◇3◇ 片岡君はしゃべっている。
「はぁ……」
18時。
営業一課の主任との打ち合わせを終え、自分のオフィスに戻ろうと廊下を歩く。これで本日の業務は終わりだというのになぜかため息が自然とこぼれてしまうのは、やはり片岡君の件だ。
いや、打ち合わせ後の雑談も大いに疲れたけれど。
打ち合わせ相手である、一課の
「大槻君みたいなゴリゴリのマッチョになる気はないよ」
といつも辞退するのだが、「まぁまぁまずは飲んでみろって。話はそれからだ」と押し付けられそうになるのである。とはいえ、「これ以上無理強いするんだったら、事務什器の契約が取れても大槻君には回さないよ」と言えば、彼は案外あっさり引く。どういうわけか自分はよくその管轄外の契約まで取れてしまうので、大型什器はなるべく一課の――それも同期のよしみで彼に回すことが多い。もちろんお客様の承諾は得て、だ。別に自分がやっても良いのだが、餅は餅屋というし、正直、毎回そこまでやっていたらさすがに仕事がパンクしてしまう。
そんなわけで今回もお決まりのようにお勧めプロテインをどうにかかわしてきたのである。
いやいや、そんなことよりも、だ。
なぜ片岡君はあんな頑なに口を閉ざしてしまったのだろう。
少なくとも研修に行く前は、マスクもしていなかったし、そんなに多くないとはいえ、普通に会話もしていたのに。
最近もうそればかりを考えている。寝ても覚めても――というのは少々大袈裟だけど。
でも、休みの日にも、ふっ、と片岡君のことを考えてしまうくらいには。
もしかしたらここ数日食べる量も減ってきているかもしれない。
一体どうしてしまったというんだ。この間の人間ドックではオールAだったじゃないか。
分煙ブースの前の自販機コーナーで立ち止まり、コーヒーを買う。ここには非喫煙者も気軽にコーヒー休憩が出来るようにと丸テーブルと折り畳み式のパイプ椅子もいくつか用意されている。そのうちのひとつに腰掛けた。
「どうして喫煙者だけが『煙草休憩』なんて言って5分も10分も休憩出来るんですか?!」
「ただでさえ私達は吸いたくもない副流煙を耐えながら業務をこなしているんですよ!」
「分煙している? いくら分けたって服や髪についた臭いが不快なんですよ! これだけ迷惑をかけているのによくもまぁ平気な顔して煙草休憩なんて行けますね!」
自分が入社する何年か前、このような声がきっかけとなって喫煙者VS非喫煙者のかなり激しいバトルが勃発し、嘘か真か数名の怪我人が出たらしい。怖っ。
そのバトルは数年間続いたのだが、当時のトップが離婚回避の条件として禁煙に踏み切ったのを皮切りに、使用していない会議室の壁を思い切って取っ払い、その奥の奥にガラス張りの分煙ブースを設え、数台の自販機と上記のテーブルセットを設置したのだそうだ。離婚云々の部分は完全に噂の域を出ないが、そんな血なまぐさい抗争があったことなどすっかり過去のものとなり、ここは『憩いの場』なんて穏やかな呼び名がつけられている。先人の血とか汗とかその他色んなものの犠牲の上に誕生した『憩い』である。
ちなみに飲料は缶は大きさに関係なくすべて100円。ペットボトルは水が100円、それ以外は120円。なかなか良心的な価格設定だ。
より安価な紙コップ式のものも設置が検討されているらしい。
「はぁ……」
ブラックコーヒーを、ずずず、と啜り、頭を抱える。
聞いた話では、どうやら片岡君は自分以外の人間とは会話をしているらしいのだ。同期との飲み会などではマスクを外して普通に会話をしているとのこと。
けれど、そこに自分や中西主任、加山課長が入ると、頑なにしゃべらない。それはもう、貝のように押し黙ってしまうのである。
まぁ上司なんて生き物は、忘年会やら歓迎会など、参加が半強制とされている飲み会以外では、最初からいなくても良いわけで。むしろ、終わり頃にちょっと顔を出して気前よく万札でも置いていってほしい生き物だ。
驕るつもりはないが――それでも自分はまだ飲みの席に最初から参加していても歓迎されるタイプの上司だと思っていた。何せ部下達の方から飲みに行きましょうと頻繁に誘われるのである。例えその目的が多めに支払わせることであっても。それが出来るほどの役職手当てだって付いているわけだし、独身だから家族のために使うというわけでもない。それに大勢で飲むのは嫌いじゃない。
なのに、片岡君は、自分が参加するとなると、何だかんだ理由をつけて帰ってしまう。周りから引き止められて残った場合でも、もうまったくしゃべらない。
嫌われているのだろうか。
けっ、お前となんて会話したくないんだよ、という意思の現れ、とか?
いやいやいや、あんなに毎日ランチに誘って来るのに? それも奢り目的でもなく。
何がしたいんだ、片岡君。
ランチに誘う、ということは、嫌われてない、とも思えるけれども。
――いや、待て待て。
良く良く考えてみれば、だ。
ランチに誘っているのは別に片岡君ではないのだ。
片岡君の方では、「急ぎの書類を確認してください」としか言っていないのである。それを「じゃあ飯食いながらで良い?」と、提案しているのはこっちなのだ。
だからもしかしたら、上司がそう言うのだからと嫌々応じている可能性だってある。これは大いにある。だって現に会話なんてまったく弾んでいないのだ。筆談だから? いや、筆談だって、弾む時は弾むだろう。
もしそうなら、この2週間、片岡君は良い迷惑だったろう。
確かに上司とマンツーマンで食事なんて楽しくもなんともないわけだし、奢ってもらえるからまぁ渋々付き合うわけで……って、だから、片岡君は頑なに奢りを拒否するんだった。
じゃあ一体何なんだ。
「もうわけがわからん……」
コーヒーを飲み干し、テーブルに突っ伏す。どうせ後は帰るだけなのだ。ここで多少ぐだぐだしていても構わないだろう。中西主任が19時まで残ると言っていたから、施錠も彼女にお願いしてある。
無駄に上司が残っていると下の者が帰りづらくなる。だから、自分はなるべく残業はしないようにしているし、やむなく残る場合は、部下はさっさと帰すようにしているのだ。邪魔だ邪魔だ帰れ帰れ~、なんて笑いながら。手伝いましょうか、なんて殊勝なことを言ってくる可愛い部下も……って、だいたいそれは片岡君なんだけど、しかも筆談でだけど。まぁ、その場合はコーヒーだけ淹れてもらって、「はい、手伝いは終わり。帰って良いよ」で無理やり帰らせる。
そう、そんな可愛い部下なのだ。
そんな可愛い部下に嫌われているのだとしたら、どうしよう。
これは結構ショックのようだ、自分。
しばらくの間、テーブルに顎を乗せ、「ぶぇぇ」と奇声を発していた。数人がこちらをちらりと見ては、ぎょっとした顔をして通りすぎて行く。
良いんだ、お疲れ様なんて声をかけてくれるな。こちらも返さなくちゃいけないじゃないか。
たぶん、そういうこちらの気持ちを汲んでくれたのだろう、無理やり気付かない振りをして足早に去ってくれる人もいた。ありがたいことだ。
しかし――、
「――お疲れ様です、伏見主任」
あぁ、とうとう名前まで呼ばれてしまった。こうなるときちんと顔を見て挨拶しなくては。いや、名前を呼ばれずとも本来はそうしなくてはならないんだけど。
心の中で、よいしょ、と気合いを入れ、身体を起こす。そして――、
「あぁ、おつか――」
れ様。
と、言葉を続けることが出来なかった。
片岡君だったのだ。
何か恐ろしいものでも見ているかのような視線をこちらに向けた、片岡君だったのだ。
「い、いまの片岡君? お、お疲れ様って言った? 言ったよね? ね? ね?」
慌てて腰を浮かせ、前のめりになってそう問いかけると、片岡君は明らかに引いていた。眉間に深い皺も刻んでいる。
そして、片岡君は思い出したように『PenTalk 3.0 』を取り出した。
あ、あぁ……せっかくしゃべってくれたと思ったのに……。
さらさら、とペンを走らせた後で、カッ、と画面を軽く叩く音が聞こえた。ということは、【フォント変換】を押したのだ。明朝体だろうか。明朝体なら怒ってるサインだ。どうしよう。
ドキドキしながら差し出された画面を見ると――、
『どこか具合でも悪いんですか。』
良かった、ゴシック体だ! セーフ!
……って、そうじゃなくて! 具合が悪いとしたら、それはほぼほぼ君のせいだよ、片岡君!
なんて言えるわけもないけど。
「いや、大丈夫。片岡君はいま帰り?」
『伏見主任に用があって、探していました。なかなか戻られなかったので。』
「――あぁ、ごめん。ちょっとコーヒー飲みたくなっちゃって。まさか片岡君が探してると思わなかったから」
これが片岡君じゃなかったら、「いや、電話してくれりゃ良かったのに」と言うところだ。いや、言っても良いんだけど、100%かけてくるわけがない。
「それで、どした? 『ミギ⇔ヒダリ(株)』さんトコで何かあった?」
『いいえ。』
「そうなの? じゃ、別件か。明日の相談? いや、明日は休みだったな。ええと、週明けの?」
よくよく考えれば、もし『ミギ⇔ヒダリ(株)』さんと何かあったのならさすがの片岡君でも現地から連絡を寄越すだろう。仮にそこまでの緊急性がなかったとしても帰社してから報告をするはずだ。そして、帰社時の報告では『問題はありませんでした。』だったし、上がってきた報告書にも問題点は何もなかった。
となると、週明けの業務に関することだろう。
しかし、
『いいえ。』
違うようである。
「それじゃ何だろう。とりあえず、ここで聞いた方が良い? それともデスク? あるいは――」
また軽くご飯でも、とうっかり続けようとしたところで、再び目の前に『PenTalk 3.0』が差し出された。
どうしてつい食事に誘おうとしてしまうんだろう、と反省しつつ、そのディスプレイを覗き込むと――、
『外でも良いですか。』とあった。
「外?」
これはまた、随分漠然とした。
まぁ、良いけど。
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