◆2◇ 確かめたい、本当のところ

 非常事態だ。


 今日は天気も良かったので自転車で来ていたが、泊まりの予定だったので数本のアルコールはテーブルの上にあった。潤さんは2本ほど飲んでいたが、俺はメニュー的にちょっと合わない気がして控えていたのだ。

 本当に飲まなくて良かったとペダルをこぎながら思う。


 これが妹の桃だったら有無を言わさず夜間救急に連れて行くんだけど、確かにあれくらいであれば一晩様子を見た方が良いだろう。


 結構なスピードで5分ほどこいだところにあるドラッグストアに駆け込む。

 さっき開けた引き出しはどうやら救急箱の代わりらしいのだが、まともに使えるのは体温計と絆創膏、それからチューブタイプの軟膏に綿棒くらいだ。内服薬は期限が切れていたり、外箱がないために使用期限がわからず危険である。だからもういっそ、最低限のものは買っていこう。総合感冒薬と、それからもしもの時の解熱鎮痛薬くらいは。

 あとは、額に貼る冷却ジェルシートと、栄養ドリンクも数本。スポーツドリンクと桃缶、と。そういえば、潤さんは桃缶って白桃派だろうか桜桃派だろうか。


 ついつい色々買い込んでしまい、がさがさと袋を鳴らしながら部屋へと戻る。

 大丈夫だろうか。

 熱が上がったりしていないだろうか。


 そう思い、買い物袋をそうっとリビングに置き、ゆっくりと寝室のドアを開けた。

 

 横になっているとばかり思っていた潤さんは、ヘッドボードを背もたれにして、サイドテーブルにあるライトの明かりで本を読んでいた。


「お帰り」

「戻りました。起きてたんですね、潤さん」

「うん、まぁ……。さすがにこの時間ってまだ寝られないというか」


 そう言って、ちょっと照れたように笑う。

 いつもと同じ部屋着の、その襟から鎖骨が見えている。メンズサイズなので少し大きいのである。ゆるっと着られるのが良いらしく、部屋着はメンズを愛用しているのだ。

 恋人になってもう数ヶ月だが、まだ俺はプライベートで薄着をしている潤さんを知らない。俺の知ってる潤さんというのは、スーツをばしっと着こなしている潤さんか、長袖かつパンツスタイルという露出の低い潤さんなのだ。オフィス内は冷房が効いているので、潤さんに限らず女性社員はあまり薄着をしない。私服姿で会ったこともほとんどないので、潤さんの夏のワードローブも知らないのである。

 だから、これからもっと暖かくなって、夏が来たら、きっと彼女の鎖骨なんていくらでも拝めるのだろう。

 

 ……いや、旅行では見たけどさ。

 慰安旅行でも、こないだの温泉旅行でも。


 男性社員が集まれば話題は少なからず女性の話になるもので、慰安旅行の男部屋で、〇課の○○さんが可愛いとか、女性のどこがそそるか、などといった、中西主任の耳には絶対に入れられないようなテーマが誰からともなく振られると、俺は、どうか潤さんの名前が出ませんようにと必死に祈った。

 しかしそんな俺の祈りは届かず、一度だけ、ちらりと名前が上がってしまった。けれどもそれはバレンタインのチョコの多さに言及したもので、そう話は膨らまず、ホッと胸を撫で下ろしたものである。そういえばその時、増田さんがやたらと機嫌よく「実はとっておきの話があるんだ」なんて立ち上がったっけ。だけどそこでなぜか光ちゃんも立ち上がってどんどん酒を勧めるもんだから、増田さん、あっという間に潰れちゃったんだよなぁ。とっておきの話って、結局何だったんだろう。


 いや、そうじゃなくて!


「どこか辛いところとかありませんか?」


 そう尋ねると、潤さんはやっぱりちょっと困ったような顔をして首を横に振るのである。

 そして、俺をちょいちょいと手招きし、ここに座れ、とでも言うように、ベッドを指さした。


「色々買わせてしまって申し訳ないね。後でお金払うから」

「良いですよ、それくらい。それより、熱は……」


 と、額に触れる。

 そう大して熱くはない。さっきとあまり変わらない、というか……。


「たぶん、ないと思う。ごめん、言いそびれてたというか……」

「どうしたんですか?」


 潤さんは気まずそうに俺から視線を逸らし、いや、その、なんだ、と珍しく歯切れが悪い。


「実はその……よくあることというか……」

「よくあること?」

「平熱がもともと高くてね、ちょっと疲れたりすると37℃くらいまでは結構簡単に上がるんだ」

「そうなんですか!?」

「ごめん」

「謝ることないですよ」


 何だ良かった……、と胸を撫で下ろしたいところだけども、ちょっと待て。


「疲れてる……?」

「うん? どうした?」

「お疲れなんじゃないですか、潤さん!」

「え? えぇ? どうした、急に」


 良かった。疲労回復系の栄養ドリンク買ってきておいて!


「ちょっと待っててくださいね」




 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇


「ちょっと待っててくださいね」


 なんて言って、藍はすっくと立ち上がり、リビングへと行ってしまった。


 プライベートに限らず、藍はとにかくフットワークが軽い。

 頼まれたことは後回しにしないですぐに取り掛かるし、たとえばコピー機の紙詰まりだとか、用紙の補充、インク交換なんかも進んでやる。自分がコピーを取りに行く際には周りの人間にも必ず声をかける。牧田君なんかはそれを待っている節すらある。彼には、あまり人を頼りすぎるなと釘は刺したが。


「お待たせしました」


 と、持ってきたのはなんてことはない、栄養ドリンクだった。


「風邪引いた時って、体力が落ちますからね。昔、薬剤師さんに勧められたやつなんです。カフェインが入ってませんから大丈夫ですよ」


 そんな言葉と共に渡される。

 何でそんなに気が利くのだろう。


「なぁ、藍」

「何でしょうか」

「まぁちょっと落ち着いて座ってよ。これは有難くいただくけど、その前にちょっと話がしたい」

「どうしたんですか、そんなにかしこまって」


 藍がベッドの端に腰掛け、彼の重さでマットレスが沈む。自分の身体もそれにつられてしまいそうになって、ぐっと踏ん張り、持ちこたえた。いや、たとえもたれたって藍は嫌な顔なんてしないだろうが。


「その……藍は私のことをどう思っている?」

「は……はいぃ?!」


 巣頓狂な声を上げ、藍の身体が跳ねるようにびくりと動いた。


「何ですか、いきなり……」

「ちょっと気になって」

「えぇと……その……。だ、大好きですけど……えっと……」


 ちらり、と視線を合わせ、また逸らす。


?」

「けど……その……」


 もごもご、と言い淀む。その様を見て――、


 あぁ、やはりか、と思う。


 歴代の恋人達が最終的にたどり着くのは、いつもここなのだ。

 すなわち。


 潤には色気が感じられない、と。


 そりゃ最初はガツガツと迫ってくる。

 こちらが拒もうがはぐらかそうが、お構いなしに。その辺の可愛らしい女性と比べて多少力があっても、私だって女なのだ。抵抗するにも限界はある。結局最後は押し負けてしまうこともある。

 けれど、そんな日が続くと。


 タイミングとしては、例の『専業主夫宣言』の辺りで、もう一切触れてこなくなるのだ。自分で蒔いた種なわけだから、それも仕方がないかと思うのだが。

 けれど、だからといって、それを他の女性に求めるのはどうかと思う。


「あいつとは遊びだから」

「俺が本当に帰ってくるのは潤のところだよ」

「だってお前が嫌がるから仕方ないだろ」

「だったら大人しくヤらせろよ」

 

 そこまで言われても関係を続けたいと思う人間は果たしてどれくらいいるのだろう。自分はそう思うのだが、だったら別れようと切り出すと、彼らは私がそんなことを言うと思わなかったようで、一様に「何で?!」と返してくるのだ。むしろ「何で?!」とこっちが聞きたいくらいである。


 とにもかくにも、これまで8割くらいはこのパターンで別れてきた。


 もしかしたら藍もこの段階まで来ているのではないだろうか。

 だって、旅行から戻ってきても、何も変わらないのだ。

 何も。


 そんなことを考えると、ぞわりと背中が冷える。


「……潤さん?」


 探るような、気遣うようなその声で我に返る。


「やっぱりどこか具合が悪いんですか?」

「い、いや? 何で?」

「眉間に皺が……。何か苦しそうですけど」


 指摘され、慌てて力を抜く。ということは、当然、それまでは力が入っていた、ということだ。

 私は藍からの返答を待つというただそれだけのことで、全身に力を込めて身構えていたのだ。

 ? 何に対して?


「全然大丈夫だから」

「そうは見えませんよ。震えてませんか? 寒いですか?」


 藍の手が、腕に触れる。あ、と声が出そうになり、再び力が入る。それが伝わったのだろう、藍は「すみません」と言って、その手を引っ込めた。

 心配そうな、悲しそうな顔。

 その表情にずきりと胸が痛む。


「ごめん」

「どうして潤さんが謝るんですか」

「藍が傷ついたんじゃないかと思って」

「傷つきませんよ、俺は」


 そんなことを言って、でも寂しげに笑う。拒まれたと思ったのではないか。だとしたら、繊細で優しい藍のことだから、やはり傷ついたのではないだろうか。


「藍、もっとこっち」

「こっちって……、もう充分近いというか……これ以上は……」


 確かに。

 確かに充分至近距離ではある。

 けれど、詰められないというわけでもない。密着させれば良い。


 腕を伸ばし、藍の身体を捕まえる。彼は「わぁ」と短く叫んで身体を強張らせた。


「じゅ、潤さん!?」

「……嫌だった?」

「嫌だなんて! そんな!」

「嫌じゃないなら、藍も」

「お、俺も!?」

「そう。藍も」


 恐る恐る、藍が触れてくる。さっきは何のためらいもなく抱き上げた癖に。そう思って気付かれないように苦笑した。


「潤さん……その……」

「何?」

「これ以上は……ちょっと……」

「どうした?」

「あの……加減、というか……何ていうか……その……抑えが……」


 ぎゅ、と藍の腕に力がこもる。

 抑えなくては、と律してくれているとわかり、ホッとする。


「抑えなくて良いじゃないか」

「えっ」


 短くそう呟いて、藍は、うう、と少し唸った。そして「体調は大丈夫なんですか」と私の身体を気遣う。


「大丈夫。ちょっと疲れてたり考え事してただけだから。それより――」


 少し身体を離し、視線を合わせる。

 藍は眉を八の字に下げて、困ったような顔をしていた。ライトに照らされた瞳が潤んでいる。


 彼の手が私の後頭部に回り、そして唇が重なったタイミングで――、


 そう、こんな抜群のタイミングで。



 私のスマホが鳴った。


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