【イベント】ほろ苦の甘味を君に、の巻

◆1◆ 明日は、スペシャルデー。

 話は慰安旅行の前に遡る。

 


 明日は、そう、特別な日である。

 1年一度のチャンスとはよく言ったものだが、何もチャンスはこの日だけではないと思う。


 世の男性達がついついそわそわしてしまう日、バレンタイン。今年という今年はその例に漏れず、俺もそわそわしてしまう。


 あまりにそわそわしすぎてアラームの鳴る2時間も前に目が覚めてしまった。これは異常事態だ……と言いたいところだが、実はもう3日も前からこの有り様である。


 それというのも、今年のこのバレンタインは去年までとは――いや、何ならもう数年遡っても――全く違うからなのだ。


 がいる。


 一応、学生時代にも彼女はいた。いたけれども。もちろん、その時はその子のことが好きだったし、この日が楽しみだった。しかし、この胸の高鳴りは何だ。


 仕事中だからと意識を無理やりパソコンやら資料やらに向けなければ、再現なく彼女のことを考えてしまうし、2人で食事をした店の前を通れば、自然と頬は緩んでしまう。

 だから最近じゃ、風邪予防です、なんて言って、またマスクを装着するようになった。込み上げてくる笑みを隠そうとして、口元が不自然に歪んでしまうからである。


「片岡君、また筆談か?」


 なんて、伏見主任は驚いていたけど。いや、ですから、あなたのせいです。あなたのことが好きすぎて、こんなことになっているんです。


 とは言えず。


 いつもよりちょっと気合いを入れて朝食を作り、ニュースを見ながらそれを食べる。お堅いニュースの合間に入り込んでくるのはやはりバレンタインの話題だ。

 どこそこのデパートのバレンタイン特設会場が映し出されている。画面の中は満員電車のように人、人、人がぎゅうぎゅうに詰め込まれている。それが電車と違うのは、それを構成しているのがすべて女性であるということくらいのものだ。

 彼女らは各々のお目当てのチョコを買うために人の波の中を泳ぐのである。


 まさか、あの伏見主任――いや、潤さんはこんなところに足を踏み入れたりはしないだろう。

 いや、でも、どうだろう。

 一応彼女としても、俺のためにチョコを用意したりするのではないか。


 いつものというのは、である光ちゃんが言うには、どうやら潤さんのバレンタインといえば、徳用の大袋チョコを1人1袋渡すのが定番に――といっても光ちゃんもまだ2回くらいしかもらってないんだけど――なっているらしいのだ。それは去年、入社して間もなくの俺にもそれは渡された。皆に配れ、という意味かと思いきや、1袋丸々自分のだと知って驚いたものである。


 いや、ぶっちゃけ、潤さんからもらえるということであれば。

 もう正直何だって嬉しい。

 直属の上司として、ではなく。

 恋人として、渡されるのであれば。板チョコ1枚だって。


 まぁ、潤さんのことだから、手作り、なんていうのは万にひとつもないだろうけど。


 そんなことを考えつつ、食べ終えた食器を片付ける。さすがに家を出るにはまだ早く、しばらくぼんやりとテレビを眺めた。




「おはようございます……」


 その挨拶は特に誰に対して、というわけでもない。ただ、そう言って入室しなければならないのだ。かといって、声が小さいからとやり直しを強要されることもない。


 前の会社は結構声の大きさにうるさかったものだが、ここ――あけぼの文具堂の営業部はただただ声を張り上げれば良いと考えている者は少ないらしい。そもそもトップである伏見主任と中西主任からして声の大きさで押すタイプではない。ただ2人共、その声は良く通る。だから、重要なのは声の大きさではなく、張り、らしい。


 だからそういう意味でも、自分の声は駄目だろう。

 大きいわけでもないし、張りがあるわけでもない。

 ただ、滑舌が悪いわけではないから、お客様にはきちんと聞きとってもらえるのが救いだ。


「あ、おはようございまぁす」


 隣の席の小橋光ちゃんがにこりと笑って頭を下げる。


「おはよう、


 後ろに中西主任がいなければ「おはよう光ちゃん」と返すところなんだけど。

 彼女が目を光らせている限り、このオフィスでは、役職者は男女関係なく『君付け』が強制で、俺達平社員は『さん付け』で呼び合わなくてはならないのだ。


 ちなみに彼は先週、中西班の瀬川さんに告白をしている。結果を聞いたところ、どうやら返事は保留のままらしい。

 

 しかし、時はバレンタイン。例えば本当にバレンタインというものが『1年一度のチャンス』なのだとしたら、告白の返事をするのにはおあつらえ向きのタイミングといえるのではないか。


 光ちゃんは昨日の帰り際、そんなことを言って来た。

 その様子からして、NOの返事は全く想定していないように思えるんだけど、その自信はどこから来るのだろう。自分にもそれくらいの自信があれば良いのにと、その年下の先輩を見る度に思う。


「おはよう」


 不意に聞こえてきたその声に、身体がぴくりと反応する。

 やはりその声は特段大きいわけでもなく、その証拠に何人かは彼女の入室に気付いていないようだ。けれどもその何人かを除く者達は、皆ほぼ同じタイミングで弾かれたようにドアを見る。そこにいるのは、我が愛しの伏見主任その人である。


 主任は入室時の挨拶などなかったかのように、社員一人一人に爽やかに声をかけていく。そうして自席へとたどり着いた。


「片岡君、小橋君、おはよう」

「主任、おはようございまぁす」

「おはようございます」


 その爽やかな笑顔に目眩がする。

 この人が本当に自分の恋人なのだろうか、もしかして夢なのではないか、と、いますぐ頬を殴りたい衝動に駆られたが、ぐっと堪えた。


 ――おや。


 鞄から手帳などを取り出している主任の指先に絆創膏が貼られていることに気が付いた。


 これがベタな少女漫画だったら、不器用なヒロインが好きな男の子のためにチョコを作ろうとして指を――という感じになるのだろうが、いやいや、主任だぞ。


 ほんの数ヶ月前まで主任の部屋のキッチンにはフライパンはもちろん包丁だってなかったんだから。もし仮にそのベタな少女漫画的展開だったとしても、そんな絆創膏の1枚や2枚で処置出来るような怪我では済まないはずだ。硬いチョコを刻むって結構大変だし。うん、最悪指先がなくなる事態に――、


「……片岡君? 朝のミーティング始めても良いだろうか」

「!!!」


 トントンと割と強めに肩を叩かれ我に返る。潤さんの肩トン(光ちゃん命名)は割と強めで有名だ。

 そのトントンと突いた指にくるりと巻かれている絆創膏が気になって仕方がない。潤さんは右利きだから、包丁を持つとしても右手で持つだろう。調理器具だけサウスポーとか聞いたことがないし、そもそも彼女はやかん以外の調理器具を持たない。


 それに、血も滲んでいない。もちろんすでに止まっている可能性もないわけではないが。ガーゼ部分は指の腹の方ではなく、爪の方だ。とすると、考えられるのは、こないだ少し話をした「包丁を持っていない方の手は『猫の手』にするんですよ」を忘れて指を伸ばした状態で食材板チョコを押さえ、左手で包丁を……? そしてそのまま……ざくりと……?


「……片岡君、片岡君?」

「――うわぁ、痛いぃっ!?」

「えっ!? そんなに痛かった!? ご、ごめん」


 ち、違うんです!

 痛かったのは潤さんの肩トンじゃなくて、ざっくりと指を切るのをイメージしたら声が出てしまっただけで……!


 と言おうとしたのだが。


「そうですよ、主任! 大体主任の肩トンはいつもちょっと強いんですよ!」


 なぜか光ちゃんが熱弁を振るう。そんな彼に押されたのか、潤さんの方でも、「加減はしてるつもりなんだけどなぁ……」と自分の指をしげしげと見つめた。


 さて、いつまでもそんなことをしている場合ではないのだ。

 肩トンの強さは適正であることを伝え、自分の態度を謝罪すると、やっと仕事モードに頭が切り替わる。


 営業の仕事は、毎日同じことの繰り返しとはいかない。資料作成、外回り、事務処理……と大枠は同じでも、中身が違う。その日に回る得意先に合わせた資料も作らなくてはならないし、アプローチの仕方も変わってくる。唯一ほぼ同じといえるのは契約書の処理方法くらいだろうか。商品が違っても発注方法や問い合わせの手順など、少なくとも二課ウチの取り扱い商品は全て同じだからだ。

 

「今日は午後から『三富さんとみミシン(株)』さんと、『ホームセンターTOOLSツールズ』さんを回ります」

「了解。内容は?」

「三富さんは、備品の追加発注の相談と、それから市内にもう1軒出そうかと検討中らしくて、そちらにも色々紹介出来たら、と。TOOLSさんは新商品の売り場拡大のお願いと販促物のお届けです」

「三富さん頑張るなぁ。最近じゃミシン買う人も一頃より減ったのに」

「牧田さん、知らないんですかぁ? いま、ハンドメイドブームなんですよ?」


 牧田さんの発言に光ちゃんが割り込んでくる。


「そうだっけ。あれ? DIYの方じゃなくて?」

「そっちもですけど、最近はこっちの方も盛り上がってるんですよぅ~」


 光ちゃんは何やら勝ち誇ったような顔をしている。その顔を見て、牧田さんは「畜生……」と悔しそうだ。光ちゃんは案外悪気なく余計なことを言ったりしてしまうのである。どうにかこの場を穏やかにおさめたい。そう思いながら補足する。


「いまはほら、ハンドメイド作品をフリマサイトで売ったりする人もいますから。それで、その新しいところは、それをメインに展開していく予定みたいです。ハンドメイド教室とかも頻繁に開催したりですとか」

「へぇ~、成る程ねぇ」


 俺達のそんなやり取りを静観していた潤さんはちらり、と窓の方を見てから、うん、と頷いた。


「片岡君、三富さん行く前に、必ず一課の大槻君にも話をしておくように。話の持って行き方によっては什器の契約にも繋げられるかもしれないから」

「え」


 什器は什器だけれども、ウチの什器ってあのいかにもなスチール什器っていうか……。ほっこりハンドメイドのあの店に合うかなぁ。


 そんな風に考えたのを見透かしたかのように、潤さんは、ふふふ、と笑う。


「大槻君に什器のカタログをメーカー別に何種類かもらってくると良い。ウチの取り扱い商品が野暮ったいグレーのスチール什器だけだと思うなよ」

「わ、わかりました……」


 大槻主任のところに行くのは正直気が進まないが、それよりも――、


 やっぱり潤さんは、何もせずに一課什器の方まで取れているわけではなかったのだ。


 せっかく大槻主任のところに行くのなら、そのというのもご教授願うとしよう。


 ……多少のプロテイン営業は覚悟しないとな、と気を引き締めた。


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