第158話 災いの来日
――同日、時は数時間前まで遡る。
その日、十数時間にも及ぶ長いフライトを終えた旅客機が、日本の空港へと着陸した。
その旅客機からゲートを潜って降りてきた人々の表情はどこか疲れているようにも見えるが、次の瞬間には己の気持ちを切り替えたのか、キャリーバッグを引く手に力が戻っていた。
現在、時刻は日本時間の正午過ぎを回っていた。
少しのゆとりがあれば、日本の主要都市を巡り小さな観光する事も出来るだろう。
だが、それをしようとする者はその中にほぼいなかった。
来日してきた彼ら彼女らは、スーツに見を包んだビジネスマンやビジネスウーマンであり、まず最初に済ませるべきことは、各々が予約したホテルへのチェックインだろう。
そんな取り急ぐ人々とは対照的に足取り重く歩く白いスーツ姿の若い男がいた。
「あぁ……ダリぃ〜」
男の印象は色白の肌に細身で長身。
そして、目元が隠れるほどの長めの白髪という一風変わった姿だった。
普通ならば、モデルのような出で立ちをしたその男に周囲の若い女性たちは色めき立つのだろうが生憎とそんな事はなく、彼に目を向けるも次の瞬間にはどこか興味を削がれたように視線を戻していた。
「あぁ……マジで疲れた〜」
エントランスホールにある横長のシートにどっかりと腰を下ろした彼は、カエルのようにギョロリとした目を気怠そうに細めて天井の照明を眺めていた。
なにが気に食わぬのかわからないが、だらしなく開かれた口から覗く鋭い鋸歯を時折ギチギチと噛み合わせては異音を立てている。
そんな彼の姿に近くに座っていたサラリーマンの男性が不快感を得たのか、彼を一瞥してなにも言わずに席を立った。
それだけ彼が奏でる異音は深い極まりないものという事だ。
「あぁ……つーか、なんで俺っちがこんなめんどくせぇ事しなきゃならねぇんだよ〜!」
苛立つ気持ちを隠そうともせず、子供のように両足で地団駄を踏む彼を遠目に分煙所の中で煙を焚く男性たちは、あんな薄気味悪くモラルのなさそうな男に近付く女はまずいないだろうと彼を嘲笑していた。
しかし、そんな彼らの予想はアッサリと裏切られた。
「ちょっと、エペ公。せっかく日本に来たんだからもっと嬉しそうな顔をしなさいよん!」
突如として男の隣に現れた赤いレディスーツ姿の若い女に男たちの視線が集中する。
毛先が外側にはねた艶のある紫色のボブヘア。
整った顔立ちをより魅力的に惹き立てる化粧は、至高の絵画と呼べるほどに美しくどこか妖艶さを秘めていた。
口を開けばこぼれる声はまるで猫を撫でるようであり、その場を行き交う男性たちの鼓膜に自然と溶け込み、その足取りを遅くさせた。
「まあでもぉ〜、お空の旅がこんなに疲れるなんて思わなかったわよね〜ん。ファーストクラスにしておけば違ったのかしらん? なんだかものすんご〜く肩が凝っちゃったわん」
肩の凝りを解すように腕を回す彼女の姿に男性たちの視線が釘付けになる。
赤いレディスーツに包まれたその体はとても豊満でいて淫靡さを醸し出しており、女性として最も理想的な体型であると誰もが判断できるだろう。
大きく突き出た胸と見事にくびれた腰。
少し短めのタイトスカートから伸びる美脚は細くしなやかであり、男心を鷲掴むには充分であった。
何度か肩を回していた時、周囲の男性たちから注目を浴びている事に気が付いたのか、女は片目をパシャリと閉じて彼らにウィンクを投げた。
その行為に心臓を射抜かれた男性たちはしばらくそこから動けなくなり、軽い動悸に見舞われていた。
これが悩殺というものなのだろう。
「あぁ……ダリぃ〜。ティル姉は元気だよなぁ〜」
「あったり前でしょん! 日本には可愛い女の子が沢山いるからとぉ〜っても楽しみだったのよ〜ん」
「あぁ……やっぱそれ目的かよ。まったく、ティル姉には呆れたもんだぜ」
「なによもぅ! アタシにとってそれこそが唯一の楽しみなんだから否定しないでくれるかしらん? あぁ〜、早く可愛い女の子を物色しに行きたいわ〜ん!」
「あぁ……あっそ」
クネクネと体で科を描く若い女こと、『ティルヴィング』は、来日した事に対してその胸に期待を膨らませていた。
それをどこか落胆したように見つめる白髪の若い男こと『エペタム』は、呆れたように頭を振ってため息を吐いていた。
この二人は魔剣の精霊であり、人類の敵である。
しかし、そうでありながらも安易に人間を襲わないのは二人が人型を成しているからだろう。
人型を成す魔剣の精霊は、人間と同等もしくは、それ以上の知性と独自の思考を持ち合わせており、他の魔剣たちのようにただ暴れまわるだけの存在とは違うのである。
だからこそより狡猾であり、恐ろしいのだ。
そんな二人が遥々日本に来たのには理由があった。
「あぁ……あのさぁ、仕事とは言ってもわざわざ俺っちたちが出張るようなことでもないんじゃねぇの今回の件はさぁ?」
「仕方ないでしょん。アイツがアタシたち二人に行けって命令してきたんだからそれにいちいち逆らってたら色々と面倒でしょん?」
「あぁ……ホントめんどくせぇ」
自身の前髪を指先で弄りながら肩を竦めるティルヴィングにエペタムが項垂れる。
この二人を動かす者が何者なのか定かではないが、二人にとってその人物は抗えない存在のようだ。
「あぁ……んで、そこのお人形野郎を連れてどこに行けば良いんだっけ?」
「アンタねぇ、これは任務なんだからちゃんと覚えておきなさいよん。今からアタシたちはこの日本をめっちゃ観光して楽しんだあとに、このお人形さんを連れてコイツの家に隠された例のブツを回収するのよん!」
「あぁ……ティル姉にとって、この任務は二の次なんだな」
「当然でしょそんなこと! こんな厄介な任務なんて沢山楽しんだあとじゃないとやる気になれるわけないでしょん!」
「あぁ……そうだね」
一本指を立てて捲し立てるティルヴィングにエペタムはしれっと目を背けると、本日で二度目となる深いため息を吐いた。
そんな二人の背後には、黒いスーツ姿でボサボサとした黒髪に無精髭を生やした虚ろな目をした一人の日本人男性が立っていた。
その男性を肩越しに見るなりエペタムは頭を掻くと、嬉々とした瞳で周囲を見渡しているティルヴィングに言う。
「あぁ……なんか新しい魔剣の実験体とかって話らしいけど大丈夫なのコレ? ちゃんと命令通りに動けんの?」
「さぁねん? 命令しなければタダの木偶人形らしいんだけど、アイツが大丈夫って言ってるんだから別に平気なんじゃな〜い?」
「あぁ……ティル姉は能天気だなぁ。まぁ、コレがちゃんと機能しなくて仕事に失敗しても俺っちたちは悪くないよねぇ〜?」
「そういう事よん。それじゃあ早速、日本の都心を巡り、たぁ〜っくさん買い物をしたらそのあとに可愛いJKをナンパしに行くわよん!」
「あぁ……それなら俺っちはパスね。つーか、その前にホテルでチェックインとかする方が先じゃねえの?」
「そんなもんはあとよあーとー! ホテルのチェックインなんて、可愛い女の子を捕まえてからその辺にあるホテルで済ませりゃいいだけなんだからん!」
「あぁ……ていうか、それはティル姉だけだから。俺っちはダリぃから先にホテルへ向うわ〜」
「ダメよん! アンタはアタシの荷物持ちなんだからちゃんとついてきなさいよねん」
「あぁ……? 俺っちティル姉荷物持ちなの? そんなんコイツに任せりゃいいじゃんかよ?」
「なに言ってんのよこのエペ公! もしその時に聖剣使い共と遭遇でもしたらどうすんのよん? それくらい言わなくてもわかるでしょーよこのおバカ!」
「あぁ……なんで俺っちがこんなにディスられなきゃならねえのぉ〜?」
「もとかく、ホテルへの荷物運びはソイツに任せておけばいいわよん。それじゃあ、日本をエンジョイするわよ〜ん!」
「あぁ……ダリぃ」
瞳をキラキラと輝かせ、小粋な足取りでカツカツとヒールのカカトを鳴らして出口へ向うティルヴィングの後ろ姿を見てエペタムは酷く落胆すると、自身の後ろに立っていた日本人男性に振り返った。
「あぁ……悪りぃけど、俺っちとティル姉のキャリーバッグをホテルまで運んでおいてくんない?」
エペタムの言葉に日本人男性は虚ろな目のまま頷くと、二人分のキャリーバッグをガラガラと引き始め、両手をポケットに突っ込みフラフラと先を行く彼の後ろを追っていった。
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