◇4◇ 片岡君はそれを渡したい。

 さて、これは一体どこに向かっているのか。


 会社を出て、かれこれ5分ほど歩いている。

 昼間のイタリアンキッチンを通りすぎ、おしゃれな美容室を通りすぎ、片岡君は黙々と歩いている。まぁ、そりゃ片岡君なんだから、どうしたって黙々になるんだけど。


「片岡君、どこに行くの?」


 そろそろ目的地くらいさぁ、と言いかけたところで、片岡君の足がぴたりと止まった。


 バーだった。

 何やらかなり年季の入った看板には『BAR Oranges and Lemons』と書かれている。Oranges and Lemons といえばマザーグースだろうか。それとも単に店主の好きなもの、とか?


 しかし、片岡君とお酒なんて、えーと丸々20日ぶりくらい? だろうか。

 とにかく研修に行く前だから、少なくとも2週間ぶりではある。

 いや、違うな、10日くらい前の飲み会に確かいたな。……いたよな?


 何だよ、一昨日は皆で飲もうって誘っても来なかったのに。


 ドアを開けると、カラン、とベルが鳴った。しっとりとしたジャズの流れるバーだ。

 わお、これは絶対飲み会では使わない雰囲気。もしや片岡君、こういうお店が好きなのか? おっしゃれー。似合わねー、自分。ははは。


 ていうか、会社の近くにこんなバーがあったなんて、全然気が付かなかったな。


 正直自分はこういうバーにはほとんど行ったことがない。昔の恋人にせがまれて渋々行ったというか連れていかれたことはあるが、それよりは居酒屋の方が断然気楽に飲める。ムードもへったくれもない、なんてその当時の恋人はあきれたような顔をしていたっけ。良いじゃないか、別に。


 しかしバーというのはとにかく気恥ずかしいのだ。そこに入るのも恥ずかしいが、そもそも、その店を選んだ、という時点で何かもう恥ずかしい。

 バーを利用する人というのは、その特有の雰囲気が好きで利用しているのが大半なのだと思うのだが、中には、大人ぶりたいだとか、通ぶりたいといったものもあるらしいのだ。自分はまぁ、どちらかといえば大勢でわいわい飲むのが好きだが、決して静かに飲むのも嫌いなわけじゃない。けれども、こういう場に慣れていない自分の様な人間はきっと、その通ぶりたい客に見えているのではないかと、何だか背筋がぞわぞわしてしまうのである。


 ついついそんなことを考えてしまい、ただ、もうひたすら気恥ずかしい。雰囲気に酔う、というのか、浸る、というのか、そういうのを楽しめるほどの年齢を重ねているわけでもないし、酒に詳しいわけでもない。自分が飲むのは専らビールだ。ビールだったらメーカーは正直なんだって良い。発泡酒だって悪くないと思う。

 でもまぁ、こういうところだったら、ラムバックくらいは飲む。昔の恋人に無理やり連れて来られた時に色々飲まされた結果、ラムはまぁそこそこ好きらしいということがわかったからだ。あとはまぁ、ウィスキーか日本酒。ウィスキーにしても、バーボンだかスコッチだかってのは正直わからん。美味けりゃ何でも良い。


 そう、例えばこういうバーというのは、むしろ大人の男女がしっとりと……って、まさか片岡君と? いやいやいやいや! ないない、それはないよ。


 そんなことを考えていると、片岡君はこちらを気にする素振りもなく、常連のような足取りで、カウンターへと向かった。マスターらしき人と小声でやりとりをし、さらに奥へと進む。うむ、やはり慣れている。


 何だい、片岡君。君って意外とそういうところあるんだね。

 ていうか、バーといったらカウンター席じゃないのか?

 ドラマやら小説ではだいたいカウンターじゃないか。

 あぁ、でも、あれはそう、男が女を口説く時やナンパする時か。

 ということは、カウンター席じゃない方が自分としても恥ずかしくないかもしれない。うん、片岡君、ナイスな気遣いだ。


 そう思いながらついていく。

 結局、片岡君が立ち止まったのは、店の一番奥にある2人掛けのテーブルだった。


 そして、椅子を引き、「どうぞ」と。


 わわわ、しゃべった!


 とまた反応しそうになったが、ぐっ、と堪える。さっきはそれで引かれてしまったのだから。ていうか、片岡君、椅子とか引かないでくれよ。君、変なところで上司に気を遣うなぁ。恥ずかしいから止めてくれ。


「ありがとう。でも、上司だからって別にそこまで気を遣ってくれなくても良いんだよ」


 そう言いながら、座る。

 何だよ何だよ。片岡君らしくないぞ。君、ランチの時はいっつもどっかと先に座るじゃないか。


 何だか、むすっとした顔で片岡君は着席した。ヤバい、気分を害したかな? これは明朝体か?


 重苦しい沈黙が流れるところへ先ほどのマスターらしき男性がメニューを持ってやって来る。


「えぇと、ビール……いや、せっかくだから、ラムバックをいただけますか。片岡君はどうする?」


 そう聞くと、片岡君は『PenTalk 3.0』が入っているであろうトートバッグに手を伸ばすこともなく、「では、同じものを」と言った。


 またしゃべった!

 解禁か? 会話解禁なのか? やっと!?


 その辺を突っ込みたいが、まだ我慢だ。

 上司として、ここは我慢。


 テーブルの上に置いた手を強く握り、歯を食い縛る。片岡君はやっぱりちょっとむすっとした顔でこちらを見ていた。


 2人分のラムバックとおつまみのナッツが運ばれてきても、乾杯なんてなかった。片岡君は無言でラムバックを呷り、また少し顔をしかめた。中西主任や加山課長の前では絶対やるなよ、片岡君。自分は別にそういうのどうでも良いと思ってるけど、気にする人は気にするからな。


 そんな気持ちを乗せて、じぃ、と片岡君を見つめる。


 しかし何なんだ、もうほんとに。

 用があるんじゃなかったのか。へい、片岡君よ。


 ……もしかして、辞める、とか?

 その相談?


 有り得る。

 この雰囲気、大いに有り得る。

 さては酒の勢いで打ち明けるつもりだな、片岡君! そうなんだな!?

 何だ何だ。何かやらかしたっけ? いや、片岡君は真面目だし、自分がサポートに入っているから大きなミスもないはずだ。それとも職場の雰囲気? あんまり飲みに誘いすぎたかな? あぁやっぱり毎日のランチが嫌だったとか? だったらそう言ってくれれば無理に誘ったりはしなかったのに。


「伏見主任」

「な、何?!」


 鞄から、三つ折のA4用紙が入る大きさの茶封筒を取り出し、テーブルの上に置く。いつもと変わらぬ――いや、いつもより幾分か緊張しているような真剣な眼差しに怯みそうになる。


 来た。

 ついに来た。

 退職届だ。ビンゴだ。

 この大きさ、間違いない。


 どうしよう。

 正直、片岡君には辞めてほしくない。可愛い部下なんだ。

 かといって、こちらには引き止める権利なんてないんだけど。説得するにしろ何にしろ、届は必ず受理しなくてはならない決まりがある。


「こちら、お願いします」

「う、うん。わかった……」


 ――ん?


 茶封筒を手にとり、その重さに違和感を覚えた。退職届が入っているにしては重い。というか、そもそも厚さがおかしい。


 不思議に思って中を取り出してみると――、


「『PenTalk 3.0』?」


 ワインレッドのカバーが付けられた電子メモパッドだった。片岡君がこの2週間ずっと使っていたものである。


 何だ何だ。どういうことだ。

 そう思って顔を上げると、飲食の際には顎の方にずらすだけだったマスクを完全に取り去り、こちらをじっと見つめている片岡君と目が合った。片岡君は一瞬グラスに視線を落としてから、何やら小さく頷いて、再び真っすぐに見つめて来た。いつもきりりとした切れ長のその瞳で。


「モニター、終了しました」

「――え?」

「中西主任に渡していただけますか」

「え? 中西主任に? え? モニターってそもそも何のこと? ていうか、何? 『3.0』は別にモニターなんて……いや、これ『3.0』じゃないな! 『3.2』だ、よく見たら!」


 『~.2』というのは試作機につけられるナンバーである。ていうか、試作機のモニターなら中西主任のところでやるんじゃないのか?


「漢字変換と学習機能のモニターです。課の中で癖字が一番酷いからって、中西主任が」

「あぁ! 成る程! って、それも酷いな、中西主任!」


 例え事実であっても。

 中西主任、ちゃんと言葉は選んだだろうな。

 いくら先輩でも自分の可愛い部下を傷付けることは許さん。


「20日間、オフィス内ではこれを使うようにと」

「なぁんだぁ、それでまったくしゃべらなかったのかぁ……」


 一気に緊張が解け、脱力する。安堵の息と共に変な汗がぶわっと吹き出た。ラムバックのグラスを持ち、ごくりと一口飲む。おお、ここのラムバック美味いな。


 アルコールが全身を巡り、心身の疲労にじわりと沁みていく。

 ちょっとエアコンがききすぎなのではないだろうか。やけに暑い。


「気になりました?」

「え? 何が?」

「ここ最近ずっとしゃべらなかったことです」

「そりゃそうだよ。最初はほら、風邪でも引いたかなって思ったけど、さすがに3日4日続けばね。何かしたっけ、って胸に手を当ててみたりさ、口臭かな、ってマウスウォッシュ買ってきたりさ」 


 正直にそう言うと、片岡君は口元に拳を当ててくすくす笑い出した。何だよ、笑うならちゃんと笑えよ。こっちは大真面目なんだぞ。


「失礼しました。伏見主任には何の非もありませんよ。いつも良くしてくださってますし、口も臭くないです」

「な、なら良いけど」


 ふん、と鼻を鳴らしてラムバックを飲む。畜生、上司をからかいやがって。


 しかし、とりあえずは安心だ。

 しゃべらなかった原因は自分ではなかったし、嫌われてもいないらしい。


 


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