◆4◆ 片岡藍と、年の離れた妹。

 バレンタインだからといって、何が免除されるわけでもない。

 そこかしこから流れて来るチョコレートの甘い香りにちょっと落ち着かない気持ちになりながらも、黙々と業務をこなす。


 今日は一日デスクワークの予定で、数日前に取れた契約書の処理の他、昨日の『三富さんとみミシン㈱』さんに次回持参する資料を作成している。

 大槻主任に什器の紹介の仕方を軽くレクチャーしてもらったのが効いたのか、担当である仁科にしなさんは持参したカタログをかなり興味深く見てくれたのだった。新規の店舗というのはまだ検討の段階だ、それだけにこちらの働きかけ、提案によって、商品はいくらでも紹介することが出来る。

 

「これは燃えるな片岡ァ! 男を見せろ、男を!」


 と、やけに機嫌の良い大槻主任に激励を込めて背中を強めに叩かれた。手に乗せられたのは、分厚い什器カタログと多種多様のプロテイン小袋。正直プロテインの方はつき返してやりたかったけど。

 で、そのカタログをぱらぱらとめくりつつ、めぼしいものに付箋を貼る。あの店ならこれとかこれが合うんじゃないか、そんなことを考えつつ。


 ほんの休憩――という口実で憩いの場に向かうと、そこに潤さんはいた。外回りの予定はないはずなのに、足元には鞄がある。急に出掛ける予定でも入ったのだろうか。


 伏見主任、とその名を呼ぶ。

 俯いて「ぶぇぇ」と呟いていた潤さんは、ゆっくりと顔を上げた。

 何だか、疲れたような、焦っているような、そんな顔をしている。


「あぁ、片岡君。どうした」


 そんな言葉も何だか覇気がない。ような気がする。一言で言えば、潤さんらしくない、というやつだ。


「いや、ちょっとコーヒーを買いに……来ただけですけど……」

 

 半分本当だけど、もう半分は嘘だ。

 ぶっちゃけて言えば、あなたに会いに来ました。チョコを目当てに――というのは正直恥ずかしいけど。

 いつも飲んでいる微糖のコーヒーを買うと、向かいの席を勧められた。

 

 何だか妙な空気が流れているのを感じる。

 いやいや、ちょっと待て。

 一応俺達は恋人同士なのだ。

 それなのに、この空気は何だ。

 潤さんはいま何を考えているんだ。

 何でそんなにそわそわしているんだ。


 せっかくだし、何か話さないと。

 そうだ、三富さんへの資料の進捗なんかちょうど良いのではないだろうか。潤さんのことだから、きっとアドバイスもくれるだろう。大槻主任に言われたから云々ではないが、潤さんみたいに一課の方の契約まで取れたらやっぱりちょっと男を上げられた、と胸を張れる気がする。三富さんはここ数年で業績を伸ばしてきている東北では大手の手芸専門店だ。

 何としても、このチャンスはモノにしたい。

 そう思って、口を開いた時だった。


「――ぅわっ」


 と言って、潤さんは腰を浮かせた。

 慌ててお尻に手を当てたのを見て、あぁ、またそんなところにスマートフォンを入れているのか、と思う。胸ポケットに入れるのは好きじゃないらしい。

 そもそも女性は胸があるから、ジャケットの胸ポケットに入れると形が少々不格好になる(らしい)し、それに、ポケット自体が小さめに作られているので入れづらいのだという。

 いや、だからといってお尻のポケットもどうかと思うけど。

 ネックストラップにして首から下げたらどうですか、と提案してみたのだが、首が凝ると言って、3日で止めてしまった。潤さんのスマホ、なんかゴツいやつだもんなぁ。


 電話の相手はプリンス印刷さんらしい。

 潤さんの担当は子吉川こよしがわさんという長身の爽やかイケメンだ。ウチの課でも彼のファンは多い。年齢は潤さんよりいくつか上だった気がする。潤さんと並ぶと、もうお似合いのカップルに見えて仕方がない。


 ……待てよ。

 今日はバレンタイン。

 この日にかけて寄越すというのは、つまりそういうことでは。

 デートのお誘いとか、そういうことなのでは。


 待て待て待て待て。

 何を考えてるんだ、藍。

 だとしても。

 だとしても、だ。

 潤さんは俺と付き合ってるんだ。

 もし仮にデートの誘いだったとして、それを受けるわけないじゃないか。


「――いつもお世話になっております」


 ほら、やっぱり仕事の電話だ。当たり前じゃないか。


「え? ええ、いや、急なお話なもので、いますぐにはご返答出来かねますが――」


 急なお話?


「今日? そうですね、今日はちょっと……。はい、では、明日。はい、明日なら」


 明日!?

 今日……は確かにバレンタインだけど、明日はただの日だもんな。

 ていうか別に今日だって特に約束しているわけでもないし……。

 

 ぐらり、と視界が揺れる。


 俺は何をしてるんだ。

 人の電話に聞き耳なんかたてて。

 違う、きっと仕事の電話だ。きっとそうだ。

 でも、潤さんのスマホにかけてくるか? 仕事の電話なら普通会社の代表電話にかけてくるはずじゃないか。

 じゃあやっぱり、私的な用事で……?


 駄目だ、ここにいたらどんどん悪い方に考えてしまう。仕事だってまだ残ってるんだし、もう戻らないと……。


 飲み終えたコーヒーの缶をゴミ箱に捨て、ちらりと潤さんを見る。彼女は何やら真剣に会話をしていて、俺が席を立ったことにも気付いていないようだった。それならそれで好都合だ。


 来た時よりも重い足取りで廊下を歩く。

 二課のドアまであと数メートル、というところで胸ポケットに入れていたスマートフォンが振動した。


 ――潤さんっ!?


 と、慌てて画面を見るが、表示されているのは『』だった。


 妹の桃は中学2年生である。

 幸いなことに俺には全然似ていなくて、なかなか可愛らしい顔をしていると思う。いやこれは兄だからとかそういうんじゃなくて、同年代のアイドルとか、子役とか、そういうのと比較しても引けをとらないどころか、むしろ、桃の方が可愛いんじゃないか、というか。いや、実際問題、可愛いのだ。そうに決まっている。


「――もしもし」

『もしもし、おにい?』

「どうした。今日学校は?」

『いまね、インフルでウチのクラス学級閉鎖なんだぁ』

「そうなんだ。桃は大丈夫なのか?」

『大丈夫じゃなかったら電話なんかしないよ』

「それなら良かった。ただ、悪いんだけど、お兄はいま仕事中なんだ」

『そうだよね、ごめん。今日バレンタインだから、チョコ送ったからねって教えたかったの。用件はそれだけ』

「ありがとう、桃」


 なんて優しい妹なんだろう。

 お兄はお前のその優しさでもう胸がいっぱいだよ。特にいまは……。


 通話を終え、スマートフォンを再び胸ポケットにしまう。そのスマホが入っている方の胸が何だかぽかぽかと暖かい。よし、とりあえずはこれで昼まで持つ。昼になったら、潤さんをランチに誘おう。そんな気力まで湧いてくる。



「いやいや、藍ちゃん。それは無理だね」


 昼休みを告げるベルの音と共に腰を浮かせたところで隣席の光ちゃんに肩を叩かれた。

 中西主任がいないので、休憩中くらいは『藍ちゃん』でも許されるのだ。


「無理って何が?」

「主任でしょ?」

「そうだけど」 

「駄目駄目。バレンタインの主任はさ、女の子達のものなんだよね」

「え?」


 この場に中西主任がいたら休憩時間いっぱい詰められるだろう。そんなことを思いつつ、彼が指差す方を見ると――、


「伏見主任! 今日は私達とランチ行きましょう! ね?」

「え?」

「バレンタイン限定ランチがあるんです!」

「可愛いんですよ!!」

「いや、ちょっ……!?」

「主任、行きましょ!」

「主任、大丈夫ですよ、大盛りも出来ますから!」

「ちょっ、ちょっとぉ!?」

「はいはい、主任急いで急いで~。すみませぇーん、伏見主任通りまぁーす!」

「――かっ、片岡君っ!」

「――はっ、はいぃっ!?」


 女子社員に取り囲まれ、ドアへと連行されている潤さんからいきなり名前を呼ばれ、声が裏返る。ヤバい、恰好悪い。


「資料は戻って来てからチェックするから、デスクの上に置いといて!」

「わ、わかりました!」


 と、返してから気付く。


「いや、今日は俺外回りないからそんなに急がなくても……、って、もういない……」

 

 唖然としている俺の背中を光ちゃんが優しく叩く。


「去年はさ、おにぎりかじってる主任の回りに女の子いっぱいいたじゃん?」

「いたっけ……? いた、かなぁ? そういえば」

「今年はほら、仕分け作業っていうのかな、そういうのが朝のうちに終わったから、ずっと狙ってたみたいだよ。小川さんなんて、こっそりバレンタインランチやってるところ検索してたもん」

「えぇ……業務中に……?」


 中西主任がいないからって皆気を抜きすぎなのでは……?


「でもさ、わかってあげてよ藍ちゃん。普段は藍ちゃんが独占してるでしょ、お昼」

「独占ってほどでは……」

「しーてーるーのっ! 自覚してよ。だから、こういう時くらい譲ってあげて。どうせ夜はデートなんでしょ?」


 だから、今日は僕とランチ行こうよ、なんて手を引かれ、慌てて鞄を掴む。ウチのオフィスには社員食堂なんてものがないので、昼食は持参するか、近くのコンビニに買いに行くか、食べに行くしかない。昔宅配ピザに挑んだ強者もいたのだが、さすがに白い目でみられたらしく、何となく暗黙のルールということで昼休憩のピザは禁止となっている。残業の時は良いみたいだけど。


 デート、デートかぁ。

 そういえば特に約束もしてなかったなぁ。

 でも、そうだよ。恋人なんだから、夕食くらい。


 ――ん?


「あ」


 前に潤さんと行ったことのあるオーガニックカフェで、十穀米ランチプレートを食べている時に気が付いた。


「藍ちゃんどうしたの? 喉に詰まった?」

「いや、違う。あれ、待てよ……」


 さっき桃とどんな会話をした?


 バレンタインだから、チョコを送った、って。

 そうだよ、毎年桃はチョコを送ってくれるんだ。少々離れているとはいえ、同じ県内なんだから、言ってくれれば取りに行くのに、桃は必ず送ってくれるんだ。お兄は仕事が忙しいでしょって言って。配達業者の日時指定で、14日の一番遅い時間帯に。


 ということは、早くても19時には届く。

 シャワー中に来られたら大変だし、それまでに諸々済ませておかなくては。いや、シャワーくらい受け取ってから浴びても良いけど。


「駄目だ、今日は夜も会えない」

「えぇ!? そうなの? 何で?」

「妹からチョコが送られてくるんだ」

「へぇー、良いなぁ。良い妹さんだね。ウチのお姉ちゃんも見習ってほしいよ」

「くれないの?」

「くれるわけないじゃーん! むしろ自分で食べちゃうかな? あはは」

 

 果たしてどっちが一般的なんだろう。ウチはウチ、よそはよそ、とはよく言うけれども。


 と、テーブルの上に置いていたスマートフォンが振動する。桃からだ。


「あ、噂をすれば」

「あれ? 妹さん? 学校は?」

「インフルで学級閉鎖だって。妹は大丈夫みたいだから、暇なんだよ。ちょっとごめん」

「はいはーい、ごゆっくり~」


 ひらひらと手を振る光ちゃんに見送られ、席を立ってトイレに移動する。別に席で出ても良いんだろうけど、やっぱりちょっと『兄』の部分を見せるのは恥ずかしい。


「どうした?」

『お兄、ごめんね、さっきは』

「大丈夫大丈夫、少しくらいは。お兄もちよっと休憩してたから。それで?」

『うん、あのね。えっと、いまは大丈夫? お昼ご飯中?』

「大丈夫。もう食べ終わるところだから」


 いや、本当はあと半分くらい残ってる。何だかちょっと食欲がなくて。チョコの食べ過ぎ……なんてことはもちろんないけど。


『何かさっき声に元気がなかったからさぁ』

「そ、そう? 会社だったからじゃないかな?」


 す、鋭い。これが女の勘というやつか。

 そうか、桃も立派なレディになったか。

 お兄はお前が素敵な女性になってくれればそれで……。


『お兄? もしもーしっ!』

「――っあぁ! ごめん」

『ちょっとやっぱり変だよ』

「大丈夫大丈夫。全然大丈夫だから」

『そうかなぁ? お兄のことだから、女の社員さん達からチョコ攻めに合ってうんざりしてるのかと思って』

「桃、何度も言うけど、お兄は全然モテないんだよ」


 自分でいうのも悔しいけど。悔しいくらいモテないんだよ、俺は。


『絶対嘘だね~。お兄優しいし、恰好良いもん』

「いや、そう言ってくれるのは桃だけ――」


 じゃないな、いまは。

 潤さんだって言ってくれる。恰好良い、とまでは言ってないけど、目がきりっとしてて良いって。


『お兄? ちょっとー、やっぱり何か変!』

「ご、ごめん」

『ちょっと待って。もしかして、お兄……』

「な……何……? 何もないよ、何もないって!」


 ヤバい。

 桃ってこんなに鋭かったか?

 やっぱり子ども子どもと思ってたけど、中2ともなればもう立派に『女』なのか!?


『好きな人出来たんでしょ』

「うっ……!」


 こ、これはセーフ? アウト? 

 彼女、ではないからセーフ?

 いや、でも好きな人には変わらないわけだし……アウト!?


 なんてあわあわと考えていると、この沈黙が答えになってしまったようで、電話の向こうから、はぁ、というため息が聞こえてきた。


『やっぱりそうなんだ。お兄、好きな人いるんだね。じゃ、私からのチョコなんて嬉しくないよね?』

「そんな! そんなことないよ!? 毎年楽しみにしてるって! ほんと! ほんとに!!」

『えぇ~? そんなこと言ってぇ、その人からもらう方が嬉しい癖にぃ~』

「そ、それは……。でも、その人からはチョコもらってないから……」


 そう、もらってないのだ。

 皆と同じ義理のチョコすらも。


 ついそう口を滑らせてから、しまった、と口を塞ぐ。妹に話すようなことでもないし、こんな沈んだ声を出してしまったら――、


『何それ。ちょっと、その女、何なの! 私のお兄を悲しませるとか、有り得ないんだけど!! 近くにいないの?! 代わって!』

「桃、落ち着いて。ここにはいないから。ね? 大丈夫、大丈夫だから」

『お兄の大丈夫は当てになんないの! いつも無理して大丈夫大丈夫言うんだから!』


 バレてたのか。

 さすがは妹。


 なんて感心している場合でもなく、それから数分かけて桃をなだめ、通話を終える頃には、もうぐったりだった。


 席に戻ると食後のミルクティーを飲んでいる光ちゃんがぎょっとした顔をして、「藍ちゃん! 顔真っ青だよ! 大丈夫!?」と危うくカップを落としそうになる。


 そして俺はやはり、


「大丈夫だよ」と無理をして笑うのだった。

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