第25話 脳神経科の女医(2)
サンドラは隔週の週末にモンタナの自宅に帰るそうで、スーザンは女医が当地に留まる土曜日の午後を隣のアパートで過ごすことが多くなった。
スーザンが脳の知識に異常に関心を示すのは、どうもタチアナからもこの分野の情報を求められているかららしい。人心操作を目論むタチアナならば、それも当然と塚堀には思われた。
スーザンが驚いた、二歳が最高、というのはこのようなことであった。
新生児の脳は生誕直後から驚異的なスピードでニューロンと呼ばれる神経単位を作り出す。その結果、二歳に達する頃には百兆個もの神経細胞の連接部が脳内に生まれることになる。これは成人のおよそ二倍の量に相当する。と、いうことは、身体が成長するのに反して、人間はこれらの連接部を捨て続けていることになる。
二歳の幼児は外部に伝える術を持たないものの、脳内では英語も日本語も同時に理解する能力を持っていることになる。捨て去る連接部は使用しないから忘れ去られるので、使用し続ければ残ることになる。
「脳科学を知らない昔の人たちが、”三つ子の魂”の意味を理解していたことになるわね」とスーザンが。
「あなたの数学教室で利息の話をするのは子供たちの将来に有益なことだわ。おとなになってからではすぐ忘れるでしょうから」
塚堀はこの数年の間、べレアの中学校で数学の一日教師を務めている。その授業では必ず複利計算を含めるようにしている。貯蓄をすると複利で利息が貯まり、逆に借金をすれば複利で利子を請求されることを教えるためだ。
プール脇の木陰で横になったスーザンとサンドラの会話が新聞を広げていた塚堀の耳に入ってきた。似たようなビキニ姿はそれこそ双子の姉妹が並んでいるようだ。インターネットの高速化が話題になっている。
「あなたのアドバイスでいろいろダウンロードして、それをモンタナの同僚との間で送ったり受取ったりしているのだけれど、離れた地の相手が目の前にいるのと同じようだわ。ひと昔前には患者の脳波を記録した膨大なデータをプリンターに いったん落としてプリントアウトし、それを別の地にいる脳外科医に宅配便で送ったものよ。脳梗塞のような緊急患者の場合は特別便を利用しなければならず、費用も馬鹿にならなかったわ。それが今ではオンラインでお互いにデータをシェアーすることもできるなんて。インターネットは、見る、聞く、伝えるの機能を満たしていて、欠けるのは臭覚だけかしら。それも近い将来には可能になるかもしれないわね」サンドラが脳神経の専門家らしい見方を披露する。
「臭いを人間が判別するのは、鼻に入った臭気を感じ取ったという信号を脳の臭いを識別する細胞に送りつけるからで、そのような信号が発信されないか、信号を受取った細胞に不具合があれば、人は臭いを感じることができないの。臭いを感じ取れない患者はこのような欠陥を持つからなのよ。インターネットが今以上に高速化して膨大なデータを瞬時に送りつけることができれば、脳が反応してテレビの料理番組を見ながら香りを楽しむことができるようになるわね」
「サンドラ、瞬時にある信号をインターネットを利用して送りつければ、相手の脳内の働きを操作することも可能なのね」
塚堀が推察した通り、スーザンがタチアナとこのことを議論しているのは間違いなさそうだ。
「悪用される恐れがあるから、だれもそのような可能性を公言する専門家はいないけど、可能性は大いにあるわね。人間は無意識にある行為をするものよね。よく引き合いに出される例に、野球の投手と打者があるわ。プロの投手が時速百五十キロのスピードでマウンドからボールを投げると、打者は零点四秒以内にバットを振るか振らないかを判断しなければならないのよ。ボールが手の届く位置に近寄ってからでは振り遅れる。優秀な打者は通常人では意識しない別の世界でボールを見ていて、瞬時に脳に振る、振らないの信号が送られるからなのよ」
塚堀も新聞を横に置いて聞き入る。
「面白い研究結果があるのよ。ある心理学の研究で、ファースト・ネームの頭文字が同じ夫婦が多いことが発表されているの。夫がデイビッドで妻がドナ、夫がジョンで妻がジョアンナのような例が少なくない。これも無意識に同じアルファベットで始まる異性を脳が意識して好意を抱くからと考えられるのよ」
「私の両親がジョンとジャッキーなのはそうだからかしら」とスーザンが。
スーザンが思い出したわ、と「しばらく前にテレビで見た実験だけど、テニスのプレーが進行中のコートを人が扮した大きなゴリラが横切るのよ。ところがテニスのプレーの観戦に熱中している観衆でゴリラを目にした者は皆無だった。観衆の目にはゴリラが映っていたはずなのに、脳はそれを認識していない。テニスコートにゴリラが現れることはあり得ないという思い込みが錯覚を引き起こすのね」
「逆に、実際には存在しないものが目の前にあるという幻視や幻想も、目や耳にはなにも届いていなのに、脳には見たとか聞いたという信号が送られるから起きることなのよ」とスーザンが付け加える。
マンハッタンの画廊で仮面に隠されていた女の素顔を目にしたのは、入念に仮面に塗りこまれた画家の魂が塚堀の脳にその信号を伝えたからに違いない。
「麻薬による中毒症も脳に障害を起こすからだわね。ナチスによるホロコーストが繰り返されたのも、非人道的な悲惨な状況を目にした信号が正しく脳内に届かなかったから起きたことで、これも脳の障害と呼べるわ。多くの人が誤まった考えを常識と感じるのも、誤まった信号が送られるからで、正しい信号を送れば、そのような常識が非常識だったのだ、と人々が錯覚から目覚めることになるでしょうね」
サンドラのことばを聴きながら、スーザンが塚堀に目線を送る。
「脳神経の分野では今、ソーシャル・ニューロサイエンスと呼ばれる、脳が社会や人間関係に及ぼす作用の解明が注目されているのよ」
高速インターネットを利用して人の脳に働きかけることによって、誤まった意識を矯正することが可能になる。明るい未来が開けようとしている。スーザンは嬉しかった。タチアナに伝えねばならない。
スーザンがアパートから冷やしたレモネードのジャーを手にしてもどってきた。グラスを手にしたサンドラが、「脳神経の医師や研究者が関心を抱いているのが、人工知能と人の脳の関係なのよ。チェスで人口頭脳が世界チャンピオンに勝ったのはひと昔前のことだわね」
「日本でも将棋のタイトル保持者が人工頭脳に負けて話題になりました」
「ゲームの世界だけでなく、簡単な仕事は近い将来にロボットが人の代わりをするのは間違いないでしょうね。私の身近でも、一千億個の脳細胞がどのようにしてネットワークを組むのかを解明する研究が進んでいます。五十兆個といわれる脳細胞の接続部のごく一部ですが、脳の働きの解明が進むと人工知能は一段と精度の高いものになるでしょうね」
ところで、とサンドラが、「現在世の中が注目している人口知能は、囲碁や将棋などの特定の分野に特化したものですね。碁の人工知能を備えたロボットに市場調査は期待できません。店頭で挨拶するロボットに外回りのセールスを託せないのも、同じように特化型の人口知能だからです。ところが、特化型ではなく色々の任務をこなすことができる汎用型の人工知能の開発が進められているという情報があります。人口知能が人間を超える転換点のシンギュラリティーが二〇四五年頃までに到来すると考えられていますのよ。この汎用型の人工知能の開発を進めているグループのひとつは日本のある非営利組織だそうです。なんでも日本政府の中堅官僚が深く関与しているとか」
スーザンと塚堀が互いに顔を見合わせる。
「繰り返しだけの単純な作業や筋肉を使うだけの仕事は人に代わって人工知能で済ませる時代が早晩到来することを意味しますね」と塚堀。
「そのような世界では、これまでの労働という経済活動が姿を消してしまうわね。あらゆるモノが無料で手に入る時代では、所得は労働に対する報酬ではなくなるということだわ」スーザンが付け加える。
「脳は案外保守的なもので既成観念にとらわれ勝ちなものよ。社会の大きな変化に脳が'追いつくには、外部からのショックが必要でしょうね」とサンドラが。
それまでの常識を覆すショック。スーザンが再び目線を塚堀に送る。
サンドラが立ち上がった。
「今週末でこちらに滞在して三ヶ月になりますので、週末にモンタナに帰ります。友人がモンタナ州の南隣のワイオミング州で観光客向けの牧場を経営していますのよ。国立公園に隣接する広大な原野で、野宿をしながら十九世紀のアメリカン・ドリームであった西部開拓の雰囲気を楽しむこともできます。おふたりでぜひどうぞ。その際には私も駆けつけますのでご連絡ください」
ふたりの乗ったフライトが米国西部のワイオミング州ジャクソンホールに向かってルイビル空港を飛び立った。窓側に座るスーザンの腕には都内で手に入れた真珠のブレスレットが鈍い光を放っている。
ジャクソンホールの街は夏は避暑で、冬はスキー客で賑わう。これまでは塚堀がスーザンを誘って旅に出るのが通例になっていたが、今回は女医のサンドラから薦められたからか、スーザンがしきりにワイオミングの山を見たいと塚堀を誘ったのだ。
ジャクソンホールの西にグランド・ティートンの山々が連なる。ジャクソンホールの標高が高いために見誤り勝ちだが、最高峰は標高が四千メートルだ。この一帯は白樺林が連なり、その林を縫って清流が走る国立公園に指定されている。すぐ北にあるイエローストーン国立公園の知名度が高いために広く知られた存在ではなかったが、その風光明媚なことで人気を博すようになり、日本からの観光客も見かけるようになった。映画”シェーン”で主人公の名を呼ぶ少年の声がこだまで返ってくる、あの名シーンの舞台がこのグランド・ティートン国立公園だ。
その国立公園に接して広大な放牧場にログハウスの宿泊施設を備えた牧場がある。サンドラの友人が経営しているこの牧場では、滞在客は牧場内でカウボーイ生活を体験したり乗馬を楽しむことができる。数泊を野営で過ごす騎馬による小旅行もメニューに含まれる。
最初の日の夕刻にサンドラがモンタナ州から駆けつけてくれた。
サンドラが、「最近のスーザンの質問は専門家でもすぐには答えられないほど高度なものだわ。弟子が師匠を追い越しそうよ」と塚堀の耳元で囁く。
塚堀とスーザンは最初の夜をログハウスで過ごすと、次の三日は小旅行に費やした。朝食と夕食は同行する幌馬車に乗った料理人が調理してくれる。朝食を終えるとランチボックスが手渡され、客は夕刻まで馬に乗って荒野や山道を進む。リードするのはその地に代々住むアメリカン・インディアンの男だ。
同行した客の中には毎年のようにこの小旅行に参加する者が混じり、チャップと呼ばれる両腿を覆うエプロン状の皮製のプロテクターを着けた者がいる。このチャップはローハイドとも呼ばれる。塚堀の世代は米国から渡来した同名の白黒のテレビ番組を楽しんだものだ。女たらしの役を演じていたのが、今ではハリウッドの大御所であるクリント・イーストウッドであった。
夕刻に野営地に着くと簡易テントが渡される。米軍の払い下げらしく米陸軍とプリントされていた。ふたりが横になると空いたスペースがなくなる小さなテントだが、設営や撤収には数分しか要しない。
テントの設営が終わると、大きなキャンプ・ファイヤーを囲んで夕食を取り、その後はカントリー・ミュージックやスクウェアーダンスを楽しむ。こんなにあったのかと驚くほどの満天を埋め尽くす星。
夜が明けると男たちは傍らを流れるクリークで水浴する。身を切るような冷水だ。女たちは大鍋で沸かした熱湯を洗面器でテント内に持ち込む。スーザンも見張っていて、といってテント内で肌を拭いていた。
わずか三夜だけだったが、髭が伸び放題で化粧もままならない。十九世紀にアメリカン・ドリームを手にしようと西部を目指した幌馬車隊の移住者たちは、このような毎日を半年も続けたのだ。アメリカン・ドリームを夢見た昔の移住者の気分を味わったふたりであった。
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