第28話 エピローグ
塚堀は夢から目覚めた。カーテンを開け放った窓から青白い月の光が射し込んでいる。壁の時計は午前二時過ぎを指していた。不思議な夢であった。
その前日、ウォールストリート・フィナンシャル紙が、国際会計基準設定委員会は、従業員のベーシックインカムの達成度を示すあらたな財務資料の開示を企業に義務付けることを決定したと報じた。そして、これまでの最低賃金制度に代わって、米国では時給二十ドル、日本では時給二千二百円を最低ベーシックインカムとして設定することが勧告され、次年度以降はインフレ率を加味して調整されるとあった。塚堀が求めていた目標が実現したことになる。夢はその記事を目にしたからだろうか。
あるいは、前日に手にした鑑定書のためだったのかもしれない。
会計士事務所を開いて以来四半世紀が経過した。多くの友人が第二の人生から退いた後も現役を貫いた塚堀であったが、すでに七十歳の半ばを越えた。そろそろ事務所を閉める頃合だ。そこで、知人を介して希望が寄せられていた。事務所の壁に掛かっている額入りの油絵と仮面を地元の高校の美術クラブに寄贈することにした。公立校は寄贈品の時価を当局に報告する必要がある。塚堀が委託した美術品の鑑定士からその結果が前日に郵送されてきたのだ。
キャンバスが自由に手に入らなかった昔には、画家がいったん完成した作品に上塗りをすることは珍しいことではなかった。レントゲンで透視する手法が進歩したことから、レンブラントのような高名な画家にも、既存の作品の上にあらたに絵の具を塗りこんだ作品の存在が発見されている。鑑定士はその手法を塚堀が依頼した作品に使用した。
その結果、この油絵は画家のドラクロワがルーヴル美術館所蔵の作品に先立って製作したものであったことが判明した。
ルーヴル美術館所蔵の作品の女神は群衆を振り返る構図になっている。X線で透かした仮面の下には、描かれていた後を振り返る女性の顔の向きを、正面を向くように描き直した痕跡が見つかった。女は絵の中の群衆ではなく、絵を見る者をじっと見つめている。訴える対象を変えたのだ。
七月革命の年に三十二歳だった画家には十歳ほど年上の妖艶な愛人がいた。その愛人は群衆の先頭に立って革命を率いたが、不幸にして流れ弾に当って命を落としてしまった。愛人の遺志が後世に長く記憶されることを願って、画家は渾身の力をふりしぼってキャンバスに絵の具を塗り込んだ。
アイルランド生まれの華麗な熟女が三色旗を掲げて群衆を率いるその作品は、批評家や画商から絶賛された。余りもの反響に驚いた画家は、作品を他人に渡すのが惜しくなった。そこで女神に若いモデルを使った作品を急遽作り直して画商に渡したのだ。それが現在ルーヴル美術館に掲げられている“民衆を導く自由の女神”だ。露になった胸には、こぼれるような愛人のそれに代わって青い乳房を配した。端正な顔ではあるがどこか冷たい印象を与えるのは、愛人に抱いたほどの思い入れを代役であるこの女神に籠めることができなかったからか。
歴史書では、ルーヴル美術館所蔵の作品は、自ら参加した革命の現場で目にした蜂起する民衆を画家が再現したとある。女神の左に両手で銃を抱えたシルクハットの若者が描かれている。これがドラクロワの自画像であると語り継がれてきた。しかし、この解釈は後世の創作であることがその後の研究によって明らかにされている。
軍人だった兄への書簡で告白したように、ドラクロワ自身は革命には身を投じなかった。多くの知識人や芸術家が参加した革命にもかかわらず傍観者に留まったことから、知人や友人から非難されることになった。その中には友人で“三銃士”の著者だったデュマも含まれていたとされている。
最初の油絵によって分身である愛人が革命を率いたことを世に伝えようとしたのだが、心ならずも修正版が独り歩きしてしまいその機会を失ってしまった。そこで、愛人の故郷だったアイルランドに秘かに作品を移して修正を加えることにしたのだ。
偶々訪れた若い女流陶芸家に製作を依頼した面をモデルにして、向きを変えた愛人の顔の上に入念にその仮面を塗り重ねたのだ。
アイルランドの古い伝説を信じる画家は、仮面の魔力によって生まれ変わった亜麻色の髪の女が、いつの日にか世のため人のために貢献する日が到来することを疑うことなく、一八六三年にこの世を去った。
南北戦争が終了し再び海外からの移民が急増した十九世紀後半に、アイルランドからの移住者がこの油絵を米国に持ち込んだという説がある。しかし、いまだにその所在は不明のままである。そのため、この作品の発見者には、フランス政府が高額の報奨金を支払うと政府のホームページが告げていることを鑑定士は発見した。
塚堀は、面は百七十五ドル、絵画は百ドルと、購入時に支払った額を記した鑑定フォームを高校に送り返した。
塚堀が目覚めたベッドにどこからか “G線上のアリア”が洩れてきた。月光の下の女は塚堀の腕を枕に、背を向けて裸体を横たえていた。かすかな寝息が伝わってくる。女の胸まで落ちたシーツを肩まで引き上げた塚堀は、その手を女の胴のくびれに置いた。
前日の夜遅く、女は二週間ほどの出張から帰宅した。昔の職場であった大学の付属病院からインターン相手の研修の依頼があったからだ。塚堀がその病院の近くのバーで女に出遭ったのは四半世紀前のことになる。
今では5Gが各地に普及し、6Gが話題になり始めている。インターネットの向上と人工知能の発展で、インターンを対象にした研修にも人工知能が操作するロボットが投入されるようになった。しかし、人間の脳の解明はまだ半分程度で、研修の最終回には経験を積んで勘を磨いた熟練医師を講師として必要としているのだ。
手がくびれの窪みからそれに続くせりあがった腰に乗り上げる。張り出した骨盤に置いた手が内側に滑り落ちて恥骨に行き着いて止まった。女が、愛しているわ、と呟きながら腰を押し付けてくる。
確かに耳にした呟きだった。が、隣の女は寝入ったままだ。天井に目を遣ると、訪れたことがないアイルランドの風景が宙に浮いている。
大西洋の波に洗われる月に照らされた島。小高い丘に今は役目を終えた灯台が立つ。その灯台を背に仮面の女が手招きしている。呟きはその女からだ。
女が仮面を脱いで唇を重ねてきた。亜麻色の髪の女であった。
「出張が続いたのでまとまった休暇が取れるの。久しぶりに熱いオンセンに浸かりたいわ。ワギュウのシャブシャブも忘れることができないし」
「そうだな。前回は日光だったから、こんどは海が見える露天風呂の温泉にしようか」
完結
ホワイトデマゴーグ ジム・ツカゴシ @JimTsukagoshi
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
翻訳の機微/ジム・ツカゴシ
★0 エッセイ・ノンフィクション 完結済 1話
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます