【片岡side】伏見主任の気を引きたい。
◆1◆ 伏見主任は恰好良い。
福郎くん、今日もお願い。
そんな祈りを込めつつキーボードを叩いてメールを作成する。
あと数分後にこのメールが向かう先は――もう、すぐ隣にいる、この班のボス、
ただ、隣といっても、並んで座っているわけではない。6台のデスクで作られた対向式レイアウトの島の端、班全体を見渡せるよう、『お誕生日席』なんて言われる位置にその主任のデスクはある。
自分は中途採用とはいえ、ここではまだ1年目のぺーぺーなので、
送信をクリックする前に、ちらり、と主任を盗み見る。
伏見
29歳、独身。出身は秋田。だけどちっとも訛ってなんかいない。
ただの平社員が集められる情報なんて良いとここんなものだ。
どこに住んでるとか、行きつけの飲み屋はどこだとか、そんなことまで調べられない。尾行でもすればわかるかもしれないが、そんな時間がどこにある。そんなことに時間を費やして仕事の方が疎かになれば、もしかしたら別の部署に飛ばされてしまうかもしれない。そんなことになれば意味がないのだ。
けれども最近、強力な味方を得た。
このオフィス内では主任以上の役職者は部下に対しては男女問わず『君付け』、平社員間は『さん付け』(先輩から後輩へは『君付け』)が義務付けられているのである。下の名前で呼ぶことも基本的にはNG。ただし、名字が同じという場合のみ、フルネームもしくは名前呼びが許されているけど。幸いなことに、いまこのオフィス内では名字被りがない。
だから、上司のいない飲み会では『光ちゃん』とか『ひいちゃん』なんて呼んでいるけれども、オフィスでは小橋さんと呼ばなくてはならない。
小橋さんは右隣の席に座る2歳年下の先輩だ。新卒で入社して、2年目。明るくて、いつもハキハキしている。
「敬語なんて全然良いんですよ、片岡さんって前職もこれ系の営業だったんですよね? むしろこっちがぜーんぜん後輩! 年下ですし!」
と屈託なく笑うのだ。
そして、光ちゃんの方でも、「社歴的には先輩、年齢的には後輩、だったら、足して2で割れば、タメみたいなもんだよね!」という謎理論の元、プライベートでは敬語なしのやり取りをしている。向こうも『藍ちゃん』なんて気軽に呼んでくるし。
前の前の『
ちなみに光ちゃんのターゲットは隣の中西班にいる瀬川
とにかく、自分にわかるのはやはりそれくらいだ。光ちゃんの方ではもっと色んな情報を押さえているらしいが。
そしてその007も真っ青な諜報活動により、何と、主任の私服姿の隠し撮りに成功したらしく、無料メッセージアプリ経由でその画像が送られてきた。光ちゃん、君は普段どこで何してんの?
「撮ってしまった側がこんなこと言うのもアレなんだけど、藍ちゃんさ、がっかりしないでね」
そんな前置きと共に送られてきた我が愛しの伏見主任の私服姿とは――、
ややくたびれた大きめの黒パーカーに、細身のストレートジーンズ、プラス寝癖付き、というものだった。足元はこれまた年季の入ったコバルトブルーのコンバースである。バッグはなし。きっと財布とスマホを尻ポケットに入れているのだ。
何てことはない、近所のコンビニに行く時の恰好である。自分だって休みの日はこんなもんだ。
それに、ぴょん、と跳ねている後頭部の寝癖が何とも可愛らしい。
それにそれに、ああ、会社ではコンタクトだったんだな、眼鏡もかけている。
「いや、別にこれはこれで美味しいよ。ギャップがあって可愛い」
「マジ? 藍ちゃん、こういうのに萌えられるタイプなんだ?」
「光ちゃんは駄目なの? 良くない? いっつもばしっとスーツで髪もばっちりセットしてる伏見主任がさ、休みの日はこんなに力抜けてるなんて、可愛いじゃん」
「それは藍ちゃんが主任を好きだからだよ。いや、確かにギャップってのは良いもんだけどさぁ。休みの日の瀬川さんがこうだったら、ショックだなぁ……」
同じ年上好きでも相容れない部分はあるようだ。
まぁ、そこは個人の趣味だから。
しかし……何度見ても可愛い。
光ちゃんに力説した通り、普段の伏見主任というのは、とにかく隙がない。
ぱりっとアイロンのきいたスーツを着て、髪もきちんと整えられている。
そのスーツだって、毎日同じ物、なんてことはない。
光ちゃんが飲みの席で突撃インタビューしたところによると――、
「髪? 寝癖を直して、ワックスでちゃちゃっとやってるだけだよ」
とのことだが、本当にそれだけですか? と言いたくなるほど決まっている。
スーツにしても、
「いや、営業だし、普通でしょ。ボーナスの度に、ちょっと良いのを買うんだよ。そうやってコツコツ増やしただけ。体型もあんまり変わんないし。あとはクリーニングにお任せだから。シャツ? シャツもクリーニングだよ。自分でアイロンかけると逆に皺になっちゃってさ、ははは。下手くそなんだ、ははは」
らしい。
主任の言うちょっと良いというのが、我々平社員に手が出せるレベルかは置いといて。値段は恐ろしくて聞けなかったと光ちゃんは言っていた。
とにかく、主任は自分の体型に合ったスーツを何着も持っていて、それを着回しているのだ。プライベートはともかく、会社ではかなりのおしゃれさんなのである。
なのに。
ああ、それなのに。
そんなに素敵なスーツなのに、シャツもその日のスーツに合わせて色やデザインを変えてるのに、この人は、そんな素敵な恰好でお世辞にもきれいとは言えない中華料理店や定食屋に行こうとするのだ。いや、味が良いのは認める。認めるけど、その恰好ですよ、主任!? しかも、その店の売りって、安さとかでもないじゃないですか。こぎれいなカフェとかレストランのランチよりも全然高かったりするじゃないですか!
まぁ、独身で自由にお金を使えるわけだし、他人がどうこう言うのもおかしいとは思いますけど。
せっかく恰好良いんですから、もうちょっとおしゃれなところに行きましょうよ。
こっちが悔しいんですよ、主任っ!!
時計だって、
ihanaといえば、高級時計、とまではいかないけれども、やっぱりそれなりの値段で、何よりも、その『高級時計』ってヤツにありがちなおっさん臭さや嫌味さがないブランドだ。平たくいえば、それを愛用している、というだけで「センスが良い!」と思ってもらえるような。
学生や若者向けにそれよりもランク下のカジュアルなラインも出しているので、自分はそっちを身に着けている。自分の手取りでは正直それが精一杯である。
とはいっても、ただ身に付ければ良いってもんでもない。それが背伸びに見えない、というのは重要ポイントだ。カードで分割にすれば我々平社員にも――多少の覚悟としばらくの節約生活は必要だけれども、買うだけなら買えてしまうからである。
光ちゃんがその名の通りに目を光らせて、「主任、その時計、ihanaのclassGじゃないですか。もう廃番になっちゃったんですよ、その型」と言うと、主任は「へぇ?」と何だか気の抜けた声を発した。
「そうなんだ、これ。そんなに人気ないの?」と。
その言葉に凍りついたのは自分と光ちゃんだけではなかった。おしゃれに敏感な新卒の田端さんだけではなく、意外にも、妻子持ちの山中
「ちっ、違いますよ主任! 逆ですよ、逆! ihanaのその型は売れすぎて売れすぎて廃番になったんです!」
「ええ? そんなに売れるならもっと作れば良いのに。もったいないなぁ」
「もう、主任は! それが良いんじゃないですかぁ!」
「まぁまぁ田端君。でも、主任もそれが良くて買ったんですよね?」
いつも大人しい田端さんが声を荒らげ、山中さんがそれをなだめるようにして尋ねると、やはり主任はちょっときょとんとした顔をして首を振った。
「いや、選んだのは当時の恋人」
とさらりと言ったのだ。
これには、どうやら聞き耳だけは立てていたらしい伏見班の牧田博之さんと中西班の川崎
「
「そりゃ駄目っスよ。そんなんだからいつまでも独身なんスよ主任はぁ」
「いつまでもって言われても、まだ29だし。まだ結婚する気ないだけだし。ていうか、プレゼントじゃなくて、選んだだけだよ。お金はしっかり払わされたから」
クールにそう返し、ビールの大ジョッキを豪快に飲む。主任はさすが酒どころの出身だけあって、結構酒も強いのだ。そういうところも恰好良い。
「そういうことなら……、うん、プレゼントではない、から……?」
「良いんでしょうか……?」
とその場にいた人達はもごもご言いながら首を傾げた。
それよりも主任が一括で払ったことがわかると、話題はそっちの方に移っていった。主任はやり手だから、役職手当の他にも営業手当がかなりついているのだ。
とにかくそんなわけで、伏見主任は、恰好良い。
とりあえず、もう一度言う。
伏見主任は恰好良いのだ。
伝わっただろうか。
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