◇7◆ いま誰かと一緒にいるの?
ようやくチョコを渡せた、という安堵感と共に、忘れかけていた空腹感を思い出す。いつもの自分ならあんなふわふわしたモノを食べた日は16時くらいにもなると腹の虫が大合唱を始めるというのに、どういうわけだか、今日の彼らはそんなメニューに不平不満を漏らすこともなく大人しかった。
が、やはり腹の虫達はずっと抗議をしていたらしい。けれど、
で、ずっと最重要課題として引っかかっていたミッションが無事終了したためにやっと彼らの声に耳を傾けることが出来たと、そういうことなのかもしれない。
とにもかくにも、その空きっ腹に彼の料理は沁みた。
俗にいう『あるもので適当に作った』というものらしい。母もよくそうして冷蔵庫の中のもので適当に作ってくれたものである。
本当に、魔法のように作るのだ。
冷蔵庫の中に残っている半端な加工肉であるとか、野菜の残りなんかが美味しい料理に変わる。
その鍋はいつどのタイミングで温める?
食材を切る大きさは? 大きく? 小さく? 薄く? 厚く?
味付けは? あんなにたくさん種類のあるものをどう組み合わせる?
火加減は? このままで良いのか? 弱める? それとも強く?
母も、藍も、次にやることがちゃんと頭に入っていて、それを間違うこともなく、また、例え何かトラブルがあったとしても、それを柔軟に対処していくのだ。
料理の出来ない自分には、それがもう本当に魔法のように見えるのである。
大盛りの炒飯に、2杯のスープ。さすがにビールは辞退した。
いまは淹れてもらったコーヒーを啜りながらテーブルに置いてあったインテリア雑誌を広げている。
藍の部屋は私の部屋よりも物が多かったが、きちんと整頓されていた。出窓には小さな鉢が3つ置かれている。一体何の植物だろうと思って覗いたら、丸くてころんとしたサボテンが1つと、花のような形の多肉植物が2つ。
何ていう名前なのかと聞いたら、
「どっちもエケベリアという種類で、先端が赤いのが『
と教えてくれた。
何と、彼は植物を愛でる趣味があったのだ。
「多肉植物はそんなに難しくないですよ」
というものの、私は正直そういうのが苦手なのである。
水やりを忘れることはないのだが、むしろその逆で水をあげすぎて根を腐らせてしまうことが多い。
そして、その出窓の脇には、薄紫色の小袋がいくつか詰まったチャック付きビニール袋も置いてあり、一袋だけ、外に出ていた。それを手に取ると、ふわり、と花の香りがする。
「なぁ、藍。この小袋は何だ? 何かすごく良い匂いがする。ラベンダー?」
「あ……そ、それは……」
何やら藍は赤い顔をして、これは安眠アイテムです、と教えてくれた。成る程、眠れない時は私も使おうかな? ていうか何だ、藍は寝不足なのか?
と、小袋の匂いを嗅いでいると、インターフォンが鳴った。藍はその音に即座に反応し、玄関へと走る。ほどなくして戻って来た彼の手には小さな段ボールがあった。
「それが大事な荷物かい?」
「はい、妹からで」
「ということは、もしかしてチョコ……」
「そうです」
と言ってから、藍は何やら慌てた様子でその段ボールをテーブルの上に置き、ぶんぶんと両手を振った。
「いや、別に! 潤さんのチョコよりも大事とかそういう意味じゃなくて、やっぱり食べ物ですし、特に桃は毎年手作りなものですから、早く受け取らないと、というか……!」
「まぁ落ち着いて。何もそんなこと思ってないから。しかし、そうか、妹さん毎年手作りなのか」
これは負けてはいられない、と闘志を燃やすべきなのか、
それとも、ぜひともご教授願いたいと
「あぁ、でも、手作りっていったって中学生ですから。溶かして固めるくらいのものですよ」
「おぉ、それなら私と一緒だ」
だとしたら朗報だ。
「え、いや、あの、すみません! そういうつもりじゃなくて……」
「えぇ? 何が?」
「いや、えぇ……? えっと……」
「頑張って手作りに挑戦してみたは良いものの、兄から園児レベルのミスをしてるなんて指摘を受けたんだ。で、何とかそれなりの形にはなったけど、もしかして園児レベルのものを藍に渡してしまったのかと思って」
「そんな……!」
「だけど、中学生の妹さんがもし同じようなものを作ったのだとしたら、少なくとも園児レベルではないのかなって」
「あぁ、そういうことでしたか」
藍は何だかホッとしたような顔をして、その場にすとんと座った。そして、その段ボールよりも先に、私の方のチョコを手に取った。
「私のは後で良いから。それよりも早く開けて妹さんに連絡してやりなよ」
まだ20時を少し過ぎたくらいだから中学生ならば起きているだろう。だけれども、きっと妹さん――桃ちゃんと言ったか、彼女は兄からの電話を楽しみに待っているはずだ。
藍は「わかりました」といって、ガムテープを剥がした。中にはくしゃくしゃに丸められた新聞紙が詰められており、その新聞紙をかき分けると、可愛らしいハート柄の包装紙が顔を出した。『お兄へ♡』というメッセージカードまで添えられている。しまった、カードも添えれば良かったのか。
ピンク色の包装紙に、真っ赤なリボン、ハートの形のメッセージカード。全てが可愛らしい。よほど兄のことが好きなのだろう。藍が如何に彼女を大切にしてきたかが伝わってきて、何だか微笑ましい気持ちになる。
リボンを解き、丁寧にテープを剥がしながら慎重に包装紙を開けていく。彼がこんなに丁寧に開けるのは、それが妹さんからの贈り物だからだろうか。
「おぉ……」
蓋を開けると、可愛らしい猫の形をしたアルミカップのチョコだった。確かにここまでなら私と同じだ。ただ、何と彼女のは、チョコで顔が描かれていたのである。うむ、やはり私のは園児レベル……百歩譲っても小学生レベルだろう。ま、まぁ、それはこれから学んでいけば良いんだ、うん。
藍は、それを見て頬を緩ませ、早速妹さんへ電話をかけている。
兄の顔になっている藍を見るのは新鮮だ。
いつもきりっとしている彼の目が優しい。
私の兄達も私と話す時にはそんな目になっているのだろうか、などと思ってみる。
――と。
「おぉ、噂をすれば、か」
こちらにも「届いたよ」の報告のようだ。
ふとスリープを解除してみれば、スマートフォンの画面上部にメッセージアプリの通知アイコンが表示されており、『新着メッセージあり』というお知らせが右から左へと流れている。
届いた、という報告をこういったメッセージで済ませるのは一番上の兄、
毎年変わらず『ありがたくいただく』に始まって、『次はいつ帰ってくるんだ』と続き、『結婚相手をつれてくる場合は必ず事前に報告をしろ』で締める。それをハイハイ、と軽くあしらう。
今年は恵兄が一番早かったか。さて、次は誰だろうか。
と、思っていると、今度は着信が入った。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「もしもし、桃?」
『あ、お
「届いたよ。今年もありがとうな」
『うふふ~、どういたしましてっ』
桃はコール1回ですぐに出た。
きっと待っていたんだろう。潤さんの言う通り早くかけて良かった。
「大切に食べるよ」
『良いよ、さっさと食べちゃって。私以外にもチョコたくさんもらってるんでしょ?』
「だからね、桃。お兄はモテないんだって」
『えぇ? そんなの嘘だよ。私の友達も言ってるよ? 恰好良いお兄ちゃんだねって』
「いや――……それ写真とか見せてないでしょ、絶対。チョコなんて、会社の人から義理のはもらったけど、そんなにたくさんじゃないし――」
だけど、一番ほしい人からはもらえたよ、とはさすがに言えないけど。
桃は『またまたぁ』なんて言って、『もしかしたら義理に見せかけた本命が混ざってるかも!』と、ひとりで騒いでいる。
そこでふと、本当に何気なく、というか、潤さんを見た。彼女の方にも誰かから電話がかかってきていたようで、いつの間にか窓側へ移動していた。狭いワンルームで少しでも距離をとろうとしたのだろう。
『お兄? どうしたの?』
「ううん、何でもないよ」
『ねぇねぇそういえばさ』
「うん?」
おや、潤さんの様子がおかしいぞ?
何かすごく呆れているというか……。
『お兄、結局あの好きな人からチョコはもらえたの?』
「――へぇっ?!」
「――はぁっ?!」
思わず変な声が出た。自分にしては結構なヴォリュームで、慌てて口を押さえる。あっちにも聞こえたかな、と、恐る恐る潤さんを見ると、彼女も驚いたような顔でこちらを見ている。
――いや、ちょっと待て。
いま俺以外の声も重なってなかったか?
『……ねぇ、お兄。いま女の人の声が聞こえたんだけど』
「え? あ、いや……」
『いま誰かと一緒にいるの?』
ど、どうしよう。
どうしてバレたんだろう。
確かにいま潤さんの声は聞こえたけど、潤さんの声ってそんなに女女してないと思うんだけど……って問題はそこじゃない!
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
『もしもし、俺だけど』
「あぁ
着信は朋兄だった。図らずも年の順となっている。
『潤、今年もありがとう』
「どういたしまして」
『大事に食べるよ』
「うん、でもまぁなるべく賞味期限内に食べ切ってよ」
『努力するよ。潤からのだと思うともったいなくてさ』
「気軽に食べられるようにって大袋にしてるんだからさ、職場に持ってって休憩の時とかにつまんだら良いのに」
『何を言ってるんだ。職場になんて持っていったら、飢えたハイエナ共に食べられてしまうじゃないか』
「ハイエナ共って……。良いじゃない、お裾分けすれば」
『良いわけがないだろう。可愛い妹からのチョコだよ?』
朋兄は毎年こうだ。
ちゃんと釘を指さないと前の年のチョコがまだ残っている、なんてこともあったりして。ていうか、あの時のチョコはどうしたんだ? まさか食べた……とか?
『いや、そんなことより』
「何?」
『今年は俺も仙台にいることだしさ』
「え? うん」
何だろう、ものすごく嫌な予感がする。
『これは、遠く離れている兄さんや直を出し抜くチャンスだと思ってね』
「あのさ、同じ兄弟で何競ってんだか知らないけど――」
いい加減止めなよ、と言おうとした時だった。
『一緒に食事でもと思って、いま潤のアパートの前にいるんだけどさ』
「――はぁっ?!」
「――へぇっ?!」
ヤバい。
びっくりしすぎてちょっと変な声出してしまった。それにちょっと声も大きかったな。
藍にも聞こえただろうか、っていうか、あれ? いま藍の声もしなかったか?
『……ねぇ、潤。いま男の声が聞こえたんだけど』
「え? いや、その……」
『いま誰かと一緒にいるの?』
探るような、低い声だ。まずい。これはまずいぞ。
「ま、まだ会社なんだよ。そりゃ近くに人くらいいるさ」
『何だ、仕事だったのか』
「そう! 得意先から急ぎのが入っちゃって」
ついつい嘘をついてしまった。ごめん、朋兄。だけど、どうだ。これで納得してくれるだろうか。
『珍しいね、潤が残業なんて』
「私だってたまには残業するよ」
朋兄は飲料の開発だから営業のことなんてまったくわからないはず。それに、確かに急ぎの依頼だってたまに入るのだ。
『それじゃ仕方ないなぁ』
「だ、だよね。仕方ないんだ。だからまた次の機会にでも――」
『じゃあ会社の前で待ってるよ』
「は?」
『大丈夫。俺は明日休みだし、遅くなっても全然構わないから』
「え、いや……ちょっと……」
しまった、朋兄を甘く見てた!!
どうする?! どうする、潤!!
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