◇8◆ 私達はいま幸せの中にいる。
「……電気点けるよ」
よろよろと立ち上がって、うっすらとその存在を知らせてくれている蓄光テープの明かりを頼りに電気のスイッチに触れる。
「ちょ、ちょっと待ってください」
少し掠れた声の後に、浴衣を直しているのだろう、ばさばさ、という音が聞こえてきた。そういえば、私も着た方が良いな、と手に持っていた浴衣を羽織った。帯は……その辺に投げてしまったため、この暗さではどこにあるのかわからない。
「大丈夫です」
その言葉を待って、電気のスイッチを入れると、部屋は、煌々とした蛍光灯の明かりに包まれた。闇は、玄関と洗面所の辺りにまだひっそりと残っているが、生活感のある昼白色の明かりの下の、乱れた布団の組み合わせが何だかちぐはぐである。ちょっと気まずいのか、照れたような顔で俯いている藍の姿もまた何とも可愛らしい――、は男性への言葉として不適切かもしれないが。
布団の端の方で丸まっていた帯を拾い上げて素早く巻き付けると、その隣に座った。
さて、こういう時って、どんな言葉をかければ良いのだろう。
乱れた姿のまま、がぁがぁといびきを立てて眠ってしまうわけでもなく、さっさと立ち上がって煙草を吸いにいくわけでもなく、藍は、ただひたすら恥ずかしそうにもじもじと俯いていた。
いたのだが。
私が隣に座った途端に、彼は強く抱きしめてきた。
「藍?」
それに答えることもなく。
「藍? おぉーい、どうしたぁ?」
も、もしかして。
藍、初めてだったとか?
どうしよう、そこまで考えてなかった。
それとも何かまずいことしたかな?
もしかして、変なとこ触った?
いずれにしても、返答がないことには、何もわからない。
「藍、ちょっと。藍? ねぇってば」
背中に回した手で、とんとんと叩く。さんざん叩いてから、そういえば
「どうした? 藍? 『PenTalk』いるかい?」
そう尋ねると、彼はやっとその手を緩めてこくりと頷き、テーブルの上の『PenTalk』に手を伸ばした。
藍は、背中を丸めてペンを走らせ、最後に、カツ、と画面をタップした。『3.0』の性能もあるのだが、最近では彼の字もだいぶ読みやすくなってきている。
そして、メドゥーサの瞳を跳ね返す鏡の盾のごとく、自身の顔を隠すかのように配置されたその画面をじっと見る。
『幸せです。』
とそこにはあった。
何と大袈裟な、と思わないでもないが、それも事実だ。
事実、私達はいま幸せの中にいる。
だから、その『PenTalk』を手に取って、『私も。』とだけ書いた。
そしてそれを藍に見せてからテーブルの上に戻し、彼の頬に口づけをする。ふと、視線を下げると――、
「……いやぁ、ほんと、鎖骨の出ない服で良かった」
少しはだけている浴衣の衿元から見える彼の白い肌に――たぶんいま見えている鎖骨の辺りだけではないはずだが――赤い跡がうっすらとついていたからだ。
「え? あ!」
その言葉と私の視線でそれに気付いたらしく、藍がそこに触れる。いや、触ってわかるものでもないだろうに。
そういえば私の方は大丈夫なんだろうか。
さすがにデートということで休日着のパーカーではなく、ちょっとこじゃれたブラウスなのだ。そこまで胸元が開くわけではないものの(もう少し女性らしい身体付きならそういうデザインもいけるんだろうが)、それでも鎖骨くらいは出る。
そう思うとやはり自然と手はその辺りに触れるものだ。触ってわかるわけでもないのに。成る程、これは無意識なんだろうな。
すると、私のその行動で藍は、あっ、と腰を浮かせた。
「……す、すみません」
「え? 何?」
「あの、そ、その……潤さん、ここに……」
ちょん、と鎖骨を突かれる。
「ここに? どうした? 虫?」
「いえ、虫じゃなくて。あの、あ、跡が……」
ついているらしい。
私の鎖骨にも。
どうしましょう、冷やせば消えるかな、と、藍はわたわたと慌てている。フロントで氷をもらってきます、なんてことまで言い出したところで、「ちょっと落ち着いて」と座らせた。
「大丈夫、そんなこともあろうかと思って」
「え?」
「手は打ってあるから」
「えぇ?」
「何事も、準備が重要なんだ。ある程度の予測もね」
「準備? 予測?」
不思議そうな顔をしている藍を尻目に、よっこいしょ、と言いながら立ち上がって部屋の隅に置いていた鞄を持ってくる。中から取り出したのは、ガーゼ素材のロングストールだ。皺加工されているので、多少雑に畳んでも良いのがガサツな自分にぴったりである。さすがに花柄を選ぶのは恥ずかしく、白地にボタニカル柄だ。昔の自分なら無地かストライプだっただろうから、これでも自分の中ではかなり女らしいチョイスだと思う。
「ほら、これを巻けば問題ない」
「さ、さすがですね……」
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
あの小さな鞄の中から得意気にストールを取り出して、潤さんはそれをふわりと巻いて見せた。
私服の――というのは、もちろんあのパーカーにジーンズというコンビニスタイルばかりではなく――潤さんも見ているが、ストールというアイテムは初めて見た。
例えば通勤時、少々肌寒くても、本格的にマフラーを必要とする季節でなければ潤さんはコートの襟を立ててやり過ごす。他の女性社員は色とりどりのストールやスカーフなどでおしゃれを楽しみつつ防寒対策もするのだが、潤さんはそういうことをしない。だから、それがすごく女性らしく見えた……っていうか、潤さんはれっきとした女性なんだけど。
「マフラーならまだしも、こういうの巻き慣れてないから、ちょっと恥ずかしいなぁ」
なんて言って、本当に恥ずかしそうに笑う潤さんが可愛い。そうか、それで隠せるなら……、なんて邪なことを考えてしまうほどに。
でもそれが許されるだろうか、と思いながら、潤さんを見ると――、
「隠せるなら、もっとつければ良かったって思ったろ」
なんて、とんでもないことを言って、彼女は、ふふん、と鼻を鳴らした。
「そ、そんなこと……っ!」
思ってないわけじゃないけど。
「なぁんだ、違うのか」
そんな残念そうな顔を見れば。
「その……つければ良かった、じゃなくて……」
すれば良かった、なんてそんな過去形じゃないんです。
「許されるなら――」
と、我ながらやっぱりちょっとヘタレなワンクッションを挟みつつ、彼女を抱き寄せて、その華奢な鎖骨を甘く噛むと、
「いますぐつけたい、って思ってました」
と言った。
潤さんはちょっと照れたように笑ってから「明るいけど良いのかい?」とスイッチのある方に視線を滑らせたけれども、この状態で彼女を放置して消しに行くなんて、無粋なことが出来る俺ではない。だから――、
「このままで良いです。俺が無理です」
と言って、彼女の目を覆った。
脱がなければ大丈夫だと、自分に言い聞かせながら。
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