第8話:黄昏ています
夕暮れ時にはまだ早い時間帯。陽は少しだけ傾きかけているものの、空の青さに蔭りはない。そんな冬空の真下を、快速列車は都心郊外に向けて走り抜けていく。
乗客の姿がほとんど見当たらない列車内は解放感に満ちていた。
車内が空いている時、彼はロングシートではなく必ずボックス席に座る。景色を正面から眺めるよりも、真横を流れている感覚が好きだったし、閉鎖的な空間を作り上げるボックス席は、気持ちに微かな余裕を含ませてくれるから。
並走する県道を走る車たちを、緩やかに追い越していく列車は、やがて海崎が降りるべき駅のホームに滑りこんでいく。しかし、彼は席を立とうとはしなかった。
結局、海崎は自宅最寄り駅の一つ先で下車した。降り忘れたわけじゃない。なんとなく心がすり減った時、彼が向かう場所は決まっている。
駅前のロータリーを抜けた先にある横断歩道を渡ると、すぐに住宅街が広がっている。この辺りには、海崎の住む新興住宅街とは対称的に、古い木造家屋も多く、昔ながらの町並みが今もなお残されていた。
家屋と家屋の間に張り巡らされた狭い路地、そんな風景を見るたびに、海崎は自分が生まれ育った
海崎にとって、日常からリアリティを奪い去っていく幻覚や幻聴は不快だし、それは往々にして恐怖を伴うものだ。健常な精神状態と呼ばれるものからしたら、確かにまともな事態じゃない。だけれど、幻想に包まれたい、非日常にリアリティを感じたい、そう願う時もあったりするから不思議だ。
自動販売機で買った缶コーヒーを片手に、海崎が向かった先は、利根川水系の湖沼沿岸一帯に広がる公園だ。開けた視界を前にすると、心の緊張が緩んでいく。
水辺にほど近いベンチに腰を下ろすと、まだ温かい缶コーヒーのプルトップを開けた。顔を少し上げ、コーヒーを口に含む。すり減った心に少しずつ弾力が戻ってくるのを感じた。
海崎は、両耳にイヤホンを押し込み、携帯端末の音楽再生アプリケーションを起動させた。ゆっくり目を閉じ、陽の光の温度や、風が頬をなぞる感覚に神経を集中する。
『風の行き先はどこなのだろう』
いつだったか、このベンチに腰かけた
誰かにとっては、あまり関心のない風景であったとしても、自分にとってはどうしようもなく大事な景色があったりする。何度も何度もその場所を訪れ、ゆっくり景色を眺めたいと思う。時間を忘れるほどに。
この公園は、海崎が体調を崩す前に、宮部とよく訪れた場所だった。特に何かを話すわけでもなく、このベンチに並んで腰掛け、真っ白なコブハクチョウたちが泳ぐ姿を眺めたり、後ろの芝生で子供たちが遊んでいる声を聴いていたりした。ただそれだけの時間だったけれど、彼にとってはかけがえのない大切な時間だ。
海崎は携帯端末のメッセージアプリケーションを開いて、宮部との会話記録を眺める。言葉の先にある感情を探しながら。
タイムラインは時間の流れのメタファーのように、交わされた言葉たちを時系列で表示する。印象に残る言葉や大切な言葉だったとしても、それが時間と共にリアリティを失ってしまうように、タイムラインは大切な言葉たちを、少なからず過去に追いやって、視界から消し去っていく。
そこに触れ続けるには時間を止めるより他ないのだけれど、時間を止めてしまったら、新しい言葉たちが交わされなくなってしまう。コミュニケーションには、そんなジレンマが存在する。
何度かメッセージを作っては消去を繰り返していた海崎だったが、アプリケーションを閉じると、携帯端末をポケットにしまい、湖の水面を見つめた。
視線の先、対岸の岸辺には、等間隔に並ぶ巨大な鉄塔がそびえている。約五十万ボルトの超高圧を送電する高圧電線、それを支えるための堅牢な鉄塔。地上149メートルの高さに構築された送電系は、宮部が構想した全く新しい発電システムで生み出された電力を、首都圏のみならず東日本全域に給電していく。
その時、海崎のイヤホンから、チャットメッセージの通知を知らせるアラーム音が鳴り響いた。夢から現実に切り替わる瞬間。幻想と現実の境界が滲んでいく感覚に、鈍い頭痛を感じながらも、音楽再生アプリケーションを停止させ、メッセージを確認した。
『お疲れさま。今朝は大丈夫だった? 停電トラブルの件、良い方向に向かうと良いのだけれど……』
宮部彩からのメッセージだった。
端末の画面をタップしながら返信メッセージを作る。誤変換にわずらわしさに、やはりモニターをタップしながら文章を作るのは苦手だなと思う。
『ありがとう。指令所では対策会議が行われている。
何かの作業中にチャットをしているのだろうか。画面下に表示されている宮部のアイコンはオンラインとオフラインを繰り返していたが、やがて返信が来る。
『ネットワークの情報を確認すればすぐに分かることよ』
『神尾は知らなかったみたいだ』
『そう。神尾先輩は世の中の出来事にあまり関心がないのよ。きっと、細胞の中の世界だけを見ていたいのだと思う』
『データベース拡充の件は提案してくれた? 立場上、私からは言いにくいのよ』
『来宮さんには提案書を渡してあるし、神尾も会議で提案してみるって』
『先輩に喋ったの?』
『さすがは彩だってさ。ただ、原因が分からない以上、それだけで問題が解決するかどうかは良く分からない』
シミュレーション解析の結果が一瞬だけ頭をよぎる。海崎には、ミソラが利用できるデータベースの拡充だけでは、本質的な問題解決にはならないだろうという直感があった。
『そうね。そう、その通り。原因が分からないことについて、私たちは常に無力よ。だから、停電の方は、今後の緊急時に備えて、南関東に配備されている原子炉を一部稼働させることも想定しておかないといけない』
南関東原子力開発機構が管理している十基の原子炉。現在は稼動していないが、グリーン・オルガネラに予測不能なトラブルが発生した場合の緊急手段として、東亜電力が整備を進めたものだ。
『原子力……。なんとなくあまり良いイメージがない』
南関東平野には、国家の食糧自給を支える無人の穀倉地帯が広がっている。広大な田園風景に突如として現れる
『イメージだけで物事の良しあしを判断してはダメ。新藤先生もそう言っていたでしょう? 原子力を安全に運用できるような枠組みを構築しておくことも必要じゃないかしら?』
どんなシステムにもリスクとベネフィットがある。大事なのは、そのリスク・ベネフィットのバランスが、社会にとって、国家にとって、受け入れ可能かどうかだ。リスクを抱えたシステムというレッテルをはり、永久に運用しなくなってしまえば、リスクを管理するノウハウも同時に消滅してしまう。ベネフィットを社会に還元するためには、リスクに向き合いながら、安全管理も成熟させる必要があるという理屈は海崎にも良く分かる。
『リスクに対する懸念を持ちつつも、僕たちはそこから学び続けなければいけない。分かっているさ。君は、グリーン・オルガネラを作った。でも、原子力も使うべきだという。君の作ったものは、一体なんだったんだろう』
『私は小さな風力発電所を作っただけよ。風がなければシステムは動かない。
『そうだね。東亜電力は、君のグリーン・オルガネラをエネルギー資源の最後の切り札だと考えている。僕も君の作ったシステムを信じているよ』
『いつもありがとう、感謝しているわ』
『こちらこそ』
もっと聞きたいことがある。そしてたくさん話したいことがあった。
『景、お願いがあるの。私の話を神尾先輩にはあまりしないでほしい』
『喧嘩でもしたか?』
『そんなところ』
湖面にさざ波を立てた風が、海崎の前髪も揺らしていた。
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