第40話『独房の中』

 

 独房の中は静かで落ち着いていて、とても穏やかだった。

 自殺防止の為に首吊りや動脈などを傷つけることのできるものは、ほとんどない部屋だ。

 パイプベッドには安っぽいマットに薄い毛布が、部屋の隅には塗装もされていないステンレスの便器。


 便器の隣には同じステンレスっぽい小さな洗面台があり、壁にはめ込まれた鏡は破壊されないようにフィルムかなにかで覆われている。

 頭上には蛍光灯かLEDかは不明ながら真っ白な照明があって、それも鏡みたいにはめ込まれているから、天井の一部が真っ白く発光しているように見えた。

 シリンダーの中ではたとえば体育館倉庫に閉じ込められたり、掃除用具入れに閉じ込められて四方八方から蹴飛ばされた挙句、押し倒されたりとかしたけど、さすがに独房に入ったのは初めての経験だった。


 ついでに言えば、しっかりとした手錠を嵌められたのも初めての経験だ。

 戦闘終了後、僕はシミュラクラから引き離されると、マルコム大尉の指示ですぐに手錠を嵌められ、MPに引き渡された。

 MPというのは、ミリタリー・ポリスの略で、要するに憲兵のことだ。


 MP二人に連行された僕は、とりあえずの謹慎処分ということで独房にぶち込まれたのだった。

 


「…………静かで良いなぁ」


 

 ヤン・ソビエスキー士官学校の地下に設けられた独房は、適温に管理されていて不自由しなかった。

 たしかにベッドは固くて毛布は薄っぺらかったけれど、きちんと扉があってお手洗い中も折の向こうからこちらが丸見えとかではない。

 幸いにしてMPたちもこの情勢下では忙しいらしく、明らかに弱っちい僕を襲おうとか、そんな雰囲気じゃなかった。


 とりあえず僕は、着ていたドライバースーツを上半身だけ脱いで、ベッドで横になった。

 官給品のスポーツブラは、ブラジャーという女性専門知識が必要とされるものと違って、適当に着けてても良いから楽だった。

 といっても、そんなに大きくないはずの胸の位置がちょっと気になったりすることがあるから、きちんと位置調整したんだけど。



「そういえば、この体になってから、きちんとトイレでしたことないかも……」



 ぼそり、と僕は女性が呟くには危なすぎることを口にする。

 シミュラクラに乗り込んでいる間は、基本的にスーツからチューブを伝ってパックに溜まる仕組みになっている。

 で、先天的にも後天的にも人間不信気味の僕は、なにか理由がある場合を除いて、ほとんどシミュラクラの中か、傍にいる。


 必然的に、あの『ヴェパール』の艦内だって見て廻っていないし、輸送船の『アスカロン』だって探検とかしてない。

 それはニュー・ワルシャワに着いてからも変わらなくて、シミュレーション中はシミュラクラと同じ仕組みで済ませていたし、そもそも戦闘待機中だって機体に繋がれた状態でぼそぼそとダンとあれこれと他愛のない話をしていたくらいだから、本当にきちんとトイレで用を済ませたことがないわけだ。


 そこまで考えて、僕はなんだか急に恥ずかしくなってきた。

 女の子の体で用をたすことに恥ずかしくなったのではなく、単純に自分の人生経験がリセットされて赤ん坊と同じ状態になっていることに、恥ずかしくなったのだ。

 いやいや、別に良いことだってあると僕は思う。


 たとえば学校で虐められる事だって全部なかったことになっている。

 過呼吸でぶっ倒れてこっちが死にそうになっているのに、教室の過半数が笑ってたりスマートフォン片手にふざけてたりってことも、チャラだ。

 チャラというか単純に、あの世界はシリンダーの中で起きたことであって、なに一つ現実ではなかったということなのだが。


 そう考えると、すっきりとする。

 僕は人生を、もう一度やり直している。

 やり直しているというより、僕にとっての人生はまだ、始まったばかりなのだ。


 くふふ、と気持ち悪い笑みを浮かべていると、僕の正直なお腹がぐうっと音を立てた。

 考えても見れば戦闘機動中に嘔吐する可能性を考えて、ゼリーとかで済ませて固形物を取ってない。

 さっきの戦闘では結構暴れたし、かなりエネルギーを使った自覚はあるんだけど。


 適温の中、僕は薄っぺらい毛布を被って目を閉じる。

 いろいろとあって疲れた。体が鉛のように重くて、瞼が自然と下がってくる。

 なにかあったら呼び出されるだろうと思いながら、僕は心地よい睡魔の魔の手にかかって、眠りに落ちていった。

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