◆6◆ 伏見主任に告白したい!

「……別にほんとはあそこまで徹底してしゃべらなくても良かったんです」


 もうここまで来たらあとは勢いだ!

 と思いつつも、声の方にはまったく勢いが乗らない。

 それはここがしっとりしたジャズの流れるバーだからかもしれない。もしここが大衆居酒屋だったなら、いまごろきっと「好きだぁっ!」なんて絶叫してるだろう。

 

「そうなの?!」


 と、主任は目を剥く。絶対、だったら何だったんだよ、この2週間、とか思ってるはず。


「いま、『だったら何だったんだよ、この2週間』とか思いましたね」

「ちょっと、人の心読まないでくれる?」


 ほらやっぱり。


「主任の心に、ほんの少しでも良いから引っ掛かっていたかった、というか……」


 そこまで言ったのに、この鈍感上司ときたら、


「ええ? どういうこと?」


 である。

 もうほんとに、どういうことなんだろう。この人恋愛ってしてこなかったのかな? いや、恋人とかは普通にいたみたいなんだけど。


「だからつまり」


 こうなりゃもう、態度で示す他ないんじゃないか。


 そう思った。

 そう思ってしまった。

 酒の力って怖い。そういうことにする。


「失礼します」

「何が?」

「いま、酔ってますから」

「見ればわかるよ。顔真っ赤だよ片岡君」

「だから、最悪の場合、酔った勢いと、記憶にありません、で逃げます。先に言っておきます」


 こんな予防線を張るなんて、卑怯だ。そんなことわかってる。


「だから何が」


 胸に当てている主任の手を、ぎゅ、と握る。お守りをそうするように。

 そして、南無三! と目を瞑って主任の頬に口づけをした。お釈迦様の力をお借りしても、さすがに唇を奪う勇気までは出て来なかったのだ。ていうか自分は一体いつから仏教徒になったんだ。


「……ちょっと、片岡君?」


 はい、何でしょう。と心の中で返事する。


「いきなりこれはないんじゃないかなぁ」


 ええと、はい、おっしゃる通りで。


「あのさ、こういうのに駄目出しもどうかと思うけど、これって場所はで合ってるの?」


 合ってません。たぶん。


 急に恥ずかしさと気まずさが込み上げてきて、主任の手を離し、すとん、と着席した。手を当てていたところが、そのぬくもりを失い、急激に冷えていく。


 ちらりと見えた主任の顔が、何だか呆れているように見えて、慌てて鞄から営業用の『PenTalk 2.0』を取り出す。久し振りの出番だ、『2.0』。


 ちゃんと伝えなくちゃ、やっぱり。

 

 だけど焦れば焦るほど字が崩れてしまい、なかなか読み取ってもらえない。

 何度も書き直して、やっと『伏見主任が好きです』という文章をどうにか書き上げると、それを主任に良く見えるように、ずずい、と差し出した。主任に良く見えるように、というのは半分嘘だ。ちょうど主任の顔が隠れるようにしただけだ。とてもじゃないが、いまはその顔をまともに見られる気がしない。

 恐る恐る顔を傾けてちらりとその表情を盗み見るが――やはり何やら呆れたような顔をしている。


「これまで上司として片岡君には色々教えてきたつもりだったんだけど――」


 ああ終わった。

 明日からどうするんだ。


 顔だけではなく、『PenTalk』も傾け、勇気を出して視線を合わせてみる。


 ああ駄目だ。何かもう絶対呆れてる。


「こうなってしまった以上、君にはまだ教えなくちゃいけないことがあるみたいだな」


 え。

 それはどういう意味?

 部下と上司の距離感とか、そういうこと? きっちり線を引け、みたいな? 有り得るなぁ、確かに。主任てば仕事命みたいなところあるし。上司として、部下にはそういう気持ちを持ったりしないんだ、とか?

 何だよ大槻主任の馬鹿。全然じゃないか。全然身近なところで恋愛なんかしないんじゃないか。


 と、まったくお門違いの怒りを大槻主任に向ける。どう考えたってそれは自分の勘違いなんだけど。だけど、もう誰かのせいにでもしないと精神の均衡を保てない。


 と。


 主任の指が、にゅ、と伸びてきて、顎を掴まれた。何だ何だと思っているうちに顔を上げさせられる。眼前に、主任の顔が迫る。


「良いかい? さっきみたいなシチュエーションなら、普通は――」


 え。


 ふわ、と鼻先を掠める、ラムの香り。

 主任が唇にキスをしたのだと気付いたのは、その柔らかく温かなものが離れてからだった。その一瞬のぬくもりをしっかりと感じ取っていたらしく、その喪失が、すぅ、と寂しい。


「ここまでいかないと。片岡君、君は営業なんだから、多少押しは強めにね」


 そんな恰好良いこと言っちゃって。

 でも、主任、顔、真っ赤じゃないですか!


 キスのせいなのか、酒のせいなのか、身体は燃えるようにかっかと熱く、心臓の方も尋常じゃないヴォリュームとテンポで脈打っている。落ち着け落ち着けと言い聞かせながら、震える手でゆっくりと、『今後共、ご指導願います。お付き合いしてください。片岡藍』と書く。


 それを恐る恐る差し出すと、何だか不服そうな顔をしていた主任は、それを、やれやれ、なんて呟きながら受け取った。


 そして、何だか苦笑しながらさらさらと書いてこちらに向ける。

 何だよ、やっぱり主任の字なら一発で読み取ってくれるのか。字きれいだもんな、主任。


 何てことを思いつつ受け取る。

 そこに書かれていたのは――、


『了解。公私共によろしく。伏見潤』という、手書きの文字だった。そうだ、主任の字なら別にフォントに変換しなくたって良いんだ。


 その後、主任はスマートに片手を上げてマスターを呼ぶと、自分のためにオレンジジュースを頼んでくれた。主任はコロナビール。くし切りのライムが刺さった瓶ビールだ。


 注文を終えると、主任は、はは、と軽く笑って向き直った。前髪をくしゃりとかき上げる。額にはうっすらと汗が光っていた。

 ヤバい、そんなのも様になってる。


「――時に片岡君。明日は休みだけど、ランチデートでもするかい?」

『ぜひ。ご一緒させてください。』

「よし。明日こそは奢らせてもらうからね。お勧めの定食屋があるんだ」

『ご飯少なめも出来ますか。』

「そりゃもちろん。ていうか、若いんだからたくさん食べなよ片岡君」


 と、ここまでやり取りして、ついついまたしゃべらなくなってしまっている自分に気付いた。


 だけど、何だか恥ずかしいんですよ、主任。

 あなたがもう恰好良すぎて。

 もうほとんど反則ですからね。



 

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