第24話 脳神経科の女医(1)

 「人間の脳は二歳まで成長して、その後は後退の一途をたどるばかりなんだって!」

 ハナミズキが開花し始めた春のある土曜日の午後のことであった。アパートのドアーを押し開けて部屋に飛び込んできたスーザンが叫ぶようにして塚堀に語りかけた。

 スーザンには興奮すると前後の経緯を端折って結論だけを強調する癖がある。その日も塚堀はなにごとかと驚かされることになった。

 金曜日の夕食は外食で済ませ、土曜日はスーザンの手作りを夕食にするようになって久しい。今夜の料理は海鮮スパゲティーにするわ、とスーザンが昼食後にスーパーに出かけた。アパートから車で十五分ほどの地に魚介類のコーナーを備えたスーパーがある。

 小一時間で帰るからといい残したスーザンだったが、壁の時計は四時過ぎを指している。ゴルフをしない塚堀だが、その日は日本選手が優勝するかもしれないと話題になっていたマスターズの三日目で、塚堀はテレビが流す実況放送を見ている最中であった。

 近くの総合病院が借り上げている隣のアパートは頻繁に住人が入れ替わる。数日前に中年の女性が入居した。

 病院はユニフォームで職種を区別している。膝までの白衣は正規の医者、腰までの白衣は見習いの医者や看護師、カラーのユニフォームはレントゲン技師やリハビリ技能士など、一見してその職種が分かるようになっている。隣の女性は膝までの長い白衣姿だ。

 駐車場ではじめて顔を合わせた時、塚堀は驚きで立ちすくんでしまった。相手の女医も同じであった。

 塚堀は会計士試験の受験資格を満たすためにモンタナ州立大学があるビリングスに数日滞在したことがある。ある晩にバーのカウンターで話しかけてきたあの脳神経科の女医が隣のアパートの住人なのだ。

 あれから十五年ほどになる。亜麻色の髪は記憶に残っていたが、あの時は気にかけなかった紺碧の瞳や濃い眉の目鼻たちはスーザンにそっくりだ。双子の姉妹と呼んでも不思議ではない。

 「隣の女医さんとスーパーでいっしょだったの。あなたとは以前に一度会ったことがあるそうね。脳神経科の専門家だそうよ」

 「スー、君に瓜二つの女性だよね。びっくりした」

 「スーパーでも店員から双子の姉妹かと問われたわ。モンタナ州の病院に勤務していて、三ヶ月の予定でここの病院でインターンを指導しているそうなの。アパートにお邪魔して今まで話し込んでしまったのだけど、二歳の幼児の脳が生涯で最高だなんて面白い話題ばかり。夕食に誘ったのだけど構わないわよね」


 しばらくしてドアーをノックして女医が居間に入ってきた。

 「ジム、サンドラ・マクドナルドです。あの時は名刺も交換しませんでしたが、この広い国で再会するとは、世界も狭いですね。スーザンのおことばに甘えてお邪魔します。スーザンのお話では赤ワインがお好きだとか。これは輸入品ですが味がよいので」とシラッツの瓶を差し出す。塚堀もなんどか楽しんだことがある豪州産の赤ワインだ。

 「サンドラ、ありがとう。本当に世間は狭いですね」とサンドラにソファーを薦める。

 「あの時のお話ではマクドナルドは離婚したご主人の苗字でしたね」

 「そうです。心臓外科の医者でしたが、お互いにしょっちゅうすれ違いで、御多分に漏れず医者どうしの夫婦は長続きしませんでした。その前夫の話では、南北戦争直後の十九世紀にアイルランドからボストンに移住した一家が始まりだそうです。ボストンで職を得ることができず、そのため大陸横断鉄道の建設現場で働くために西部のモンタナに移ってきたそうです。建設現場は低賃金の上に長時間労働で、耐えられずにアイルランドに引き返した家族もいたそうですよ」

 「マックで始まる苗字はアイルランドやスコットランドに多い名ですね。このマックは息子を意味し、マクドナルドはドナルド一家の息子ということになりますね」

 敗戦直後の日本は連合軍総司令官のダグラス・マッカーサー元帥の統治下にあった。昭和天皇とマッカーサーが並んだ写真が残されている。モーニング姿の正装の天皇に対して、隣のマッカーサーは襟の開いた略式軍装で、両手を腰に置いていた。気位の高さが出ている。マッカーサーはマックアーサーのことで、アーサー一族の息子を意味する。古代英国を統治したアーサー大王の末裔に日本は支配されていたのだ。

 「サンドラの結婚前のお名前は?」

 「オキーフです」

 「オキーフは、麗しい人の孫、あるいは高貴な者の孫、が語源です。恐らくあなたの祖先はアイルランドでは豪族の一家だったのでしょう」

 「アラ、知らなかったわ。麗しい人、とは嬉しい」

 「サンドラ、話した通りでしょう。私の父も外国人に苗字の語源を教えてもらうなんてと驚いていましたわ」

 「亡くなった祖父の話では、十九世紀始めにフランスに渡って革命に参加して命を落とした女性もいたそうです。アラ、今、思い出したわ。その女性の名はスーザン・オキーフだったそうよ」

 「ひょっとして、その革命とは一八三〇年のパリ七月革命ではないですか?」身を乗り出した塚堀が思わず問う。

 「祖父がそう申していました。どうしてお分かりになりましたの?」サンドラが驚く。

 突然、塚堀の脳裏にある思いが閃いた。サンドラが告げたスーザン・オキーフは、あの油絵に塗り込まれた仮面の下に隠された女のことだろう。その末裔であるサンドラと双子に見間違うスーザンは、あの仮面の女の生まれ変わりなのだ。

 「その二代後がボストンに移住してきたそうです。持参した絵画や骨董品を生活の糧に売り払ってしまったそうで、その中にはかなりの価値があるものも含まれていたはずだ、と祖父は残念がっていましたわ。飢饉に襲われた母国で没落した一族だったのでしょうね」

 その夕は、大きな殻付きの貝が混じったスパゲティーに、サンドラが持参したシラッツを三人で楽しんだ。

 シラッツのボトルが空いたので塚堀がアイリッシュ・ウイスキーの丸い瓶を棚から引き出した。そのラベルを見たサンドラが、「アラ、あのバーであなたがオーダーしたウイスキーね。スーザン、このウイスキーは私の祖先の故郷のものなの。大西洋に面したクレア島にあるノックモアという名の山裾に酒造があるのよ」

 「クレア島は観光ルートに組み込まれていたわ。フェリーを利用して週末に訪れたことがあるわ。灯台があったわよ」

 サンドラが瓶を手にして、「このボトルにある一八一八年は、一度火災に見舞われたその灯台が再建された年なの。酒造の創業者は燈台守だったそうだわ」

 「ブレンドされたウイスキーでヴァニラが加わっているとか。口当たりが柔らかく、オンザロックスに向いていますね」と塚堀が加える。

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