◆6◆ すれ違いの、その結末は。

 結局チョコももらえないまま、気付けば退勤時間である。

 

 潤さんは今日一日何だか落ち着きがない。

 もしかしてチョコを渡そうとしてくれているのかとも思ったのだが、他の男性社員は全員もらっているのである。もらえていないのは自分だけ。


 ここまで来るとむしろ、そのチョコレートを忘れて来たか、はたまた最初から渡す気がないか、だ。


 潤さんと付き合って、数ヶ月。

 普通に考えれば、この時期が恋人としては一番ラブラブな時期のはずだ。

 潤さんがこういうイベントで浮かれるタイプじゃないのは知っているけれども、せめて皆と同じものくらいはもらえるんじゃないかと思っていた。のだが。


 そうなると、やはり『渡す気がない』方が有力となる。


 考えたくはないけど。

 だけど。


 お疲れ様でした、と電話中の潤さんに頭を下げ、オフィスを出る。

 潤さんは何か言いたげではあったけれども。


「藍ちゃーんっ!」


 呼び止められ、振り向く。

 その声の主が誰かなんてすぐにわかる。光ちゃんだ。俺を藍ちゃんなんて呼ぶのは彼しかいない。


「見て見て~、ほぉ~らっ、瀬川さんがね、チョコくれたの!」


 満面の笑みで見せつけられたのは、さすがに大袋チョコまではいかずともまぁまぁ義理とわかるようなチョコだ。可愛らしい動物のキャラクターの小さな紙袋に入っている。小学生の女子辺りが喜んで手に取りそうなパッケージだが、よくよく考えてみれば、これをもらうのは男子のはずだ。良いんだろうか。いや、現に光ちゃんは喜んでるから良いのか。


「良かったね、光ちゃん」

「うふふ~。どっからどう見ても義理だけどね。でも良いんだ、もらえただけでも」

「そうだよね、もらえるだけで良いんだよ」

「そぉ~んなこと言ってぇ。で? 藍ちゃんはどんなのもらったの? 皆と同じじゃないんでしょ?」


 あぁ、やっぱりそれ聞いちゃう?

 

「いや、それがね……実は……」


 この反応ですべてを悟ったらしい光ちゃんは「あぁ……」と言って数歩後退った。


「もしかして、夜渡すつもりだったんじゃない? ほら、お食事でもしながら、とかさぁ。もしかしたら、あのベタなやつかもよ? 何ていうの、こう……頭にリボンとか巻いてさ、私がプレゼントよ! なぁーんて」

「そういうタイプだと思う? 主任だよ?」

「いやぁ、2人きりの時は違うのかなって」

「変わらないよ、あの人は」


 そう言うと、光ちゃんは小さくため息をついた。

 それが移ったのか、俺もため息をつく。そして、今度は2人同時にため息をついたところで同時に力なく笑った。


「夕食に誘えば良かったかな」

「たぶんね。きっと主任はそのつもりだったんだよ。まさか藍ちゃんが妹さんから荷物が来るなんて思ってなかっただろうし」

「そうだよね……」

「いまから誘ってみたら? コーヒー飲みに行くだけでも。それかもしくは――」

「もしくは?」


 ちょいちょいと手招きされ、何だ? と近付く。光ちゃんはにやにやと笑いながら声を落とした。


「――えぇっ!? いやいやいやいや!」

「良いじゃん。付き合ってるんだしさぁ」

「いや、だけど!」

「あぁ、ほら、噂をすれば、だよ?」


 と、そぅっと指を差す方を見れば、ドアから飛び出して来た主任がきょろきょろと辺りを見回している。誰を探しているんだろう、なんてとぼけて良いんだろうか。それとも俺を探しているとうぬぼれても良いんだろうか。


「良いじゃん。さ、そんで、一緒に食べたら良いじゃん」

「いや、でも、片付いてないし」

「大丈夫だよ、少なくともウチのお姉ちゃんの部屋よりはきれいだよ、絶対」

「見てもいない癖に!」

「えっちぃ本が転がってなければいけるって」

「それは……大丈夫だけど……」

「でしょ、んじゃあ、ゴー! 行っけぇ、藍ちゃん!」

「――ぉおっとぉ!?」


 光ちゃんにしては強く背中を押された。不意打ちだったのでかなりバランスを崩し、つんのめる。ととと、とたたらを踏み、どうにか転ぶのだけは免れたけれど、これを見られていたらと思うと、かなり恰好悪い。


「しゅにーんっ! おっ疲れ様でしたぁ~」


 光ちゃんはわざと大きな声でそう言うと、俺に向かって「頑張って。明日報告聞くからね」と小悪魔のような笑みを浮かべ、去って行った。潤さんはというと、さすがにこちらに気付かないわけもなく、光ちゃんに「お疲れ様」と返し、早足でこちらに向かってきた。何だかその顔つきは険しい。


「あ、あぁ、主任、いま帰り、ですか?」

「まぁね。片岡君。行くぞ」


 ぐい、と手首を掴まれる。


「え? え? ど、どこにですか?」

「どこでも良い。この際なりふり構ってられるか」


 何だか怒ったような顔で、つかつかと歩く。よほど急いで来たのだろう、コートも手に持ったままだ。


「しゅ、主任。寒いですから、コートくらい着てください。ていうか、仕事は? 何か急ぎの電話だったんじゃ」

「明日に回した。いまはこっちが火急の用だ」

 

 一瞬手を離し、さっとコートを羽織ると、潤さんは再び俺の手首を掴んだ。かなりの握力である。加えて言うなら、引っ張る力も相当なものだ。あの、一応、俺、男なんですけど。どこからどう見ても、悪いことをした男の子がお母さんに手を引かれている図である。


 外へ出ると、身を切るような寒さが――というのは少々大袈裟にしても、かなり冷える。東北地方とはいえ太平洋側の宮城県はそんなに雪が降らない。だからまぁ、東北、というだけで『寒い』&『豪雪』をイメージすると、いざ宮城に足を踏み入れて拍子抜けする人が多い。それくらい雪は少ないのだ。潤さんなんかは雪の多い秋田県の産まれだから、「同じ東北でこうも違うとは」と驚いていたっけ。


「主任! ! これどこに向かってるんですか?」


 会社からだいぶ離れたところで名前を呼ぶと、潤さんはようやく止まってくれた。


「どこに……向かってたのかな?」

「知りませんよ。何かとにかく急いでるようでしたけど?」


 そう言うと、潤さんは気まずそうに頭を掻いた。


「ごめん。ちょっと今日は何かいっぱいいっぱいで。その、ただ……」


 そう言いながら、鞄の中に手を入れる。

 そこから取り出されるであろうモノは、さすがの俺でも想像がつく。


『もしかして、夜渡すつもりだったんじゃない? ほら、お食事でもしながら、とかさぁ』


 光ちゃんの言葉を思い出す。


 そういえば主任は昼に何を食べたのだろう。

 あんなにたくさんの女子社員とのランチだったのだ。どう考えても定食屋のわけはない。まさかとは思うけど、パンケーキとかそんなんじゃないだろうな。だとしたら、潤さんの胃の中はもう空っぽのはずだ。


 中で引っかかっているのか、それとも、出すのをためらっているのか、潤さんのその手はなかなか鞄から出て来ない。その手を押さえ、言う。


「潤さん、ご飯食べませんか」


 と。


「いや、でも、今日は駄目なんだろう? 荷物が来るとかで」

「ですから、もし良ければ、その、ウチで」

「藍のウチで?」

「はい。何か適当に作りますよ。もし何かいただけるのでしたら、その時で。どうでしょうか」

「もちろん。お邪魔させてもらうよ。でも急に行って大丈夫なのかい? ウチの兄貴だと、いきなり行くと烈火の如く――」

「そういえばお兄さんいるんですもんね」

「そうそう。質が悪いのが3人もね。藍は妹さんだったか」

「はい」

「良いなぁ、藍がお兄さんなんて。自慢の兄だろうね、妹さんからすれば」

「そんなことないですよ」


 俺が自慢の兄ではなくて、桃の方が自慢の妹なんです、と、かなり熱く語った気がする。

 校内の写生大会で金賞に選ばれたことや、合唱コンクールでは指揮者に指名されたこと、それから、いつもハキハキ明るくて、優しくて、そして――、


「何といっても、俺に全く似てなくて本当に良かったなぁって」


 その言葉と共に、アパートへ到着する。

 潤さんは少々不思議そうな顔をしていた。


「もう本当に、可愛い妹で――、あれ、潤さん、どうしました?」


 鍵を開け、玄関に招き入れる。

 潤さんはやっぱり不思議そうな顔をして首を傾げている。

 つま先の尖ったパンプスを脱ぎ、それをきちんと揃え、俺が勧めたスリッパに履き替えると、「なぁ、藍」と眉をしかめた。


「何でしょうか」

「私は藍の顔も好きだぞ?」

「へぇっ!?」

「そんなに卑下しなくても良いじゃないか」

「あ、ありがとうございます……」


 どうしてこの人はこんな恥ずかしいことをさらっと言ってくれるんだ。


「私もまぁ、兄とは全然似ていないけどな。ほら」


 と、スマートフォンを操作し、画像を表示させる。差し出されたその画面に写っていたのは――、


 左端から、熊のような大男、痩せた眼鏡の大男、そしてムキムキの大男。で、その3人に囲まれて、うんざりしたような顔の潤さんがちょこんと立っていた。


「で、デカいですね、お兄さん達……」

「だろ。190近くあるから、威圧感がすごいんだ、3人並ぶと。これが一番上の兄、けい。中学の教師をしている。柔道黒帯だから気を付けろ」


 熊みたいな大男だ。でも、気を付けるって、何に?


「この細いのが次男のとも。飲料メーカーの開発部で、いま仙台こっちにいる。あだ名はヤクザの弁護士」


 そう言われるともうそうとしか見えない。ベタなヤクザ漫画に出て来る弁護士のようだ。


「で、これがすぐ上のなお。秋田で会員制フィットネスジムのインストラクターをやってる。大槻君と会わせると一番まずい」

 

 確かに。

 筋肉トークで朝まで語り明かしそうだ。


「こうして見ると確かに潤さん似てないですね」

「だろ? 兄達は父とか祖父に似たんだ。私は母に似た」

「そうなんですね」

「ただ、私の場合、母に似たのは顔だけで、料理のスキルというか、そっちの方はもうまったく……」


 と、肩を落とす。

 

「良いじゃないですか。潤さんは潤さんなんですから」

「いや、そうなんだけど、せめて今日のくらいは」


 すまなそうな顔をして、取り出されたのは、赤い包装紙に包まれた小さな箱だった。中身なんて聞かなくてもわかる。だって今日はバレンタイン。

 皆と同じ、大袋の徳用チョコじゃない。

 さらにいえば――、もしかしてこれは、なんじゃないのか?


「あの、もしかして、これ……?」

「生まれて初めて作ってみたんだ。最初母親に聞いたんだけど上手くいかなくて、それで、昨日、直にいに聞いて」

「ありがとうございます。ほんとに……ほんとにもう……」


 ヤバい。

 何か泣きそうだ、俺。


 今日1日、待ちに待った甲斐があったというものだ。まさか手作りがもらえるなんて。


「泣くなよ、藍」

「うわっ。ほんとだ。泣いてる……。恰好悪いですね、俺」

「恰好悪くなんかないよ。藍は感受性が豊かなんだな。そこまで喜んでくれるなら、私も頑張った甲斐があるってもんだ」


 そう言うと、潤さんはにこりと笑った。潤さんのこんな笑顔は今日初めて見た気がする。


「やっと渡せたと思ったら、何か急に空腹感が襲ってきたよ」


 と、潤さんは床にぺたりと座り込んだ。

 

「いますぐ作りますね。冷凍ご飯があるので炒飯とスープで良いですか?」

「最高の組み合わせだ。期待してる」


 潤さんはコートを脱いで丁寧に畳むとそれを脇に寄せ、テーブルの上に置いてある雑誌をぺらりと捲った。もちろん厭らしい本ではない。狭いワンルームで如何にあれやこれやを収納するか、というアイディアが詰まった雑誌である。100均の商品や格安ホームセンターの家具を使ったりしていて大変参考になるのだ。


「恋人にチョコを渡すというのがこんなに難易度が高いものだとは知らなかった」


 冷凍ご飯を解凍している間にハムを切る。後はみじん切りにして冷凍してあるネギを出す。これは凍ったまま使う。

 スープも簡単に、粉末の鶏ガラと、それから溶き玉子、あとこっちにも冷凍のネギ。スープと炒飯で食材が被っているけど、今日はこれで我慢してもらうしかない。


「でも、初めてじゃないですよね、その……、恋人にチョコをあげるとか」


 それを言ったら俺だって初めてじゃないけどさ。


「まぁ、初めてじゃないけどさ。でも何でだろう、今日が一番難しかったよ」

「難しいって……チョコを作ったことがですか?」

「それもあるけど……。それよりは、渡す時かな」


 何でだろう? と言いながら、潤さんは雑誌を熱心に読んでいる。おぉ、とか、へぇ、などと呟いて。


「確かに、なかなかタイミング悪かったですよね、今日は」


 電話がかかってきたり、女子社員が大挙して押し寄せてきたり。


「うん、まぁ……。でもさ、渡そうと思えばすぐに渡せたんだよ。現にほら、皆には配って回ったわけだしさ」

「まぁ、言われてみれば」


 そういえば、潤さんはわざわざ一課に足を運んで大槻主任にも渡しに行っているのである。その行動力を考えれば、俺の席なんてまさに目と鼻の先にあるわけだから、何かのついでに、ぽん、と渡してくれれば済むはずなのだ。


「何だろう……緊張しちゃってさ、柄にもなく。手作りだっていうのもあるんだろうけど」


 具材を炒め、玉子を投入し、解凍した冷凍ご飯を入れる。お玉で塊を潰しながらご飯全体に玉子と具材を絡めていく。皿に盛り付けたら、スープに溶き玉子を菜箸に伝わせながら流し入れ、完成だ。


 先に潤さんの分の炒飯とスープをテーブルへと運ぶ。空いてるスペースに置いてから雑誌を片付けた。

 潤さんは「美味しそう」といまにもよだれを垂らしそうな顔をして、炒飯を見つめている。


「先に食べてて良いですよ。俺のもすぐ持ってきますから」

「大丈夫、それくらい待てるよ」


 とはいうものの、のんびりはしていられない。急いで自分の分を用意すると、冷蔵庫から烏龍茶のペットボトルを出した。


「潤さんは飲みますか? ビールありますけど」

「用意が良いな。いや、だけど遠慮しておくよ。ご飯をいただいたら帰るから」


 帰る……。そりゃそうだよな。明日も仕事だ。


「俺、車出しますから、飲んでも良いですよ」

「そんな、悪いよ。大丈夫、地下鉄にさえ乗ってしまえば2駅だ」

「その、駅までと駅からが危ないんですよ。送っていきますから」

「でも、悪いよ」

「悪くないです。心配なんですよ、本当に」


 顔を近付けてまっすぐ目を見つめる。そうすると、潤さんは案外折れてくれたりするのだ。


「……わかった。お願いするよ。だけどそれなら荷物を受け取るまでここにいることになるけど、良いのかい?」

「もちろん。いてください。今日は潤さんと少しでも長く一緒にいたいんですよ」

「バレンタインだから?」

「だからって……だけじゃないですけど。あの、とりあえず、食べましょうか」

「そうだな。せっかくの料理が冷めてしまったら大変だ」


 潤さんのその言葉で、2人同時にスプーンを持った。潤さんは、いただきますの後で、「いざ!」なんて勇ましいことも言って。


 冷蔵庫に残ってた食材で適当に作っただけの料理なのに、そこまで美味しそうに食べてくれるその姿を見ると、何だかちょっと申し訳ない気持ちになる。あぁ、普段からこういうことも想定して色々準備しておくんだった。よし、明日の夜はスーパーで色々買い込んで保存食を作り置きしよう。



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