第26話 ホワイトデマゴーグ
「ジム、民主主義は社会のためになっているのかしら?」スーザンが塚堀に問いかけた。
「デモクラシーとは、古代ギリシャ語で”大衆”を意味する”デーモス”に”支配”を意味する”クラトス”を加えたものだと大学の授業にあったわ。大衆による支配、国民主権を指し、古代ギリシャの都市国家では民主政が採用されていたのだわ。でも、時代が下ると、大衆が扇動に乗ってソクラテスを死に追いやる衆愚政治を生んでしまったわ」
「その通りだ。だからプラトンは、大衆には政治を担う能力はないとして、エリートによる政治を唱えている。その後もローマ帝国時代も民主主義は衆愚政治と同意語に解され、民主主義が再び脚光を浴びるのは、十七世紀の啓蒙主義を待たねばならなかった。今日我々が理解する民主主義とは、西欧の市民革命によって広まった議会制民主主義を指すのだ」
「そのように血を流して勝ち取った参政権も、今の米国では有権者の反芻も行使しないのよ。あのアレキシ・ド・トクヴィルが賞賛したアメリカの民主主義は姿を消してしまった。どうしてか? これを大学の授業で議論したことがあったわ。人権運動などこれまでの民主化運動が権利の獲得に偏重し過ぎたのね。市民としての義務の履行を軽んじたために、庶民にとっての民主主義とは、エンタイトルメントと呼ばれる福祉策や助成金などの恩恵享受と、なんで平等という悪平等の潮流を生んでしまったのよ」
「国政に参加する権利と裏腹の関係にある投票行為という義務を果たさず、それにもかかわらず政治に不満を抱く市民が氾濫している」
「プラトンが哲人と呼んだエリートの登場が必要なのかしら」
「社会を支える価値観を変える必要があるね。貪欲な利益の追求によって富を獲た者をエリートと見上げ、抑制や自己犠牲を尊んで金儲けの機会を見送る者を見下す。この価値観を転換するために、哲人の登場が必要かもしれないな」
「今の時代に必要な哲人とはだれを指すのかしら?」
「思うに、善良なる”デマゴーグ”、いわば、ホワイトデマゴーグの出現ではないだろうか」
スーザンは塚堀の意味することが分かるようい思えた。今の時代にプラトンのいうエリートによる政治は期待できない。議会制である限り議会が国政を決めるのだ。ところが、その議会に議員を送り込む有権者が誤まった、あるいは理解に欠けた価値観を抱いたままでいる。そのため、議会が国民の真意を代弁しない事態に陥っている。
英王室の皇太子の弟が元女優の米国人と結婚した。その結婚式には首相を含む政治家はだれも出席していなかった。国税で暮らす王室の結婚式に、納税者である国民を代弁するはずの議員がひとりも招かれない。代わりに友人など一般の人々が招かれていた。議会と庶民が住む世界との乖離を端的に語る光景が世界に向けて放映された。
政治や経済を変えるには有権者である市民の価値観を変える必要がある。今日の常識が、実は非常識ではないのか、とだれもが疑問を抱く必要があるのだ。
元々人が持って生まれた、隣人愛、友情、人の情、憐れみ、謙虚さ、自制、抑制、節制、などの道徳観を呼びもどす。徳を施すことによって手にする、金銭では買うことができない悦び、それを体験させる。これが巧みなホワイトデマゴーグの出現を塚堀は期待しているのだ。織田伸介が秘かに期待しているのもそれに違いない。
「大きな所得格差の解消のためには、ひとりひとりが豊かな生活を維持できる所得とはどれほどか、を明らかにする必要があるわね。今の最低賃金ではなく、幸せを感じることができる水準でなければならない。それはどの程度のものかしら?」
「七万五千ドルで人は幸福感が満たされるという調査結果に触れたことがあるね。この半分程度が最低限の目安だろう。時給に換算すれば十九ドル前後になるね」
「ジム、覚えているわよね。ファースト・フーズ店で時給七ドル台の賃金を十五ドルへ引き上げることを叫んだデモがあったわ。その時の経営者の反応は、労働コストに耐えられずに閉鎖する店が続出するというものだったわ。消費者にもそれでは日常生活が不便になると同調する者がいて、あの要求は立ち消えになってしまった。あなたの案が実行されると、倒産企業が続出することにならないかしら?」
「それこそが、ホワイトデマゴーグを必要としていることなのだ。今の経済は君がクルージングに例えた通り、消費を支える消費経済でありながら、肝心の消費者の懐が寒いために消費が伸びない。そのため先進国では超低成長に陥っている。ところが驚いたことに、米国の主要5百社が自社株の購入と配当に投じた現金が、一年間でなんと一兆ドルにも達しているんだ」
「世界で三番目の経済大国である日本の一年間の国家予算に匹敵する額だわね」
「そうなんだ。米国だけではない。日本でも企業の内部留保の総額が四百兆円強だそうだ。世界の上場企業が保有する現預金の総額が十二兆ドル、円価に換算すれば千三百兆円を超える。法人税などを支払った後の利益の集積がこのような巨額に達しているんだ」
「社員の給与を引き上げると企業が破綻するというのは脆弱な経営に陥っている企業を代弁しているだけで、ピンピンしている企業には詭弁に過ぎないことになるわね」
「マルクスは、資本主義経済は放置すると所得格差を生むことを明確には指摘しなかった。この資本主義の特性もホワイトデゴーグが強調しなければならない」
「消費経済には所得格差を拡大する要因が隠されていると指摘した社会学者がいたことを知ったわ。あなたの書棚にあった、一九七〇年にフランスのジャン・ボードリヤールが”消費社会の神話と構造”なる書を出しているわ」
「消費社会が人々の間に平等と均質化による豊かな社会をもたらす、という通説は神話に過ぎず、差異と貧困を生むことを覆い隠していると記しているね。この学者は半世紀前に現代の所得格差を予見していたことになる」
「ボードリヤールは、設備投資が牽引力で高成長が可能だった経済から、消費がエンジンの役割をはたす低成長の消費経済に移行すると、経営者は経営を維持しようと従業員の賃金を抑え込むことを見通していたのだわ。従業員は消費経済を支えるエンジン役なのにその所得は低下する一方で、それが消費をさらに冷え込ませる悪循環に陥ってしまう。現在の先進諸国が見舞われている超低成長経済に他ならないわ」
「今は経済成長が二パーセントにも達しない経済が続いているが、ホワイトデマゴーグが強調しなければならないのは、消費者の懐が豊かになれば消費が増えて、ひいては企業の利益に貢献するというよい循環に転換することを世間に知らしめることだ」
「大きな所得格差をそのままにして、税金で所得の再分配をするのではなく、所得そのものを本来あるべき姿にもどす。その財源は、経営トップへの法外な報酬や、株価を吊り上げるだけで価値を生まない自社株買いに浪費するほど有り余っている、という認識を定着させる。これがホワイトデマゴーグの使命だわね」
「大企業のトップであっても、一般社員の平均給与の二十年分も手にすれば十分だ。三百五十年分もの現在の報酬は非常識だという理解を広めることだな」
「ディッキンズが金儲け主義の主人の改心を描いた”クリスマス・キャロル”を著したのは一八四三年のことだ。あれから二世紀近くになる。世界はまたあの時代にもどってしまった。第二のクリスマス・キャロルをホワイトデマゴーグの手で世に問わねばならないのだわ」
ふたりは考える。
女医のサンドラ・オキーフから聞いた汎用人工知能が実際に利用されるとなにが起きるか? 汗水を流す仕事を人に代わる人工知能で済ませる時代が到来することを意味する。
この数年、米国でも日本でも人工知能が製造現場の自動化をもたらすだけでなく、ホワイトカラーの単純作業を代替して事務職を奪うという危機感を煽る記事や書が頻繁に出現するようになった。その対応策として、仕事の付加価値を高めるような人材教育や、時には法制度の整備を訴えるその道のプロの意見も出されている。
「人工知能を論じる評論家や学者はだれもが、人の生活費は労働への報酬である給与でまかなわなければならない、という既成観念から脱皮していないわね。だから労働の辛苦から開放される庶民の喜びが考察の対象から外れてしまうのよ」
「だから、人工知能が生む自動化が人の労働を奪って人は路頭に迷う、という論に行き着いてしまう。評論家や学者には、社会の秩序を崩す発想は異端と恐れる本能のようなものが備わっているからだろうね」
「これもこの世がホワイトデマゴーグを必要とする理由のひとつになるわね」
人工知能が労働の苦を取り除くことは人類の歴史が始まって以来の夢の実現であり、それを否定的に考える常識こそ廃棄されるべきではないか。そのためには、人は勤勉であるべき、という倫理観でさえ見直さねばならないだろう。なぜなら、これまでの倫理観とは、今までの世を維持するために支配者が編み出した道具に過ぎないからだ。
百パーセント自動化した生産設備が、人工知能の予測する需要動向に応じて商品を生産する。それを自動化した流通手段が消費者の元に届ける。会計処理は、データを読み取った端末が、クラウドを利用した集中処理センターにそのデータを送れば、その結果が自動的に返送されてくる。法律相談も、完璧な法理論を理解し過去のすべての判例に通じたロボットが、瞬時にアドバイスを提示する。
汎用人口知能を備えた生産設備やサービス機能が、国民のひとりひとりが豊かな生活を送れるような付加価値を生み出す。人々は労働との引き換えでなく、人工知能によって生み出される付加価値を分かち合うことになる。
生産設備や流通網などを支える資金の基になる資本の存在はこのような時代であっても存続するであろう。しかし、これまでの資本主義経済に不可欠だった、資本を私有する資本家は存在意義を失うことになる。資本の管理や運用は人口知能がすべて取り仕切ることになるからだ。
半世紀先には、人工知能の進歩によって国民全員が資本のオーナーになる真の共産経済が出現することになる。労働者の武装蜂起による革命によって資本主義が消滅するとしたマルクスやエンゲルスの予言に代わり、資本を共有しその果実を分かち合う社会が人工知能の進歩によってもたらされるのだ。
経済の本来の目的だった、国民のだれもが労働の苦を経ずに豊かな生活を送れる所得、それこそがあらたな社会のベーシックインカムでなければならない。
このような世界では人はなにをするのか。労働という経済活動に欠かせなかった行為が姿を消し、義務感から工場や事務所に出向く必要はなくなる。人は人工知能では再現できない人間だけに備わった感性を大切にすることになる。損得ではなく、愛や同情がもたらす感情が身を挺する行為を生んだり、人間性を磨くためにレジャーや趣味に時間を費やし、読書や科学研究に勤しむ。
人の生き甲斐とは? を真剣に考えねばならないあらたな時代がやってくる。あらたな倫理観も必要になるだろう。
そのためには、これまでの常識を崩す意識の革命がそれ以前に起きていなければならない。人件費はコスト、というこれまでの経済を支えてきた常識への決別である。
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