第27話 プロジェクト・パタゴニア

 ワイミングからもどったスーザンは留守中にタチアナからメールを受取っていた。暗号を使いメールを開く。

 ブライアン・ジョーンズが超高速インターネットの実験場所を決めたとある。それは南米アルゼンチンのパタゴニア地方で、そこには十九世紀に大挙して移住したウェールズ人の集落がある。そのウェールズ人社会が秘かにジョーンズの実験を支援してくれることになったのだ。

 パタゴニアは南緯四十度から南のアルゼンチンとチリーの両国にまたがる地で、アンデス山脈に沿って南北に広がる。近年パタゴニアには観光客が増えているが、実験地はめったに外部の者が訪れることのない過疎地で、隠密事業には理想的な地とあった。

 この数年間にわたってスーザンはタチアナのハッキングをアシストしてきた。タチアナはスーザンの協力を得ることで社会の改革を実現する可能性に手応えを獲ていた。国際社会では認知されていないアフリカの小国であるソマリランドの青年男女たちをアイビーリーグの大学に送り込むことができた。女性の人権擁護に消極的だったアラブ諸国の女性に選挙権が与えられ、運転を許されていなかった車をベールをかぶった女性が運転する社会の出現にも成功した。

 タチアナのメールはスーザンの同行を懇願していた。先進諸国にはびこってしまった常識を非常識に転換する本格的なハッキングにスーザンを必要としている。今訪れようとしている機会を逃すと、そのチャンスは永遠の彼方に去ってしまう。タチアナは塚堀が秘かに胸に秘めてきた構想を鋭く見抜いていた。


 スーザンは考えた。最愛の男である塚堀は自分の全人格を無条件に受け入れて愛し続けてくれた。塚堀の肩に乗って、独りでは届かなかった天に触れることができるようになった。

 アイルランドの女性ボーカルグループ“ケルティック・ウーマン”が歌う“ユー・レイズ・ミー・アップ”が呼び起こされる。

    あなたの肩の上にいるとき

    わたしは強くなれる

    わたし自身を超えて


 だれもが本来の所得を受取る経済に転換する手はあるのだろうか? その疑問にスーザンの心が揺れる都度、塚堀は“ある”と告げて激励してくれた。スーザンには常識を覆す革命の導火線に火を点ける能力が秘んでいる、と塚堀が愛を込めて吹き込み続けてくれた。

 革命などという語を口にすれば、世間からは、なにを青臭いことを、と反発を食らうことになる。それはこの世の常識を支える人の理性に逆らう語だからだ。

 しかし、スーザンの狙いは人の感性に訴えることであった。アメリカン・ドリームを共有する、かって人々が荒波を渡ってたどり着いた新世界に、そして西へ西へと進んだ西部開拓に託した熱い夢を再び人々の胸に喚起するのだ。

 いつの間にか競争社会が植え付けてしまった、一部の階層だけに富が集積する社会を受け入れてしまう風潮。それが誤まった常識であることを皆が知るための意識の転換。オフィスの壁にかけられた油絵の仮面の女がバリケードを踏み越えて成し遂げようとしている革命とはそのことなのだ。

 男女間の愛とは、お互いの胸に秘めた世界観や人生観を共有することを指す。肉体関係は二義的な存在に過ぎない。

 男の愛に応えて革命を成し遂げるために、自分はパタゴニアに向けて発たねばならないのだ。巣立ちとはこのことを意味するのだろう。


 事情を打ち明けた父親からは、ベトナム戦争という誤まった戦争に加担した父親を持つ娘が、世界の改革に貢献することは父親冥利に尽きる、と激励された。それが愛する男の愛に応えるのならば、女としてはそれほど幸せなことはなかろうとも付け加えてくれた。

 実は、ジョーンズとタチアナを引き合わせることになったシリコンバレー訪問は、ジョーンズと血縁関係にある母親をCIAがせっついて実現したものであった。塚堀とタチアナの過去を知るCIAは、塚堀がタチアナを誘うはずだと読んでいたのだ。その後の成り行きをすべて承知しているCIAは、父親によれば、スーザンや両親の痕跡を消す手はずをすでに完了しているそうだ。 


 アンデスの山脈が続く。最後の夜に男から授けられた愛の飛沫は遠く離れた地にいる今も女体を駆け巡る。ふたりが永遠に結ばれた証である。

 “ジス・ラブ・アイ・ハブ・インサイド”

 身体の奥深くで抱きしめるこの愛。メキシコ湾のクルーザーの船上で男と抱き合って踊ったエンドレス・ラブの一節が過ぎる。

 南半球の十二月は真夏だ。しかし三人の女を乗せた大型のSUVが進むルート四〇の路面には冬のような青白い月の光が射していた。

 ルート四〇はアルゼンチンの西端をアンデス山脈を右手に見ながら真南に下る総延長が数千キロに達する幹線道路だ。残雪がきらめくアンデス山中では標高五千メートルの高地をこのハイウェーは走っている。

 SUVがパタゴニア地方に入った。左側には荒地に混じって牧場や葡萄畑が続く。

 二時間ほどして脇道に入ったSUVが、とある湖に面した村の前で停まった。そこがブライアン・ジョーンズが超高速インターネットを敷設したばかりのウェールズ人の集落であった。湖の対岸には雪をいただいたアンデスの山々がそびえ立つ。グランド・ティートンの景観とそっくりだ。

 胸に黄金色のペンダントを下げ、手首に真珠のブレスレットを巻いた亜麻色の髪の女が湖畔に佇む。正面の空に南十字星が輝いている。


 会計士が免許を持ち続けるためには年に四十時間の研修を受講しなければならない。会計原則の変更や法改正に習熟するための継続教育と呼ばれ、毎年末にその最終回が実施される。

 その研修会場でのことであった。昼食後の休憩時間に顔見知りの会計士が塚堀に歩み寄った。この会計士はプロスポーツ選手の納税申告を専業にしている。

 塚堀は以前にこの会計士の事務所を訪れたことがある。室内にはサイン入りのバスケットボールやフットボールの球が飾られ、壁には名が知られたプロ選手のジャージーがかかっている。殺風景な塚堀の事務所とは違い、スポーツクラブのような華やかさで羨ましく感じたものだ。

 米国内の各地で開かれる試合に出場するプロの運動選手は、連邦所得税の確定申告だけでなく、州税や地方税の二重三重の課税を避けるために会計士の手助けを必要とする。そのためこの会計士のような専業が存在するのだ。

 「ジム、最近奇妙なことが続きましてね」と語りかけた。

 それによると、発端は今年のドラフトで選ばれてバスケットボールのプロチームに加入した新人ふたりの予期せぬ行為であった。

 ふたりは契約金の半額を返上すると自己申告したのだ。プロスポーツ選手の報酬が法外になったこの数年、批判がその都度マスコミにも登場するが一向に変わらない。プロスポーツの選手はそれぞれの組合に属している。新人の報酬が高まればベテラン選手の報酬もその分スライドすることから、組合も暗に新人への報酬アップを奨励してきた。 

 「手数料が減る代理人たちが懸命に押し留めようとしたのだけど、同じことを申し出る新人が次々に現れたことから諦めたそうですよ。とばっちりを受けて小生の手数料も引き下げねばならない」と苦笑する。

 「返上した分の処置はどうなるのでしょうか?」

 「返上の理由が、怪我や障害でプロになれなかった同窓生たちの医療費やリハビリ療養費に回すようにとのことだったので、返上金を管理する財団が近々設けられるそうですよ。変わった時代になりましたね」


 翌朝、NPOのシェリル・スミスに電話を入れた。前の日に耳にした情報を彼女に伝えようとしたのだ。

 電話口に出たシェリルが、「ジム、偶然ね。電話をするところだったのよ。もう七、八年ほど昔になるわね。寄付を期待してプロ球団を訪れたことをお話したことがあったわよね」

 塚堀の予想した通りだ。なにか変化が起きている。

 「二日前にその球団から書留の封書が届いたの。あの時はケンモホロロの応対だったから、もしやしてチケットの押し売りかと机の上に放置していたの。ところが、帰宅時間になって封を切ってみると、これがなんとも不可思議な内容なの」

 シェリルによれば、書状は球団社長からのもので、以前は担当者が大変失礼な応対をして申し訳なかった、社会に貢献する貴NPOに寄付をすることは名誉なことであり、なんでも申し出て欲しいという内容であった。追記に、折り返し返事を欲しいという念の入れ方だそうだ。

 訪問した際とは余りにも異なる内容なので悪戯か、と昨日秘書に確認したところ、社長本人が口述してその秘書がタイプしたもので正真正銘の書状であった。秘書はシェリルのNPOだけでなく他のNPOにも同じような書状を郵送したと付け加えた。

 「ジム、あなたはケンタッキー・カーネルだわよね。だからなにかの圧力でも加えたのかと思ったのだけど」

 「いや、そんなことはない。それはスーザンの・・・・」といいかけて続くことばを呑み込んだ。

 「ジム、なんといったの?」


 電話を終えた塚堀は、スポーツ界に変化をもたらしているのであれば、他にもなにか起きているのではないか、といつもは流し読みのネット上の記事を丹念に追ってみた。

 あった!

 ワシントンタイムズ紙の小さな記事だ。タイトルは“超高速インターネットの出現か”で、国務省関係者からの情報とある。

 その記事によると、この数日の間に膨大な数の電子メールが米国内の上場企業に送られてきた。添付ファイル形式のメールで、通常のウイルスは添付ファイルを開けると感染するが、このメールには添付ファイルを開けないと他のプログラムがすべて凍結状態になる新種のウイルスが使われている。二十ページほどの添付ファイルは最後まで読んで三つの質問に答えることを要求している。無視すると、最初からやり直さねばならない手の込んだ細工が施されている。

 それが済めば通常のプログラムを起動することができるが、同時に社内の取引先の情報が保管されているファイルがハッキングされ、添付ファイルが取引先にも自動転送されてしまう。

 転送先は上場企業に限られるものの、この数日間に数万社がこの添付ファイルを目にしたことになる。タイムズ紙は添付ファイルをダウンロードしようと試みたが、すでに発信源のウェブはインターネット網から除去されたのか、あるいはダークウェブのためか、タイムズ紙では検索できなかったとあった。

 国務省は国家機密や軍事にかかわることではないのでこれ以上の情報を探索する権限がなく、国家安全保障委員会にこの情報を伝えた。国務省によれば、発信源は米国内ではないだろう、同じように大量のメールを受取った国に、日本とウクライナがあることがそれぞれの大使館から連絡があった、とその記事は報じていた。


 翌日のウォールストリート・フィナンシャル紙が一面トップに大きな見出しで記事を掲載していた。“株主総会が、役員報酬のみならず、配当金増と自社株の買いもどしをも否決”の見出しの記事は、ニューヨーク株式市場に上場されている世界でも最大規模の製薬会社が開催した前日の株主総会での出来事を伝えていた。

 役員報酬の否決や額の修正が株主総会で議決されることは珍しいことではない。しかし、この製薬会社の株主総会が、株主の利益に直接結び付く配当金の増額や自社株の購買を否決し、その資金を一般社員の給与の補填に振り替える緊急動議を可決したのだ。このような前例は皆無で、このニュースが流れるや、ウォールストリートは大混乱に陥り、株や債券の売買が終日停止したままだった。市場が驚いたのは、緊急動議を唱えた株主のだれもが株の保有率では最大クラスの大株主だったことだ。塚堀がその朝の株式市場の反応をネットで検索すると、取引開始一時間後のダウは五百ドルアップであった。一般の投資家も歓迎したことになる。

 

 その翌週、米国各地の株主総会で見られた異常事態を記したアメリカ事情に、織田一郎が返事のメールを寄こした。メールは、伸介が突然欧州の小国の公使に転じることになったことを伝えていたが、参考までに、と地方版に掲載された新聞記事にも触れていた。

 東京都下のある町での出来事だ。政府与党の強力な支持基盤として知られる某老人会で、富裕層の会員たちが年金を半額返上する決議をしたそうだ。

 早速、社保庁に申し出たところ、そのような変更を受理する法律が存在しないと断られた。それを日頃から支援する有力国会議員に訴え出たことからことが明るみになり、政府内でも取り扱いに苦慮している、というのが記事の内容であった。

 数日遅れで届いた日刊紙は、この異例の老人会の要望は、内閣府内で織田伸介課長が常々唱えていたことと符合することから、政府は他への波及を恐れて織田を公使に転出する人事を急遽決定した、と裏話を紹介していた。他のシルバー族の反感を買えば、一ヵ月後の衆議院選挙で与党が大敗するのは必至と考えられたからだ。

 ところが、この人事が明るみになるのと前後して、札幌、仙台、名古屋、大阪、広島や高松、それに福岡でも資産家のシルバー族が同じように年金の返上を申し出て、最早この動きは内々に隠しおほせるものではなくなった。世論調査によれば、これを歓迎する若年層の衆議院選挙における投票率は、戦後最高に達するとの予測だ。

 慌てた政府はいったん発令した人事を撤回し、織田を社保庁の次長に任命する新たな人事を発表した、とその記事は報じていた。


 数日後の同じ日刊紙は経済面で、“相次ぐ金庫メーカーの廃業・財布のサイズにも変化が出るか”なる記事を掲載していた。

 五千円札と一万円札を日銀が廃止するという噂が突然出回り始め、政府や日銀の懸命な打ち消し声明にもかかわらず、現金を金融機関に持ち込む動きが止まらない。中古の金庫が市場に溢れて、一部の地では粗大ゴミとして廃棄される始末だ。新品の需要は皆無で今後も回復は期待できないことから、メーカーが次々に廃業に追い込まれている。

 高齢の夫婦がバンを銀行に横付けするなど、今回の一連の動きで、日銀の速報ではタンス預金のほぼ全額と推測される四十兆円が金融機関や証券会社の管理下に移ったとされる。一年間の新規国債発行額に匹敵する額だ。

 紙幣を持ち込んだ多くのシルバー族が、資金の運用に自分たちも加わることを前提条件に要求したために、近くシルバー族を構成委員に含めた運用委員会が各地に設置される手筈になっている。

 タンス預金が姿を消して資産家の保有資産額が明らかにされたので、懸案の資産税の新設が具体化する可能性が出てきた。課税対象にフローだけでなくストックも加えるきっかけになり、将来の赤字財政の解消に寄与することになろう、とその記事は報じていた。

 一方、高額紙幣が姿を消すと、多くの千円札を携帯するために厚い財布が必要になるのか、あるいは、一挙に他国並みのカード使用やネット決済の社会に移行するのか。突然のことで財布メーカーでは対応に困惑していると記事にある。


 ここ数週間のウォールストリート・フィナンシャル紙は経済界の突然変異を伝える記事で埋まっている。マクドナルドに次ぐハンバーグ・チェーン第二位の業者が、従業員に支払う初任給の時給を一律二十ドルに引き上げ、パートやアルバイトも例外なく正規の社員として雇用する措置を発表し、即日実施した。長年勤続の社員の中には時給が三十ドルを超える者も誕生した。

 効果はてきめんで従業員の士気が高揚し、客が食い散らして汚れたままだったテーブルは姿を消し、清潔な店内で良好なサービスを楽しもうと、これまでファーストフーズから遠ざかっていた富裕層や高齢者が加わり、店内は常に満席の盛況ぶりだ。あらたに導入した高価格帯のメニューも好評で、この調子だと今四半期の業績はこれまでの一年間の収益に匹敵すると予想され、同社の株価は倍に跳ね上がったと記事にある。

 一方、世界最大の大型小売店チェーンであるグリーン・マート社は今回の産業界の動きに対して、同調すれば収益の激減は間違いない、と従来からの低賃金、安値販売の方針を堅持するとの声明を出した。

 その直後に会長以下幹部役員が創業以来最高の報酬を手にするとのニュースが流れ、とたんに消費者離れが起きて、どこの店内も閑古鳥が鳴く状態が続いている。消費者はそれまで素通りしていた自宅近辺のスーパーや小売店で需要を満たすようになり、グリーン・マートによって駆逐されてしまったローカルの商店の多くが再び開店するようになって、地方の経済は様変わりの活況を呈している。

 

 ニューヨークポスト紙は切り口の異なる記事を掲載していた。同紙が秘密裏に手に入れたハッカーからのメールを言語学者に分析させたところ、文章のスタイルがこの数年の間ベストセラーのトップ十位リストに留まったままの書籍と極似で、著者は同一人物と考えられるとの学者の見解を紹介していた。

 そして、ネットで送られてくるメールは英国風のクイーンズ・イングリッシュで、本は米語とスタイルは異なるものの、アイリッシュ系米人が使用する言い回しや語彙が散見されることから、アイルランドからの移民の末裔で高等教育を受けた者であろうと学者は推測していた。

 本国の人口の数倍に達するアイルランド系米人を特定するのは並大抵ではないが、同紙の記者がこれまでに発表された米国内の論文や大学内の資料、公的機関に残された膨大な記録を検索した。その結果、ケンタッキー州中部にある某単科大学の卒業生が浮かび上がってきた。しかし、奇妙なことに、米国史を選考したとされるその女子学生の在学中の記録は喪失され、卒業後の行方も不詳であると学校当局から連絡があった。

 記者の検索した結果には、この女性が卒業後に医学部に学士入学して脳神経科の女医になったという噂も含まれていた。しかし、その女医がメールに含まれる高度な経済学理や税制を熟知しているとは考えられず、いまだにハッカーを特定できない、とあった。


 世の中の話題は今回のハッカーによるメール作戦が政治経済に及ぼした影響で占められていたが、またまた世界中の人々を驚かすニュースがケーブルTVの臨時速報で流れた。

 今年のノーベル平和賞を、平和裏にロシア軍が撤退して無血でウクライナに完全独立をもたらしたホワイトハッカーに与えることを平和賞委員会が決定したのだ。ロシア軍の進駐以前に暗躍していたかつての腐敗政権の残留分子たちの一掃に貢献したことも授賞理由に含まれていた。

 ノーベル賞は身分が明らかな生存する個人や現存する団体に贈られるのが常で、今回のように特定できていない者が受賞者に選ばれることは異例の措置だ。委員会では授賞日までにハッカーが名乗り出ない場合は、賞金を欧州の難民救済の基金に寄付する方針だ、と速報は報じていた。


 最初のハッキングが大きな反響を呼んでからおよそ五年が経った。この間の激変を世間ではナターシャ・ショックと呼ぶようになっていた。

 先進国のどこもがベーシックインカムの採用に向けて動き始めている。

 元々所得格差が小さかった日本は先進国では最も早い時期に完全移行が期待できる国だろうと評されている。社保庁はあらたにベーシックインカム庁に改編され、初代長官に織田伸介が就任した。政府が任命するこの長官は、閣議では他の省の大臣並に処遇されることになった。織田は閣外には知られていない特命任務を帯びた首相補佐官との兼務である。

 一方、実力主義が徹底していた米国ではいまだに不満が絶えない。百メートル競走でこれまで未踏だった九秒を切った選手も、十秒台しか出せない選手も同じ所得なのは不公平だという声や、時代が時代なら百億円の報酬を手にするのに、たったの六億円は不条理だ、というウォールストリートに本社を置く某企業の会長の談話がその例だ。

 その米国でも、大きな所得の格差を二度と許してはならないというコンセンサスが支持されつつある。ひとりの人間としてその尊厳を維持することができるベーシックインカムこそ、荒波を乗り越えて渡来した先祖たちが待ち望んだアメリカン・ドリームであった、との歴史認識が定着しつつあるからだ。

 昔はベーシックインカムでは米国や日本に先行していた欧州だったが、所得再分配策として長く採用していたためにその性格からの脱皮が遅れている。先行する日本はもっぱらノーベル平和賞の有力候補だとされ、このままでは世界に置いてきぼりを食らうという危機感を募らせるメディアの報道が目立つようになった。


 五年前には二パーセントも達成できなかった先進諸国がこぞって五パーセントを超す経済成長を達成している。消費者が豊かな所得を消費に向けるのだから当然である。有効需要を喚起するケインズ主義経済理論や所得再分配論に代わり、ベーシックインカム論が経済学の主流に収まった。

 地下経済はその活動に対して報酬を払う者が皆無になって自然に消滅してしまった。数年前まで議会の空転を招いた急進的なポピュリズムは不満の対象がなくなって姿を消した。ウェブスターでは新版の辞書から死語となったポピュリズムを削除する方針といわれる。

 女性の社会進出と出産のための産休が昔は頻繁に議論されたが、これも今では話題にもならない。

 毎日が日曜日のようなもので、朝夕の通勤ラッシュは姿を消した。日本では人々が首都圏に集中する理由がなくなったために、かっては過疎化で悩んだ地方へのUターンが進み、その分、地方の経済が活況を呈している。

 就職や昇進に有利だからという理由だけで受験生が殺到した有名校の存在は昔の話で、今では時代に先駆けた教養や生涯スポーツの振興、あるいは科学や歴史、文化を学ぶだけでなく、各人が一級の研究をするのに適した教育機関が好まれ、個性に欠ける大学は廃校に追い込まれている。


 ホワイトハッカーは相変わらず大量のメールを政府機関、企業、そして個人に送り届けている。人間の忘れやすい性は変わらないからだ。それにベーシックインカムが普及するにしたがって、昔の労働の苦労を知らない世代も出現した。そのためにもホワイトハッカーはメール作戦を止めることができないのだ。

 十ギガビットのインターネットが各地に出現した。ブライアン・ジョーンズが率いる開発技術グループはすでにその次の世代である6Gの技術開発に追われている。それが完成すると、テレビの料理番組を見ながら食材の香りを味わったり、シネマのスクリーンに現れる潮騒の磯の香りが館内の観客に届く時代がやってくるのだ。





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