して乗り切った口です」

「奇遇だね、私もだ」


 しゃ、しゃ、と畳の上を歩く音が聞こえる。ふわ、と風を感じて隣を見ると、藍が隣にいた。そしてその場にすとんと腰を下ろす。


「潤さん、お風呂行きますか?」

「そうだね。だいぶお腹も落ち着いたし、行こうかな」


 藍は、どうする? と聞こうとしたところで、ぎゅ、と手を握られた。


『一緒に入りますか?』


 と、テーブルの上に置かれたのは『PenTalk 3.0』である。おいおい、こんなところにまで持って来たのか。ていうか、この『3.0』さては私物だな、カバーが違う。


 営業部の社員には全員この我があけぼの文具堂が誇る電子メモパッド『Pen Talk』が支給されている。最近まではほとんどの社員が前機種である『2.0』を使っていたのだが、この度、ようやく全員に『3.0』が行き渡ったのだ。それには一台一台にナンバーが刻印されたブルーグレーの合皮製カバーが付けられている。

 だからもちろんその『PenTalk』は業務中に使用するものであるわけだが、そうはいっても『常識の範囲内であれば』というよくわからない制約のもと、プライベートでの使用もOKとされている。なので、よほどの場合でもなければ営業社員は『PenTalk』を買わない。


 つまり、藍は自分の使用頻度が、『常識の範囲内』に収まらない、と判断したということだろう。


 私と対峙する時、彼はいまでも、ここぞ、という時に筆談になるのだ。

 付き合い始めの頃に比べれば、その頻度はかなり減ったけれども。


 見れば、藍の顔は真っ赤に――いや、厳密には顔だけではなかったが――なっていた。視線を合わすまいと、顔を明後日の方に向けて。


 その手を握り返して軽く引っ張ると、彼は驚いたような顔をしてこちらを向いた。そのまま空いている方の手を首に回し、軽く口づけをする。


「もちろん。行こう」

「ちょ、ちょっと潤さん。早いですよ!」

「早い? 何が?」

「こういうのは、まだ、時間的に……っ!」

「藍は時間にこだわるタイプなんだな。大丈夫、はもっと遅い時間にするから」


 そんなことを言えば、彼の顔はさらに赤くなる。

 可愛いなぁ、なんて言葉が飛び出しそうになって、慌てて飲み込んだ。日頃から年下であることを気にしている藍なのだ。可愛いなんて言われても困るだけだろう。しかし、可愛いのは事実なもんだから、それもそれで困ったものである。


「よし、ここで盛り上がっても仕方がないんだ、行こう行こう。フロントで空き状況も確認しないと」


 手を握ったまま立ち上がる。藍は、赤い顔のまま、手が、なんて言っている。


「良いだろ、知り合いがいるわけでもないし」

「あの、俺は……良いんですけど。潤さん、こういうの苦手だって前に……」

「過度のはね。でもこれくらいは平気。ただあまり期待はしないでよ。可愛く甘えるとか、そういうのは無理だから」


 甘える、というのは難しい。

 具体的に何をすれば良いのかわからない。

 しなだれかかって何かをおねだりすれば良いのだろうか。でも、欲しいものがあるのなら、自分で買えば良いわけだし。しなだれかかる意味もわからない。

 頼る、というのがそれに近いような気もするのだが、料理以外ならそれなりに何でも出来るのだ。そうだな、料理に関していえば、私は藍に甘えているけど。


「俺はそういう潤さんが好きなんですから、良いんですよ。それに――」


 そこで藍は、しゃん、と背筋を伸ばした。

 その動きに合わせてふわりと香るのは、ここの温泉の備え付けのシャンプーだ。大手化粧品メーカーが作っているものだが、ドラッグストアなどでは置いていない、大容量のボトルのやつ。香りはたぶんフローラルとかそういうのだと思う。私の髪からも香っているはずだし、すれ違った他の宿泊客からも同じ香りがした。

 けれど、そんな『同じ香り』にもかかわらず、それが藍から香ってくるというだけで不思議とどきりとするのだ。香水なんてものに頼らずとも、私は彼に惹き付けられてしまう。藍もそうなら良いな、なんて考えたりもして、何だかむず痒い。らしくない。本当に。


「潤さんは実は結構可愛いんですよ」

「えぇ? 『恰好良い』じゃなくて? 自分で言うのも何だけど、それなら良く言われるんだけどな」


 見上げると、藍はまだうっすら赤い顔のまま、穏やかな笑みを浮かべていた。慈しむような目だ。誰を? 私を?


「可愛いなんて、そんなの兄貴達からしか言われないし」


 だからそれは、可愛い妹、という意味での『可愛い』なのだ。


「それとは意味が違うやつです。潤さんは、基本恰好良いんですけど、可愛い瞬間があるんですよ」

「そう……なのかなぁ? あんまり信じられないけど、藍がそう言うんだから、そうなんだろうな。でも――」


 そこでふと言葉を区切る。


「でも?」

「いや、何でもない」


 藍は深く追求しては来ず、ただちょっと釈然としないような、そんな顔で、軽く首を傾げるに止まってくれた。やはり藍は優しい。


 だって、 


 だとしたら、それは藍だけが気付く私なら良いのに。


 そう思ったなんて、ちょっと恥ずかしくて言えなかったのだ。

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