◇5◇ タイミングに恵まれない。
「やっと解放された……」
と、ついつい愚痴がこぼれてしまう。
二課のみならず一課の女性社員までもが結託し、連れて行かれたのはカップルに人気のオシャレなパンケーキ店だ。
確かに大盛りは承っているとのことだったが、クリームまみれのパンケーキを大量に食べたいわけではない。甘いものが嫌いなわけではないが、ケーキとかそういうふわふわしたものについてはほんのひと口ふた口で充分なのだ。
一応瀬川君はそれをわかってくれているので、昼食になり得そうなものを頼んでくれたが。それでもやはりいまいち腹に溜まる感じがしない。
夜まで持つだろうか。
そんなことを思いながらデスクに戻る。資料が置いてある。貼りつけられている付箋には『三富ミシン㈱様用』と書かれていた。
「どれ」
と、ホチキス止めの資料を手に取る。ざっと目を通しているうちに、片岡君が戻って来た。心なしか疲れているように見える。
「戻りました、主任」
「お帰り、片岡君。いま確認させてもらっている。後で時間をもらえるかな」
「もちろんです。お願いします」
視線を合わせたはずが逸らされてしまった。
どうしたんだ、片岡君。
そりゃ君と昼食を食べられなかったのは残念だが。
――あ! そうだ! チョコ! チョコを渡してないじゃないか。
もしかして片岡君、ずっと待っているのでは?
だとしたら悪いことをした。
いや、別に出し惜しみをしているわけではないんだ。
ただ、その、タイミング、というか……。
いやまずは資料の確認だ。
それで、打ち合わせをして、それで、それから……。
そう、そうだ、それからで良いんだ。
「片岡君、ちょっと良いかい」
「はい」
立ち上がって声をかけると、彼もまた腰を浮かせた。
「作戦会議だ。大槻君のところでもらって来たカタログとこれが入ったデータを持って向こうに行こう」
と、資料を振る。向こう、というのは、パーテーションで区切られた会議スペースだ。会議室もあるのだが、簡単な打ち合わせ程度であれば皆ここを使用する。共用のノートパソコンも置いてある。
6人掛けのテーブルに向かい合って座り、中央に置いてあるパソコンにUSBを挿入する。片岡君が作成した資料を表示させた。
彼はまっすぐ画面に見入り、広げた手帳の上でボールペンを構えている。
「とても良く出来てる。三富さんの店舗は私も行ったことがあるが、イメージにぴったり沿っている。事務什器でも案外イケるもんだろう?」
「ありがとうございます。教えていただいて良かったです」
「――ただ、欲を言えば」
「はい、何でしょう」
これはチャンスなんだ、片岡君。
これでも充分戦える資料になっている。けれども。
「これだとちょっとパンチが弱い。もう一発、強いのが欲しい」
「強いの、ですか?」
「そうだ。三富さんとウチの付き合いを考えれば、恐らく、これはかなり良い線まで行くだろう。もちろん、丸ごと採用とまではいかないかもしれないが」
「では、どこが弱いんでしょうか」
「良いかい片岡君、もし私ならこうする、というアドバイスだが。全く相手にされなくても良いから、これとは別に多少あの店とは合わない商品で構成した資料もいくつか作るんだ」
「合わない商品、ですか?」
「まぁ、合わないは言い過ぎだけど。例えばこれは色とかデザインで選んだやつだろう? あの店のイメージに合うように、って」
「そうです。三富さんは手芸店ですし、ウチとは全然系統が違う、と思って、それで、とりあえず店の雰囲気を損なわないように、というのを第一に」
「そうだ。普通なら手芸店が文具の会社と取引があること自体がおかしいんだ。だけど、そこに目を着けたやつが普通じゃなかった」
「普通じゃなかった……ですか? 誰なんですか、その人は」
そう、普通じゃなかったのだ。
そんな手芸店なんて畑違いの店を新規開拓する暇があったら、もともと取引のあるところに新製品を売り込んだり、定期発注の量を増やしてもらう交渉をするべきだ、などと周囲からはかなり反対された。そりゃ新規開拓に成功すればマージンもデカい。だけど、月の目標を達成するだけであれば、そんなことをしなくても良いのだ。
けれど、新しい市場にも目を向けなければならない。いまあるものを大切にするだけでは会社は大きくならないし、自分自身の成長にも繋がらない。
そう考え、難色を示していた当時の上司をどうにか説得し、鼻息荒く単身乗り込んで、そして契約を取って来た24歳の小娘がいたのだ。それは――、
「5年前の私だよ」
「主任……でしたか……」
「そう。いやぁ、あの頃は若かったから。でも、いまの三富さんを見れば、私の判断はやはり正しかったと思うよ。だから、あそこはね、案外柔軟性があるし、度量も大きいんだ。何せ24の小娘の拙い営業トークに耳を傾けてくれたわけだからね。備品の発注だけでなく、石巻にある本社ではウチの什器も多く使ってもらってるし、ノベルティグッズのボールペンやら付箋やらもウチのだ」
「すみません、勉強不足でした。前任は山中さんだったので、てっきり……」
片岡君はそう言って頭を下げた。
「いや、良いんだ。実を言うと、恥ずかしくて黙ってた。もちろん山中君にもかなり手伝ってもらったし、良いかなって」
いやほんと、三富さんに関しては、私の若気の至り、というか……。いまも私も割と直感で動くことがあるが、昔はもうそれに若さゆえの勢いみたいなのがあったから。
「まぁ、それで、だ。つまり、そんな柔軟性のある会社だから、片岡君、君を売るんだ」
「え? 俺を、ですか? ウチの製品ではなく?」
「そうさ。ウチの製品なんてカタログ渡しときゃ見るよ。でも、大事なのは、それが必要になった時に誰に頼むか、誰と仕事がしたいか、誰を利用したいか、だ。あの片岡ってヤツはなかなか面白いアイディア持ってたな、アイツに声をかけておいて損はないぞってね。これがあると、向こうで何か新しいことを企画した時なんかに声をかけてもらえやすい。行き詰まった時に新しい風を吹かせてくれるのは、新入社員と、外部の人間なんだよ、片岡君」
そう言ったが、もちろんこれは当時の上司の受け売りだったりする。
私だって主任とはいえ、ひよっこなのだ。
「すごく参考になりました、ありがとうございました」
片岡君は手帳にさらさらとペンを走らせた。
そうだ新しいことにはどんどんチャレンジした方が良い。私はそれにNOと言う上司じゃないのだから。
よし、これでまずはひとつ片付いた。
では……。
「それで……、片岡君」
早速取り掛かろうと思ったのだろう、片岡君は立ち上がろうとテーブルに手をついたところだった。
「何でしょうか、主任」
「その……何だ……」
何をもたもたしている、潤。
さっさと渡せば良いだろう。
何をもったいぶっている。
そんなにもったいぶるような代物でもないだろ。
ただチョコを溶かして冷やして固めただけだ。
「その……ほら、今日は……あれだから……」
「あれ……、と言いますと」
あぁ、どうして伝わらないんだ。
と、片岡君を責めても仕方がない。
私だってそうそう口が上手いわけではないのだ。仕事の話ならまだしも。
「あ」
しかも鞄はデスクじゃないか!
せっかく2人きりだというのに!
「どうしました、主任」
「いや、しまった。忘れて来た」
「忘れ物ですか」
「うん。だから、その、もしまた時間をもらえたら……。そうだ、今夜は開いてるかい、片岡君。その、夕食でも……」
そうだ、焦ってここで渡す必要もない。
夕食の時にゆっくり渡せば良いじゃないか。
しかし彼は顔を曇らせて「すみません」と呟いた後で頭を下げた。
「今夜はちょっと……。どうしても受け取らなくてはならない荷物が来るんです」
「そ、そうか……」
困った。
とすると、いますぐデスクに戻って鞄を取りに行って……。
そんなことを考えていると、
「あぁ、主任、いたいた!」
と、パーテーションからひょっこりと顔を出したのは小橋君だ。
「どうした」
「すみません、プリンス印刷の子吉川さんからお電話入ってますけど」
「……わかった、いま出る。片岡君、すまない、後で」
何だ。
何で今日はこうも上手くいかないのだろう。
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