◇5◇ 片岡君はしゃべりたい。
「伏見主任」
こほん、と咳払いをした後で、片岡君はずずいと身を乗り出してきた。
いつも真剣な切れ長の目と自然に整えられた眉毛が迫る。数時間前まではこれが片岡君の全てだったが、いまは、その下につんと高い鼻と、血色の良い薄めの唇がある。
「何。今度は何だい」
ぶっきらぼうにそう返す。
もう何が来たって驚くもんか。へっ。
「この2週間、色々考えてくれてたんですね」
「そりゃ考えるさ。大事な部下なんだから」
頬杖をついて、大袈裟にため息をついてみせる。
可愛い、というのはさすがに止めた。誤解を与えかねない表現だからだ。
すると、片岡君は露骨に肩を落とし、首を左右に振った。
「大事な部下、ですかぁ」
「何。大事な部下じゃ不満なわけ? これでも結構片岡君のことは買ってるんだけど――」
「そうじゃないんですよねぇ……」
何だ何だ。
やっぱり『可愛い』もつけなきゃ駄目だったか?
ここ2週間まったくしゃべらないと思ったら、今度は良くしゃべる。片岡君、情緒不安定かよ。
おや、グラスも空じゃないか。お代わりいるかな? でも片岡君飲み会だと酒は最初の1杯だけなんだよなぁ。とりあえずメニュー渡しておくか。
「片岡君、飲み物お代わりいるかい。後ろの方にノンアルのカクテルも――」
――お?
「違う違う。そっちは手。渡したいのはこっち、メニューメニュー」
片岡君の華奢な白い手が、こちらの手首をがしりと掴んでいる。
「何だ片岡君、やっぱり君酒弱いんじゃないか。仕方ないなぁ。ノンアルのビールで付き合ってやるから、ほら、ソフトドリンクにしときなさい」
「そうじゃなくて」
「何。飲みたいの? まぁ明日は休みだから多少は良いけど。頼むからちゃんと歩いて帰ってよ? とてもじゃないけど君を担いで歩けるほどこっちは若くないんだから、なーんて。ははは」
「そうじゃなくて」
「大槻主任みたいなムキムキだったら良かったんだけどね」
「そういうことでもなくて」
そう言うと、片岡君はパッとその手を離した。そして、やはりまたむすっとして、ぷいと顔を背けてしまった。
何だ何だ。片岡君、やっぱり情緒不安定かよ。
「どうして伏見主任はいつもそうなんですか」
「――は?」
「どうしてそんなに余裕があるんですか」
「余裕があるかは自分ではわかんないけど。あるとすれば、何だろ、経験値の差かな? それに年上だし……」
「年上たって、たったの3つじゃないですか」
「そういやそっか。片岡君中途入社だもんね」
「子どもに見えますか、3つ下は」
「いや? そんなことはないよ。片岡君、落ち着いてるし」
それにむしろ君はちょっと顔つきも老け顔だし――ってまで言っちゃったらセクハラとかになるのか。いや、そもそも童顔の反対語って老け顔であってるのだろうか。童顔はまだ褒め言葉にもなりそうだけど、老け顔ってこれ最早悪口としか。
「落ち着いてませんよ。――ほら」
「――お? おぉ?」
再び手を掴まれ、ぐい、と引っ張られる。少し身体が浮いて、椅子が、がたん、と鳴った。一瞬バランスを崩しかけたが、テーブルに手をついてどうにか体勢を立て直した。
引っ張られた方の手は、というと――、
片岡君の胸に、ぎゅ、と押し付けられている。
片岡君、君、細身の割に、案外胸はヴォリュームがあるんだね。結構ふかふかしてる。なんて言ったらこれは確実にセクハラ案件だ。いや、待て。先に仕掛けたのは片岡君だぞ? それでもこっちに非があるのか?
そのふかふかした胸の下で、片岡君の心臓がどくどくと脈打っている。それが正常な速さでないことは、さすがにわかる。
「ずっと落ち着いてません」
「え、何で?」
「何でって……。さすがにわかってくださいよ。この状況ですよ?」
「いや……ごめん。何だろう、わかるようで、わからないようで、むしろわかるのが怖いというか……」
そう、さすがにここまでされたら、もしかして、と思わざるを得ない。
もしかして片岡君は……。
だけど、落ち着け。
片岡君は、部下だ。
上司が部下に手を出すなんて――って、この状態は完全に逆だけど。
「……別にほんとはあそこまで徹底してしゃべらなくても良かったんです」
「そうなの?!」
えぇ、だったら何だったんだよ、この2週間。
「いま、『だったら何だったんだよ、この2週間』とか思いましたね」
「ちょっと、人の心読まないでくれる?」
そう言うと、片岡君は「主任の考えくらいお見通しです」なんて小憎たらしいことを言った。
「主任の心に、ほんの少しでも良いから引っ掛かっていたかった、というか……」
「ええ? どういうこと?」
「だからつまり」
片岡君の鼓動はより一層速くなる。
こうやって人の鼓動を感じることなんて最近めっきりご無沙汰だ――というか、恋人がいた時も、相手の胸がこんなに高鳴ることなんて最初のうちだけだったし。
ときめきなんてものは、そう長くは続かないのだ。
でも、ときめきがなくなったからといって愛情までもなくなるというわけではない。それが去った後に残る安らぎというのか、家族のような凪いだ関係というのか、そういうのも自分は嫌いじゃない。むしろ、そっちの方が自分は好きなんだけど。
片岡君は、こちらの手を捕らえたまま、少し腰を浮かせ、さらに顔を近付けてきた。きれいな顔だ。頬がほんのり上気して、艶々している。ああ、若いって良いねぇ。さほど変わらないですよって言われそうだけど、いやいや、肌や体力に関しては、3歳の差って結構大きいものだから。
こちらを見つめるその切れ長の瞳も、潤んでいる。何だい、片岡君。少女漫画のヒロインみたいでちょっと可愛いじゃないか。
なんて心の中で茶化していないと、こちらの心臓だって実はさっきからおかしなビートを刻んでいるのだ。それこそ一昔前の少女漫画みたいに頭が噴火してしまいそうになる。
落ち着け、落ち着け。
片岡君は、部下だ。
その言葉を何度も唱える。
「失礼します」
「何が?」
「いま、酔ってますから」
「見ればわかるよ。顔真っ赤だよ片岡君」
「だから、最悪の場合、酔った勢いと、記憶にありません、で逃げます。先に言っておきます」
「だから何が」
自身の胸に当てているこちらの手をぎゅっと握り、片岡君は、これまたぎゅっと目を瞑って、その薄い唇を――……、
「……ちょっと、片岡君?」
「……」
「いきなりこれはないんじゃないかなぁ」
「……」
「あのさ、こういうのに駄目出しもどうかと思うけど、これって場所はここで合ってるの?」
片岡君の唇を頬に付けた状態で、そう指摘する。
片岡君は真っ赤な顔のまま、すとん、と着席した。気付けば手も解放されている。
冷静にそう指摘したけれど、こっちの心臓はもう破裂寸前である。久し振りすぎる、こんな展開。どうしてくれるんだ片岡君!
すると片岡君は、鞄の中からがさごそと何かを取り出し――、
「あ」
それは。
ブルーグレーのカバーが着けられた『PenTalk 2.0』だった。営業社員全員に配布されるやつだ。それにさらさらとペンを走らせ――、やはり読み取ってもらえなかったと見えて、ゆっくり書き直してから、カツ、とタップする。
それを盾のようにして赤い顔を隠しながら、こちらに向けてきた。いやいや、メドゥーサじゃないからね。
そのディスプレイに表示されているのは、ゴシック体の――、
『伏見主任が、好きです』
という一文だった。
怯えたような目でこちらを見つめて来る片岡君を見て、はぁ、とため息をつく。
やれやれ、いつもの強い眼差しはどこへ行ってしまったんだい、片岡君。
「これまで上司として片岡君には色々教えてきたつもりだったんだけど――」
そう前置きすると、片岡君は『PenTalk』を少し傾けて視線を合わせて来た。恐る恐る――といったようなやはり怯えた目で。
「こうなってしまった以上、君にはまだ教えなくちゃいけないことがあるみたいだな」
この言葉を一体どういう意味で受け取ったのだろう、片岡君は、『PenTalk』をテーブルの上に起き、しょんぼりと肩を落としている。
その片岡君の顎に手を添え、軽く顔を上げさせる。
「良いかい? さっきみたいなシチュエーションなら、普通は――」
音もなく、軽く唇を重ねる。
「ここまでいかないと。片岡君、君は営業なんだから、多少押しは強めにね」
必死に平静を装って業務中のトーンでそう言うと、片岡君はさっきよりも赤い顔で『PenTalk』にゆっくりとペンを走らせた。不服そうに口まで尖らせている。何だよ、子どもか。
ていうかな、先に仕掛けたのは君だろうに!
『主任、顔が真っ赤ですよ。』
ぐっ……。
やけに暑いと思ったんだ。エアコンじゃなくて内部の問題だったか!
『今後共、ご指導願います。お付き合いしてください。片岡藍』
視線を逸らしつつ、目の前に差し出されたそのディスプレイを受け取る。
畜生、こうなりゃヤケだ。……というほどでもない。だって正直悪い気はしない。
何だ、案外自分も片岡君のことが気になってたんじゃないか。
いや、それこそが片岡君の狙いだったのかもしれない。
策士だな、片岡君め。
『了解。公私共によろしく。伏見潤』と。
そう書いて、降参、とばかりに片手を上げた。
それを見て、こちらへと向かってくるマスターに「コロナください。それと、オレンジジュースを」と告げた。
そして、再び片岡君に向き合う。
「――時に片岡君。明日は休みだけど、恋人らしくランチデートでもするかい?」
『ぜひ。ご一緒させてください。』
「よし。明日こそは奢らせてもらうからね。お勧めの定食屋があるんだ」
『ご飯少なめも出来ますか。』
「そりゃもちろん。ていうか、若いんだからたくさん食べなよ片岡君」
カップル成立の照れ臭さを誤魔化すようにそんなことを話していて気が付いた。
あれ、片岡君、またしゃべらなくなってるな、と。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます