【4月】立ちはだかるのは、大きな山か。

【ほんの日常】イベントの前の静けさ、の巻

◇1◇ とある可能性に気が付いて

 藍との温泉旅行から戻り、実家やとも兄へお土産も配り終えると、またすっかり日常である。


 私達の交際は、実に順調といえるだろう。

 喧嘩もなく和やかな日々。

 ではあるのだが。

 まぁ、少々穏やかすぎる気がしないでもない。

 

 それに正直ちょっと驚いているのは、藍が「一緒に住みませんか」とか、そういった類のことを一言も言わない、という点だ。


 というのも、いままで付き合って来た恋人達というのは、だいたい3ヶ月以内に「一緒に住もう」「同棲しないか」「何ならいっそ結婚しても」という提案をして来たのである。まぁ最後の『結婚』については論外だとしても、一応、「それはちょっと」と抵抗はした。

 けれども、気付けば相手の部屋着やら何やらが少しずつ少しずつ増えていき、もともと自分はあまり物を持たない主義のため、どちらかといえばこっちが間借りしているような状態になってしまうのである。一体いつの間に運び入れたのか、本棚やカラーボックスなどが増えていたりもし、驚いたものだ。


 それで半ばなし崩し的に、というのか、同棲はスタートしてしまう。出て行ってもらおうにも、向こうは向こうで既にアパートを退去していたりもするもんだから、これがなかなか難しい。

 で、ちょっと喧嘩になったりすると、「そんなこと言うならここから出ていけ」なんて逆に言われてしまうのだ。たぶん、私物の量が圧倒的に多いから、自分の部屋だと勘違いしてしまうんだろう。やれやれとため息まじりで賃貸契約書をチラつかせ、逆に退去を命じることになるわけだ。

 そうまでするとさすがに自分の立場を思い出すのか、顔色を変えて縋ってくる、というのがお決まりの流れで、どうして別の人間なのに同じ行動をするのだろうかと理解に苦しむ。


 けれど、藍は違う。

 そりゃ金曜日や土曜日の夜はここに泊まったりもする。『海外ドラマを一気にどこまで見られるか合宿』と称して2泊していったこともある。さすがに日曜日は2人共昼過ぎまで寝ることになって、1シーズンが限界ということを知った。

 だけど、日曜、一緒に夕食を食べたら、「では、また明日会社で」と帰るのだ。

 終電ぎりぎり、なんていうこともなく、割と余裕を持って帰る。車で来た場合も同様に、だ。翌日の業務に支障が出ないように、と。藍はその辺もきっちり考えているのだ。これは旅行前も旅行後も変わらない。


 藍はウチに来ると、やたらべたべたと身体を触ったりキスを求めて来たりなどということもなく、持参したエプロンをさっと装着し、まずは昼食を作る。そして、録り溜めたバラエティ番組を一緒に見ながらそれを食べ、終わると後片付けをし、映画や買い物、ジムなど出掛ける予定がある時は一緒に出掛け、特に予定がない場合はやはり録り溜めていた2時間ドラマを見たり、ゲームをしたりする。そうこうしているうちに夕方になって、藍はまたもエプロンを着け、食事の仕度をし――……、


「も、もしかして」

「どうしたんですか、潤さん」


 呟いてから気が付いた。

 今日は金曜日。仕事を定時で終え、いまはまさにその『夕食』の真っ最中で、テレビはというと、ちょうどCMに入ったところだった。藍は早送りをしてCMを飛ばそうとしていたようで、リモコンを構えたままこちらを見ている。


「いや、ちょっと考え事を」

「考え事ですか。音うるさくなかったですか?」

「いや、全然。気にしないで」


 そういえば歴代のお付き合いというのもまぁ多少の差はあれども、それでもほぼ同じなのだ。というのは、やはりこうして恋人の作った料理を食べる、という部分においては。


 やれやれ、潤は料理が苦手なのかい。

 仕方がないなぁ、料理は俺に任せてよ。

 美味いだろ? これなら良いになれると思わないかい?

 潤、グッドニュースだよ、会社を辞めて来たんだ。

 これからは兼業じゃなくて、専業の主夫になれるよ!


 皆別人のはずなのに、なぜかこの流れを辿る。

 

 もしかして、彼らをそうさせているのは、私のせいなのではないか。


 ということにいまさら気が付いた。

 背中に嫌な汗が流れる。


「潤さん、何か顔色が悪いですよ」

「そ、そう? 全然普通だけど」

「普通の色じゃないです。熱は? ちょっと測ってみましょうか」

「いや、本当に大丈夫」

「それに全然食べてないじゃないですか。美味しくなかったですか? それとも食欲がないとか?」


 そう指摘され、視線をテーブルに移すと、確かにいつもよりも食べていない。お代わりをしたご飯はまだ半分残っているし、小分けにされているおかずもすべて二口分ほどが器の中にある。


「いや、そんなことはないよ。藍の料理はいつも美味し……」


 は、と気付く。

 この台詞も、幾度となくに向けて言っていた、ということを。


 ゆゆしき事態である。

 この調子だとさすがの藍も時間の問題かもしれない。

 

 専業主夫になる、と宣言し、何の相談もなく会社を辞め……。

 


 これはまずい。

 

「潤さん?」


 藍は心配そうに眉をしかめ、首を傾げて私の顔を覗き込んでいる。他課のみならず、彼の人となりをよく見知っている二課ウチの社員ですらも「やっぱりその目はちょっと怖いかも」と言うその瞳の奥は案外優しい色をしている。確かに多少キツい印象を受けるかもしれないが、私に向けられる視線はいつだって柔らかい。


「大丈夫じゃなさそうです」

「いや、本当に――」


 大丈夫、と続けようとした。事実、大丈夫ではあるわけだから。熱があるわけでもないし、どこか痛いというわけでもない。だけど。


「大丈夫じゃないです」


 藍はきっぱりとそう言って、テレビを消し、私の隣にすとんと座った。そして、額に手を当て、ううん、と唸っている。だから、熱はないんだってば。


「潤さん、ちょっと熱がありますよ」

「は? 嘘?」

「嘘じゃありませんよ。体温計ありますか?」

「ある。あっちの……引き出し。2段め」


 と、常備薬やら絆創膏などが入っている引き出しを指差すと、藍はすっと腰を上げ、「すみません、開けます」なんてわざわざ言ってからそこを開けた。そういうところも本当に藍らしいと思う。昔の恋人は、こういう引き出しも、タンスすらも勝手に開けていたから。……って、また私はどうしていちいち昔の恋人と藍を比べてしまうのだろう。


「はい、どうぞ。あの、俺、ちょっとトイレ行きますから」


 早口でそう言うと、藍は、そそくさと行ってしまった。多分、体温計を脇に挟むのを見られたら私が恥ずかしがると思っているのだろう。いや、普通恥ずかしがるものなのだろうか。別に裸になるわけでもないのに。ていうか、旅行で私の裸なんか見ただろうに。


「ふむ……。まぁ、あるといえば……ある、のかな?」


 熱は37.1℃。とはいえ、普段から平熱はまぁまぁ高い方だから、これくらいはどうってこともない。多少疲れているとか、頭を使いすぎたりすれば案外これくらいにはすぐ到達する体質なのだ。

 でも人によっては、これはもう一大事と病院に駆け込むなり、薬を買ってきてもらうなりするのだろう。

 

「どうでした?」


 そろり、と藍がドアから顔だけを出した。まだ警戒しているのか、律儀に目も瞑って。


「37.1℃」


 とだけ言うと、藍は目を見開いて「たっ」と短く叫び飛び出してきた。そしてわずかな距離を走ってから、慌ててドアを閉めに戻り、再び私のところへやって来た。そして、さすがにちょっとどきりとするくらい怒ったような顔をして私の両肩を掴んだ。


「病院行きましょう! 夜間! 救急! 大丈夫! 俺、飲んでません!」

「いや、大丈夫だって」

「駄目ですよ! 熱! 熱があるんですから!」

「いや私は平熱自体高い方で――」

「いまは微熱ですけど、ここから上がるかもしれませんから!」

「えぇ……。えっと、じゃあ、薬飲むからさ。ね? 入ってたろ? 風邪薬」

「さっきちらっと使用期限見ました。2年も前に切れてます! 駄目です!」

「嘘、切れてた?」


 だって風邪なんてめったに引かないし。


「とにかくちょっと落ち着いてよ。咳も鼻水も出てないしさ。頭が痛いとか、喉が痛いとかもないし」

「でも、桃はいつもこうやって最初に熱が出て、それから、くしゃみが止まらなくなって、寒い寒いって言うんです。それで、そこからはもう咳鼻水食欲不振に倦怠感が次々と――」

「まぁまぁ、私は桃ちゃんと違うからさ。私は、先に喉から来るんだ。いまはまったく違和感もないし、そこまで大事おおごとにしなくても良いから。でも、そうだな、大事を取って、今日は早めに寝ることにするよ。だからそんなに心配しなくて良いから」


 ね、と再度念を押して立ち上がる。全く過保護だなぁ、藍は。私は桃ちゃんじゃないし、それに君より年上で――、


「おお?」


 運びますから、なんて言って、ひょい、と横抱きにされた。


 藍の腕は案外良い筋肉がついている、らしい。大槻君の談だ。『見せる』筋肉ではなく、『使う』筋肉なのだとか。筋肉に『見せる』という選択肢があること自体、こちらとしては少々疑問なのだが、大槻君が言うのだから、まぁそうなんだろう。


 その証拠に、藍は重そうな顔なんてしていない。

 私は日本女性の平均身長よりは高い方だし、そこそこ筋肉もあるから、体重だってそれなりにあるはずなんだけど。彼は見た目よりずっと逞しい男なのである。


「とりあえず、朝まで様子見ましょう。良かったですね、今日が金曜で」

「そうだね、無理はしない方が良い。後は何とかするから、悪いけど藍、今日は――」

「え? 帰りませんよ?」

「何で? 仮に風邪だとして、藍に移ったら大変だよ」

「全然大変じゃありません。移らない自信があります。看病させてください」


 いつもよりもしゃんと背筋を伸ばしてすたすたと寝室へと向かう。重くないのだろうか。いや、重いはずだが。


「藍、重くないか? あの……さすがに歩けるんだけど」

「重くないです。俺だって男なんですから、潤さんなんて軽々ですよ」


 少し腰を屈めてレバー式のドアを開け、セミダブルのベッドの上に下ろされる。藍がいるからセミダブルを買ったわけではない。もともと広いベッドが好きなのである。1人で寝るにはゆったりして良いサイズなのだが、藍と2人で寝るとなると少々狭い。

 まぁ、それは良いんだけど。


「冷却シートと薬買って来ます。どこか辛いところはありませんか?」

「い、いや、いまのところは大丈夫……というか……」

「わかりました。潤さんは休んでてください。部屋の鍵、お借りします」


 藍はそう言うと、私の返答を待たずに寝室を出て行った。


 いやこれ絶対風邪じゃないんだけどなぁ。

 たぶん日頃の疲れが出ただけ、というか。

 でも、あんなに必死な顔をされたらちょっと言いづらい。


 ベッドサイドのライトを点け、ふと思い出す。

 確か、5年ほど前に、会社を休まざるを得ないほどの風邪を引いたことがあったな、と。

 けれどその当時の恋人は、


「移ったら大変だから、しばらくホテルにでも泊まるよ」


 と出て行ったのだ。

 やはりすでに転がり込んでいたのである。にも拘らず、だ。


 別に甲斐甲斐しく看病してほしかったわけではないが、それでも身体が弱れば気持ちも弱くなるもので、さすがの私も心細かったのだが。

 しかしお互い会社勤めということもあり、確かに移すわけにはいかない。そう思って、ふらつきながら病院とドラッグストアへ行ったものである。


 だけど藍は平然と言ったのだ。


「帰りませんよ?」と。


 移らない自信があるとも言っていたが、まぁそれは虚勢であるとしても。少しも嫌そうな、面倒そうな顔もせず。それが当たり前だとでもいうような態度で。


 それが何とも藍らしい、と思う。


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