○お題3―月/声/冬―

 彼の声を聞くと、いつも白い月が目に浮かぶ。


 夜より朝に近い、透明な藍色の空にさえざえと浮かぶ白い月。

 満月みたいな完璧な丸ではなくて、三日月ほど尖ってもいない。半月をちょっと太らせたくらいの、ぽってりいびつな冬の月。


 なによりも安心する。いつのまにか、彼の声が精神安定剤のようになってしまった。


 でもまさか、こんな状況でも有効だとは思わなかった。


 こんな状況――それはすなわち、とち狂ったストーカーに殺されかかっている――という異常な状況なわけで、なごんでいる場合じゃないことは百も承知なのだけど。

 なにしろもう、指一本動かせない。目はあいているのか閉じているのか、とにかくなにも見えないし、からだの感覚もないし、現状まともに機能しているのは聴覚だけなんだもの。唯一自分で動かせる気持ちくらい、なごんでもいいんじゃないかしら。


 もう大丈夫だと、もうすぐ救急車がくると、死ぬな、がんばれと彼が言っている。


 ああ、やっぱり、なごんでいる場合じゃないかも。


 あたしが死んだら、この人はきっとすごく苦しむ。泣くことも自分にゆるせなくなるくらい、きっとものすごく苦しむ。わかるよ、それくらい。そういう人なんだよ。

 ……そんなの、いやだな。だいたい、こんな悲痛な声が〝最後〟になってしまうなんて、絶対にいやだ。


 いやだいやだって思いながら死んだら怨霊とかになっちゃうのかな。それもいやなんだけど。

 ていうか、幽霊とかあの世とか、ほんとうに存在するのかな。存在しないなら、今あたしがあたしだと認識してるこの意識を失って、からだも脳も死んでしまったら、それっきり消えてなくなるだけなのかな。

 それは味気ないけれど、気は楽だ。できればそちらでお願いしたい。いや、待て、だめだ。死んじゃだめなんだよ。


 これがまだ、あたしのストーカーだったのならよかった。いや、よくはないんだけど、まだましというかなんというか。

 あたしのストーカーだったのなら、仮にあたしが死んだとしても、彼に残るのはたぶん『守れなかった』という傷だけですむ。それだってかなりきついだろうけど、立ち直れないほどじゃないはずだ。時間はかかっても、きっと立ち直れる。

 だけど、あたしにナイフをつきたてたのは、彼のストーカーなのだ。


 ……だめ。だめなんだよ。彼にそんな重荷を背負わせちゃいけないんだよ、絶対に。


 彼と出会えただけであたしはほんとうにしあわせで、大好きで……できることならずっと、ずっと一緒にいたい。それが叶わないにしても、まだ、過去にはしたくない。


 ……ああ……そうか。あたし、死にたくないんだ。


 そりゃそうだ。あたりまえだ。まだまだ、人生これからなのだ。こんなところでのんきに殺されてる場合じゃない。

 ほら……彼だって呼んでる。


 冬の白い月の声。

 ぽってりいびつで、さえざえと冷えているのに不思議とあたたかい。

 大好きな、大好きな、彼の声。


 帰ろう。

 帰らなくっちゃ。

 彼のところに。

 かえ…………

 ……………………



【完】

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