◆7◆ 伏見主任は押しに弱い。

 伏見主任とのお付き合いが始まって、2週間。

 とはいえ、何か大きく変わったというわけでもない。


 同棲しているわけでもないし、「ダーリン」「ハニー」なんて呼び合っているわけでもない。


 平日は上司と部下。

 ランチの時はちょっとだけ恋人。

 終業後も毎日デートするわけでもない。

 自分にも自分の生活はあるし、主任にも主任の生活があるからだ。


 まぁ何となく予想はついていたけれども、主任はあまり恋人同士のあのいちゃいちゃべたべた甘えたり甘えられたりというのが得意ではないらしい。嫌いなわけじゃないけど、とにかく恥ずかしいのだそうだ。


 それは自分も同じだったので、ちょうど良かったですねって、よくそんなことを話している。


 ただ、休みの日には……っていってもまだ2週間だけど、それなりにデートらしいことはした。ご飯を食べに行って、買い物して、という。

 それだけ? って?

 それだけだよ、まだ。いや、本当にそれだけってわけじゃないけど。でも、だってまだ2週間なんだよ? いくら大人同士ったって段階っていうかね。うん。


 さて、今日はいわゆるお家デートってやつだ。

 主任の部屋はやっぱり自分よりも広くて、イメージ通り、というのか、物があまりなくて片付いてた。


 ただ、驚いたのは、主任はほとんど家事をしないらしく、掃除と洗濯くらいしかしていなかった。

 つまり、食事はすべて外食、ということだ。そんなんでよくあの体型保てるな!? と思ったら、やはりジムとかジョギングとか色々していた。主任は学生の頃陸上をやっていたらしく、身体を動かすことが好きなのだそうだ。


 そんなわけで、成る程、道理でフライパンも包丁もない、というわけである。コーヒーを淹れるためのやかんくらいしかない。菜箸? そんなもの、あるわけがない。


 とりあえず、最低限の道具を揃えてちゃちゃっとつまみを何品か作ると、部屋着姿で缶ビールを飲んでいた主任は「えええ!」と驚いていた。


「まさか片岡君がそんなに作れるとは、ちょっと思ってなかったな」


 なんて失礼すぎる言葉を吐いて。出来ますよ、これくらい。


「そんなにすごいものは作ってませんって。何も食べずに飲むのって、身体に良くないらしいですから」

「そうなんだ」

「いままでどうしてたんですか」

「いやぁ、最近のコンビニって、お惣菜も美味しいしさ。つまみはなくても飲めるし」

「だと思いました。さ、つまみながら借りて来た映画見ましょうよ」

「そうしようそうしよう」


 何か高そうなガラステーブルの上に皿を並べ、主任はカウチソファに腰掛けた。

 レンタルDVDの袋から、旧作のコメディ映画を取り出す。まぁ、恋愛映画を好むタイプだとは思っていなかったけど。まさかこういうドタバタ系が好きだとは。意外……でもないかな。


 でも、主任、これデートなんですよ?

 そりゃちょっとは期待してたりするんだけどなぁ。

 まぁ、でもそれが主任だから。


 デッキにディスクをセットして、ソファに戻る。リモコンは主任が持っているのだ。


 自分が隣に座ると、「そういえば」と呟いて、主任は持っていたリモコンとビールをテーブルに置いた。


「どうしたんですか」

「いや、いまさらなんだけどさ。こういう場でも『主任』『片岡君』っていうのは、さすがに味気ないのかなって思って」


 さすが主任だ。それ、いま気付きます? たぶんそれって、付き合った直後に気付くっていうか。まぁ指摘しなかった自分も悪いんですけど。


「それじゃ……名前で呼んでみますか? じゅ、潤さん……とか……」

「うわ、何か変な感じするなぁ」


 そう言って、ぶるりと身震いする。

 ええ、そんなレベルで?


「いや、飲みの時とか、たまに呼ばれてるじゃないですか。牧田さんとか川崎さんから」

「だってあの2人は年上だしさ。社歴も自分より長いから。最初は結構抵抗あったんだぞ、上司ぶるの。課長が怒るから仕方なくさぁ」

「いまはもう結構板についてますよ、上司っぽいです」

「言うねぇ、


 と、言ってしまってから、主任――じゃなかった、潤さんは「ああそうか」と呟いた。

 そして、言い出しっぺは自分の癖にちょっと恥ずかしそうに視線を逸らし――、



 と言った。

 

 その言葉に、何だかもうコントのようにずっこけてみせる。


「ちょ、ちょっと待ってくださいよ」

「何。名前で呼んだよ?」

「そうじゃなくて!」

「何、そっちも『さん付け』が良かった? いやぁ小橋君とはそう呼び合ってたからさ、『藍ちゃん』『光ちゃん』って」

「あれは、半分ふざけて! 何かこう……幼馴染がじゃれてるみたいなノリっていうか……」

「何だ、ふざけてたのか」

「ま、まぁ最初はそんな感じで……。いまはもうすっかり定着しちゃいましたけど。でもやっぱり、ちょっと子どもっぽいっていうか……そうでなくても年下ですし……」


 そう、光ちゃんがふざけて『藍ちゃん』なんて呼ぶから、こっちもつい乗っただけなのだ。

 年齢の差はどうしたって埋められないけど、せめて、恋人の時くらいは、それを感じないようにしたい。


「だから、出来ればその……『ちゃん』っていうのは、ちょっと……」

「そうだね。それじゃ、『藍君』。これなら良い?」


 ふわり、と笑うと、セットしていない髪がさらりと揺れた。――寝癖? もちろん跳ねてる。後ろの方がね。ぴょん、って。

 コンタクトを外した眼鏡の奥の瞳は、いつもより優し気に見える。けれども、悔しいほど恰好良い。可愛らしい寝癖もついてる癖に。何でだよ。


 その余裕のある笑みが悔しい。

 ぜったいこっちばかりが好きなはずだ。

 そう感じてしまうことも悔しい。


 そんな拗ね方こそ子どもっぽいとわかっている。

 だからそれを隠すように、精一杯強がって胸を張ってみる。

 胸板の厚さだったら、負けないんだから。


 すると潤さんは、何やら眉をしかめて首を傾げてこう言った。


「でも、『君付け』だと何だか『片岡君』って呼ぶのと大差ないもんだね」と。


 まぁ、そう言われたらそうかもしれない。


「言われてみれば……でも――」


 でも、悪くないですよ。


 そう言おうとしたのだが。


「――藍」

「は、はい?」


 張りのある低めの声でそう呼ばれ、思わず声が上ずってしまう。

 どくどくと心臓が騒ぎ始めて正直うるさい。

 けれど、目の前のこの人は、やはり余裕のある大人で、涼しい顔をしているのだ。口の端をほんの少し緩ませて。穏やかに笑って。

 わざとなのか、今度は耳元で囁くように言う。


「いっそ呼び捨てにしようか。藍、って」


 ああくそう。

 何だよ、この緩急。

 完全にこっちを落としにかかってるよ、この人。

 天然? それとも、計算?

 どっちにしたって、もうとっくの昔に落とされてますよ、こっちは。


 だからね、あなた、めちゃくちゃ恰好良いんですよ。

 ちょっとニヒルに片頬を少し上げて、流し目を送るなんて。

 そんなの、絶対反則。絶対!


「どした?」


 どした、じゃないんですよ、潤さん。

 何で今度はそんなのん気な声なんですか。

 さては本当に素でしたね?

 やっぱりこの人無自覚タラシなんだ! 怖い! この人の恋愛ポテンシャル計り知れない! 負けそう! 


「いえ、何でも。ただ――」


 だけど、俺だって一応男なんだからな。

 背だって俺の方が高いんだし、そりゃ大槻主任ほどじゃないけど筋肉だって一応あるんだぞ。


「多少押しは強めにって言ったのは、潤さんですからね」


 そう前置きしてから、ぐい、と潤さんの肩を抱き寄せ、素早くその唇を奪う。

 すると彼女はちょっとびっくりしたような顔をしてから、少し気まずそうに視線を逸らした。

 

 知ってるんだ俺は。

 案外彼女は、こういう押しには弱いってことを。


 ああもうほら、耳まで赤い。


「負けないですから、こういうところでは」


 そう宣言すると、潤さんは「くそっ、完全に油断してた」なんて悔しそうに呟いてから、もう観念したように苦笑した。

 けれど――、


「頼りにしてるよ、藍」

 

 前髪をかき上げてそんなことを言う潤さんは、やっぱり恰好良い。


 喉が、ぐぅ、と詰まる。

 言葉が詰まって出て来ない。

 どうせ、好きとか、恰好良いとか、そんなんばっかりだけど。そんなのばっかりが渋滞を起こして引っ掛かっている。


「どうした、またしゃべらなくなって。仕事用の『PenTalk』貸そうか?」


 首を傾げてそう問い掛けてくる潤さんは、もういつもの潤さんに戻っている。

 

 仕事の時のキリッとした『主任』ではないけれど、潤さんはやっぱり凛とした大人の女性だ。


 俺がしゃべらなく――いや、しゃべれなくなるのは、もうほとんどあなたのせいなんだからな。


 そんなことを思いながら潤さんを見つめ、俺は、


「大丈夫です!!」


 と、力強く返し、そして――、


「ちゃんと自分の持って来てます!」


 と自分の鞄を指差した。

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