○お題5―リンゴ/猫/信号―(改稿版)

 それは、なんでもないある夏の日のこと。

 きっかけは、突然やってきた。



 ☆



「ほんとうに行くの?」

「行く」

「なんなら明日に」

「しない!」


 おじさんの決意はかたいようだ。

 けれどまだ油断はできない。


 肩をいからせ玄関を出たおじさんのあとを、ぼくもテクテクとついていく。お母さんは仕事。小学校は夏休み。今日はぼくがおじさんのお目付け役である。


 ギラギラの太陽が君臨している空の下、おじさんはズンズン進んでいく。まえから歩いてきた若い女の人がギョッと立ちすくんでしまった。


 ごめんね。でもそんなに怖がらなくても大丈夫だよ。


 おじさんはとってもおおきいし、顔は怖いし、なんならおでこに刃物で切ったような傷あとが残っていたりもするけど、悪い人じゃないんだよ。ほんとだよ。


 むしろバカみたいにやさしい人なんだ。


 おでこの傷だって、川で流されそうになっていた野良猫をたすけた拍子に転んで、落ちていたガラスの破片でザックリ切っちゃっただけだし。

 そういえば、おでこのケガってものすごく血が出るんだね。顔中血まみれで猫の無事をよろこぶ姿はなかなかホラーだった。通りがかった人が、救急車ではなく警察に通報してしまったのも、まぁしょうがないかもしれない。

 ダラダラ血を流しながら、猫を抱えて笑っている強面こわもての大男のそばで、小学生らしき子どもが半泣きでいたら……いや、かさねていうけども、おじさんはとってもやさしい人だ。


 おじさんと出会って、ぼくは『鬼面仏心きめんぶっしん』という四字熟語を知った。教えてくれたのは、となりに住んでいる高校生のおにいさんだ。おじさんのためにある熟語だと笑っていた。ぼくもそう思う。


 ちなみにそのときの猫は、現在わが家でいちばんふんぞり返っている。おじさんもお母さんもぼくも、人間はみんな猫のしもべだ。だってしかたない。かわいいんだもの。


 おじさんはなにかに追われているみたいに脇目もふらずスタスタ進む。ついていくのがちょっと大変だ。


 公園を過ぎ、コンビニの角をまがる。次の信号を渡ればいよいよ目的地だ。が、予想通りというかなんというか。横断歩道まであと十メートルというところで、タッタカ進んでいたおじさんの足があからさまに遅くなった。歩行者用の青信号が点滅しだして、やがて赤に変わる。


 おじさんに追いつくと、ぼくはおおきくてぶあついおじさんの手をひょいと握った。


「うわぁ、すっごい手あせー」


 おじさんは情けない顔をしてぼくを見おろした。ぶっとい眉毛が、泣きだす寸前の子どもみたいに歪んでいる。


「行かなきゃだめ……だよな」

「だめじゃないけど、痛いのはおじさんだよ」

「……だよなあ……」


 はああぁぁと、おじさんは絶望に打ちひしがれたようなため息をついた。その右のほっぺたがぷっくりと腫れている。

 横断歩道の先に見えているのは『ナガオ歯科』の看板。説明するまでもない。虫歯である。


「あのリンゴがなぁ……」


 そう。数日まえから、ほんのり痛みはじめていたらしいおじさんの虫歯にとどめを刺したのは、田舎のおばあちゃんがどっさり送ってくれたリンゴだった。


 リンゴに罪はない。おばあちゃんにも罪はない。とってもおいしかった。

 ただ、おじさんがこの世で一番怖いものが歯医者さんである、というだけだ。


 信号が青に変わった。おじさんの足は動かない。

 そのとき、ぼくはとうとつに思った。


 今だ――と。


「ほら、信号青だよ。行こう、お父さん!」


 ヒュッとしゃっくりするような音が聞こえた。ぼくは振り返らず、グイグイおじ……お父さんの手をひっぱって横断歩道を進む。


 お父さんがお母さんと結婚してもうすぐ一年になる。


 認めていなかったわけじゃない。血なんてつながっていなくても、お父さんはとっくに家族だ。ただ、結婚まえのつきあいですっかり『おじさん』呼びになじんでしまって、そのままになっていただけだ。誰も変えろっていわなかったし。なんか、照れくさかったし。


「……マ、マコちゃん」


 ぼくの名前はまことである。もう五年生だ。そろそろちゃん付けはやめてほしいんだけど……まぁ、今はいいか。

 それでなくても、お父さんの太い声が不安と期待にうわずっている。聞きまちがいかもしれない。それどころか幻聴だったらどうしよう。でも、たしかに聞こえた。そんなお父さんの心の声が、つないだ手から伝わってくるようだ。


「なぁに、お父さん」


 たぶん泣くのを我慢しているせいで、真っ赤な鬼瓦としかいいようのない顔になっている。 


「……帰り、お母さんにおみやげ、買って帰ろう」

「うん!」


 とってもおおきくて、顔が怖くて、歯医者が苦手なおじさんは、世界でいちばんやさしい、ぼくの自慢のお父さんだ。



     (おしまい)


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