◇2◇ 伏見潤と、すぐ上の兄貴。

「少々甘く見ていたな……」


 チョコだけに、というところはさすがに堪えた。よく父がそんなことを言って母をうんざりさせていたのだ。ギリギリ20代、若いつもりではいたのだが、自然とオヤジギャグが浮かんでくるようになると、これはいささか危機感を持つべきかもしれない。


 じゃなくて!


「おかしいなぁ……」

 

 というのは、柄にもなくコンロの前に立っている自分自身に対して向けた言葉でもある。しかし、それ以上におかしいと思うのは、自分の技術では確実にもうどうにも出来ないと思われる鍋の中身に対してだ。昨日、一昨日も同じことになり、クレンザーと金たわしでどうにか落としたのだが、さすがに指先はボロボロである。普段水仕事なんてマグカップと箸やスプーンを洗う程度なものだから、ゴム手袋なんてものもないのだ。なぜか勢い余って自分の指まで擦ってしまい、左の中指と人差し指に酷いさかむけまでこしらえてしまった。


「ただ溶かして型に入れれば良いと聞いたんだが……?」


 確かに溶けてはいる。

 ただ、こんなにぼそぼそしていて、焦げくさい代物だっただろうか。

 自分がいままでに見てきた『チョコ』というものとはだいぶかけ離れているように思うのだが。


「おかしいなぁ……」


 かといって藍に聞くわけにもいかない。

 何せこれは彼に渡すためのものだからだ。


 手作りチョコなるものの作り方を聞くため、恥を忍んで母に電話をしたのが3日前。

 まぁ、多少の失敗などを考慮しても3日もあれば、と悠然と構えていたのがまずかった。

 少なくともあともう1日は欲しいところである。


 材料だけはたくさん用意した。余ったら余ったで食べれば良いからだ。


 しかし。


 もう一度聞いた方が良いだろうか。


『チョコぉ? かぁ~んたんよぉ~。溶かしてぇ、型に流し込んでぇ、冷やせば良いのぉ~』


 あの能天気なスーパー主婦め。自分の娘の料理スキルがどれほどか、まったくわかっていないんだ。それにこの時間ならば、もう寝てしまっているかも。


 壁の時計を見る。21時。うん、床に入ったところだろう。

 となると……、兄貴達の誰か、しかいない。


 一番上のけい兄は? この時間なら家にいるだろうけど……、あそこには小さい子どもがいるからなぁ。迷惑かもしれない。

 じゃ、次兄のとも兄? ううん、一番優しいけれども、それだけに「わかった、兄さんに任せなさい。いますぐそっちに行くから」などと言い出しかねない。そしてどんなに止めても本当に来るだろう。

 かといって、すぐ上のなお兄……。絶対馬鹿にされる。兄弟の中で一番料理が得意だからっていつも口酸っぱく「潤はちょっとくらい料理を覚えろ」と言ってたっけ。相談なんかすれば「ほら見たことか」と笑われるに決まっている。


 などと考えている間にも時間は過ぎていく。

 バレンタインだからといって明日の業務に支障をきたすわけにもいかない。


「くそ。背に腹は代えられないか」



 意を決してスマートフォンを操作し、耳に当てる。

 数回のコールの後に聞こえてきたのは、3歳上の兄、直のものである。


「おーぅ、潤。どうした? 結構久し振りじゃね?」

「う、うんまぁ、久し振り」

「何だ? あ、わかった。明日はバレンタインだからな。今年もチョコ送ったぞ、ってやつだろ?」

「うん、まぁ送ったよ。いつもの。明日届く」

大袋いつものかぁ。潤のチョコって昔から色気ねぇんだよなぁ。別に俺達にとは言わな――」

「!!!」


 手作り、という言葉に思わず反応してしまう。


「おい、どうした潤。なぁーんかお前おかしいなぁ」

「別におかしくないよ。普通普通」

「この俺に隠し事なんて10年ぇんだよなぁ、お嬢ちゃん」


 ああもういま直兄がどんな顔をしてるか容易に想像がつく。

 いつもそうやってからかわれたのだ。

 何だよ、3つしか違わない癖に。


 そう、3つしか違わないのだ。

 私と藍もそう。

 たったの3つ。

 それを藍はとんでもなく高い壁のように感じているらしいけれども。


 やっぱり朋兄にするんだったかな、と後悔した。


「成る程成る程。成る程なぁ、潤」

「何が成る程なんだよ」


 必死に虚勢を張ってみる。むなしい最後の抵抗だ。たぶんもうバレている。


「さっきも言ったが明日はバレンタインだ。じゃあ、なぁぜぇ、このタイミングで俺に電話をしてきたか、ということだ、がぁ~」


 嫌味たらしくねちねちと、含みのある言い方である。

 ああもう、直兄はいつもそうだ。


「好きなやつでも出来たな? そんで、その愛しの彼のために手作りチョコを作ろうと思ったわけだ。けれど、可愛い可愛い潤ちゃんは料理が大の苦手ときた。ははは。――だろ?」


 悔しいがまったくその通りだ。


 しばし自分のつまらないプライドと戦う。

 別に直兄が嫌なやつなわけではない。それもわかってる。ただ年が近いということもあって、言い方がいちいち癪に障るというだけで。


「……そうだよ。だから直兄に教えてもらおうと思って」

「だぁっはっはっは! そうだろうそうだろう。やぁっぱり頼るべきは俺! 俺だ! 俺様だな!!」


 なぜかウチの兄達は『誰が一番妹に頼りにされるか』という点でよく争っているのだ。とはいえ、一番上の恵兄と一番下の直兄は5歳離れている。大人の5歳と子どもの5歳は、まったく質が異なる。それは主に身体の大きさだけではなく、知識にしてもそうだ。にもかかわらず、3歳上の朋兄に対しても、5歳上の恵兄に対しても、この直兄は果敢にも立ち向かっていったものだ。まぁ、恵兄には軽くあしらわれていたけど。果敢、というよりは、無謀、かもしれない。


 ちなみに次兄の朋兄は3兄弟の中で最も穏やかな性格ではある。のだが。

 むしろ一番厄介な人物だろう。

 何せ彼が一番私のことを好いているのだ。

 俗にいう――シスコン、というやつらしい。

 いや、母に言わせれば、私が気付いていないだけで恵兄も直兄も、つまり3兄弟全員シスコンなのだという。朋兄だけはさすがの私でもわかるほどだが、恵兄と直兄に関しては、そうだろうか、というのが本当のところだけど。


「たぶん潤のことだからなぁ。大方、チョコを直火にかけて無理やり溶かしたんだろ?」

「うっ……。何でわかるんだ」

「だはは。お見通しなんだよ、俺には。で、何か違うなぁって思って、とりあえず牛乳を入れてみたりしたわけだ、なぁ?」

「ちょっと待て。直兄、ウチにカメラとか仕掛けてないか?」

「そんなわけないだろ。あのさ、これって初めて手作りチョコ作ろうとする女子小学生がやりがちなやつだから。いや、最近の子はませてるからなぁ。幼稚園児かな?」

「な……っ!」


 幼稚園児レベルのミスだったのか!!

 

「まぁ、落ち着け潤。チョコはな、ただ溶かせば良いってもんじゃないんだ。やり方があるんだよ。湯煎ってわかるか? ああでも、お湯の中にドボンと入れるなよ」

「ちょっと待て。直兄は私を馬鹿にしすぎだろ。私だって最初はちゃんと湯煎でやったさ!」

「成る程。最初は、ねぇ。だけど潤のことだからがちゃがちゃかき混ぜてるうちにチョコの中にお湯が入って……ってわけだな?」

「ま、まぁそんなところだけど」


 そりゃ私だって最初はそうした。

 だけど直兄の言う通りで、何度やってもチョコの中に湯が入ってしまい、どうにも収拾がつかなくなってしまったのである。

 

「だからさ、潤。湯煎は駄目だ。潤には難しすぎる」

「じゃどうしたら良いんだよ」


 湯煎なら中に湯が入ってしまう。

 じゃいっそ直火なら良いかと思ったが、そしたら今度は丸焦げだ。


「ドライヤーを使うんだ」

「ドライヤー? ちょっと直兄、いくら何でも――」

「まぁまぁ、潤」

「さすがに馬鹿にしすぎじゃないか」


 あれは髪を乾かすものであって、チョコを溶かすものではない。

 私だけをからかうならそれで良い。けれども、それを食べるのは藍なんだぞ。


「落ち着けって潤。俺だってさすがに相手がいることくらいわかってるんだからな。潤だけが食うんならバーナーで炙れって言うさ。そうだろ?」

「ま、まぁ……そうかもしれないけど……」

「可愛い妹が好きな男に食わせたいってものに下手な真似が出来るかよ。良いからドライヤーで溶かせ。本当はそのあとちょっと冷やしたりとかそういう作業もした方が良いんだが、まずそこは良い。とにかくドライヤーで溶かしたら、何か適当な型に流し込め。あとは冷蔵庫にイン、だ。それで充分食えるチョコになるから」

「う、うん。わかった……」

「ていうか、チョコは板の状態か? 刻めるか? 最悪小さく折るだけでも――」

「あぁ、それは大丈夫。何か粒々のやつ買ってきた」

「ナイスだ、潤。己の力量をわきまえてるじゃないか」

「まぁね」


 しかし、ドライヤーかぁ。まぁ確かにそれなら水が入ることはない。


「しかし潤。お前俺に聞いて正解だぜ?」

「何が」

「馬鹿お前、こんなこと朋兄に聞いてみろ。まず、その男は誰だ、どんなやつだ、って始まるぞ」

「あ、あぁ……確かに」

「恵兄も……まぁ突くだろうな。そんで、今度家に連れて来いって話になるだろ?」

「うっ……、有り得る」

「でも無理もねぇって。だって潤、今年で30だろ? 結婚する気ないのかよ」

「ないわけじゃないよ。いまじゃないってだけで」

「それを聞いて安心したよ。俺は結婚賛成派だからな」

「自分は独身の癖に。いつまで待たせるんだよ、若菜さんのこと」

「俺は良いんだよ。いまタイミングを図ってるところなんだから」

「どうだか。30になる妹よりも5年付き合ってる32の彼女のことを心配した方が良いと思うけど」

「わぁーかってる。わかってるって。それは置いといて、だ。良いか、潤。とにもかくにも恵兄はお前を早く結婚させたいと思ってるし、朋兄は大っぴらに反対してるわけじゃないにしても、自分のお眼鏡に適ったやつじゃないと駄目だってずーっと言ってる」

「朋兄のお眼鏡かぁ……」


 果たして藍は彼のお眼鏡ってやつに適うだろうか。いや、朋兄が何と言おうとも関係ないけど。

 

「だからたぶんいまの情報を引き出すだけでも3時間はかかるだろうな」


 そうなると今日中にチョコは完成しない。

 確かに、年が近いこともあって、何だかんだいっても私は直兄と一番仲が良かったのだ。やっぱり直兄に頼って良かった。


「――それで? 潤が好きなのはどんなやつなんだ?」


 さっきまでの声とは違う、やけに真剣なトーンだ。


「は?」

「俺だって潤の旦那候補には興味があるんだからな。聞かせろよ。何、3時間もとらせねぇからさ」


 くそ、やっぱりそうなるのか。



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