第23話 日本訪問

 スーザンが食卓に置いたタブレットに向かっている。このところタチアナとのメールの交換が盛んなようだ。塚堀はスーザンの方から切り出さない限りメールの内容を問うことを避けてきた。

 塚堀が秘かに抱く構想が現実のものになれば、スーザンは水面下に潜むことになる。ハッカーは常に黒子に徹して身を潜めなければならない、というタチアナのことばを塚堀は忘れてはいなかった。やがてスーザンとの肉体関係を断つ時がやってくるのだ。構想の実現はスーザンの納得するものでなければならない。

 きょうは珍しくスーザンが語り始めた。「ダークウェブの世界ってまるで底なし沼のようだわ。敵味方が入り混じっていて、ある時は味方のウェブも別のケースでは敵に回るから、どちらになっても被害が及ばないように注意して辻褄を合わせる必要があるの。それに各国の司法当局や諜報機関の介入もあって油断ができない。ターニャの身に危害が及びそうになることもあるのよ」

 「ターニャはソ連時代からの筋金入りだからそれは重々承知のことだろうが、君はだいじょうぶかね?」

 「私が巻き込まれないようにメールの交換には注意を払ってくれている」

 「それはありがたいね。君も注意をするに越したことはないだろう」

 「資本主義経済の行く末はどうなるか、そしてどのような改革をすべきか、あなたの意見を知らせて欲しいといってきたわ」

 「それは僕も関心があることだ。近く君とじっくり話をしよう。その前に以前から考えていた日本旅行を実行することにしよう」

 シェリル・スミスがぽつんと呟いた、スーザンがどこかに行ってしまうのでは、という一言が現実のものになろうとしている。スーザンに早く日本を見せて置きたい。

 「ワー、嬉しいわ。前の夫が感じ入った美しい国をこの目で見ることができる。それにあなたの故郷だし」スーザンが遠くを見るような眼差しになる。

 「シンスケにも会えるわよね。確かめたいことがある」

 「父親夫婦と会食を予定しているから伸介も加わると思うよ」

 「ターニャへのシンスケのメールでは、重要なものは"サクラ”、緊急を要するものは”ポトマック河畔のサクラ”をタイトルに加えているの。最近はサクラが多くなったわ」スーザンが付け加える。

 「それにシンスケはあのシリコンバレーのブライアン・ジョーンズとも別にコンタクトしているみたい。メールにはなにが目的かは書かれていないけど、恐らく新高速インターネットのことでしょうね」


 その数週間後、塚堀は織田伸介からメールを受取った。その後スーザンを介してタチアナとの接触ができるようになったこと、タチアナは事前の噂に違わずインターネット界に精通していて、伸介は地下ウェブを操作する代理人に起用することを真剣に考慮中とあった。そしてスーザンの語学力は驚くばかりで、返送される邦文のメールは優秀な部下の官僚が作成したのかと錯覚するほどだとある。

 ところで、と記されたメールの目的は、最近出版されたある書籍のことであった。

 伸介がその後もコンタクトを続けているポーランド人スパイからの情報によれば、ニューヨークポスト紙の文化面に掲載されるトップ・テン・ベストセラーに近々ランク入りが見込まれる新刊本が注目されている。

 カバーに日本の能面のイラストを掲載した書のタイトルは”ホワイトハッカー”で、著者はナターシャとある。姓は不詳で、素性も出版社に問い合わせても不明だそうだ。ナターシャは赤の広場で石を投げれば必ず当るといわれるほど多い名で、ファーストネームだけでは人物を特定するのは不可能である。

 書の内容はダークウェブに精通した者でなければ知り得ない高度なものである。ニューヨークのスパイ仲間たちは著者はタチアナの可能性があるが、英文は外国人のものではなく著者は英語を母国語とする者と見ている。しかしダークウェブ界を見渡しても該当する者が見当たらない。なにか情報があれば知らせて欲しい、という依頼だったそうだ。


 ふたりが乗った成田向けのフライトが房総半島に近付いて降下し始めた。田植えの準備のために水を張った田が眼下に広がり、富士山が夕陽を背に雲の上に浮かんでいる。

 リムジンバスで品川駅前のホテルに向かった。道路の左側を走る車の列を見ながら、アイルランド留学以来の外国だとスーザンが微笑む。沿道に緑が多いことに驚いている。ケンタッキーも木々が茂る地だが、日本の緑はしっとりとして水気が多い、と印象を語っている。

 翌日は都内の観光を、翌々日からは二泊の予定で奥日光を訪れることにしていた。五部屋しかない民宿のような温泉旅館を予約してあった。

 翌日の午前中にふたりは織田一郎が最近まで社外取締役を務めていた浅草にあるビール会社の本社を訪れ、織田と数人の同窓生を交えた昼食会に顔を出した。スーザンは昼食後に立ち寄った仲見世通りが気に入ったようだ。両親に塗りの箸のセットを、シェリルにはこけし人形を買い求めていた。

 地下鉄を出て東京駅の丸の内側に立った。スーザンに、あそこが社会人としてスタートした場所だった、と塚堀がビル街にはさまれた中通りを指指す。

 塚堀が新入社員時代に入っていたビルは高層ビルに建て替えられていて、皇居の堀と道ひとつ隔てたその一角には昔の面影はどこにも残っていなかった。堀に沿って歩いて銀座に出た。

 その日はシャブシャブをスーザンに楽しませることにしていた。その直前に立ち寄った閉店間際のデパートでは、地下の食品コーナーに目を見張っていた。画一的なファーストフーズしかない米国と異なり、手頃な価格でさまざまな食材が手に入る。


 奥日光の山々にはまだ残雪があった。地面から温泉の湯気が噴出する源泉の近くにその旅館はあった。部屋はベッドではなく布団を敷く和風だ。

 夕食前に温泉に浸かるために階下に降りた。広い湯船が貸しきりだ。檜造りの大きな湯船にかすかな香りを放つ湯が溢れている。

 熱めの湯に驚くスーザンであったが、冬の間にすっかり白くなった肢体を伸ばしてまんざらでもないようだ。白い乳房、ふくよかな腰とそれに続く太腿があだっぽく湯に揺れる。スーザンと出会ってから間もなくの日米協会の集りで参会者の目を奪った腰周りは、今では肉付きが増して、相沢が称した豊艶さに中年の色っぽさが加わっている。湯を透した女体にしばしの間うっとりとする塚堀であった。

 洗い場で身体を洗いながら、そこに置かれたいくつかのシャンプーやコンディショナーの香りがよいと感じ入っていた。この業界も日本のきめ細かい品質管理が行き渡っている。お互いの背中を流し合うことができる洗い場がある和風がすっかり気に入ったようだ。

 夕食は一階の和室で他の宿泊客といっしょだ。卓に和食の皿が並ぶ。箸を上手に使いこなす丹前姿のスーザンに見入っていた隣の夫婦連れの初老の男が、カリフォルニアに駐在していたことがあると英語で問うと、スーザンが「ケンタッキーからです」とよどみない日本語で答えて夫婦が驚いていた。

 熱燗よりも冷酒がよいというスーザンの希望で、冷えた吟醸酒の中瓶が卓に運ばれてきた。塚堀が満たしたグラスを乾した後は自分で注いでいる。その飲みっぷりに隣の夫婦が見惚れている。塚堀も同じであった。日本酒もカリフォルニアで国産されるようになったが、吟醸酒までは実現していない。やはり本場の日本酒は違う。それがスーザンにも分かるのだろう。

 酔いが醒めた頃を見計らって、ふたりは裏庭にもうけられた露天風呂に向かった。こちらは乳白色の湯で満たされている。湯はヌルッとした感触だったが湯上りの肌が滑々して快い。

 部屋にもどるとふたつの布団が少し離れて敷かれていた。そのひとつに浴衣姿のスーザンが横になる。もうひとつの布団を接するようにずらして塚堀が掛け布団の下に身を滑り込ませた。

 唇を合わせたままスーザンの浴衣を解く。隅々まで知り尽くした裸体から湯の香りが立ち昇る。週末だけの交わりも十年を超えた。付き合って間もない頃には瑞々しさを漂わせていた胸は、今では仮面の女のそれと同じようにあだめいている。交わりを重ねる都度、妖しげな艶美度が深まる女体の不思議さに魅了されてきた。熱い男を女の愛液が包み込む。

 障子の隙から冴えた月光に輝く残雪を冠した奥日光の山並みが見えていた。


 日光東照宮に登る石段のすぐ傍に神馬を収容した厩があった。その白馬はニュージーランドから寄贈されたと案内板にある。スーザンと塚堀が近付くとそこにいた白人の中年夫婦が話しかけてきた。ニュージーランドからの観光客で、母国が寄贈した馬だと誇らしげだ。スーザンと塚堀がケンタッキーからだと知ると、数年前にダービー競馬を観戦するためにルイビルを訪れたことがある、と会話が弾む。

 ふたりはウェールズからの移民の末裔で、スーザンにもウェールズの血が混じることから話題は移民に移って、昼食をいっしょするまでになった。

 夫婦の遠縁に南米のパタゴニアでワイナリーを営む一家がいるという。聞けば、スーザンとの初の交わりを持ったあの夕食に楽しんだピノ・ノワールの醸造元であった。世間は狭いものだと会話に花を添えた。


 織田一郎夫妻は東横線の田園調布駅から歩いて数分の閑静な住宅街に住んでいる。ふたりを織田夫妻が出迎えた。住まいは一郎が両親から相続した古い二階建ての洋館だ。外観は昔風ながら、海外駐在が長かった夫婦らしく、洋館の内部はモダンに改装されていた。夕食は織田夫人の手になるすき焼であった。その織田夫人とスーザンが日本語で料理談義をしている。

 

 食事が始まって間もなく、遅くなって、と詫びながら伸介がテーブルに加わった。あの時は電話だけで失礼しました、とスーザンに話しかける伸介を一郎夫妻が訝しげに見やる。先日のケンタッキー来訪の真の目的は両親にも伝えていないな、と察した塚堀は無言でふたりの会話を見守った。 

 デザートを済ませた塚堀を一郎が二階の書斎に案内した。伸介とスーザンは居間でなにやら話し込んでいる。


 書斎で向かい合って座った塚堀が一郎に、「米国では所得格差が広がる一方で、それが大衆の消費を削ぐ結果になっている。消費が滞れば経済成長も停滞する。低成長だから経営者は益々賃金の引き下げやレイオフに走ることになり、それが消費をさらに押し下げる。経営者はこの自明の理を解さず自らの報酬増に汲々とするだけだ。これが米国の問題だ。日本では所得の格差は米国ほどではなく、社員の三百倍もの報酬を手にする経営者はまれだ。日本の課題は益々進む高齢化社会への対応だろうね」

 「そうだ。我々が社会人になった時代の日本人の平均寿命は男性が六十五歳だった。五十五歳で定年を迎えた後の年金生活は十年に過ぎなかった。それが今や男性の平均寿命が八十一歳で、女性は八十七歳だ。定年退職後の年金生活が四半世紀にもなる時代になろうとしている」

 「その年金期に高齢者が生き甲斐を感じる社会をどのようにして実現するか、だな」

 「ところが、世界に特出した財政赤字を抱えることから、明るい余生は期待できないという悲観論が、当の高齢者たちだけでなく若い現役の層にも蔓延している」

 「六十五歳以上が持つ金融資産が二千兆円近くに達する日が遠くないそうだ。七十歳以上が持つ有価証券だけでもいずれ五百兆円に達するという試算が紹介されていた。個人が保有する有価証券の半分を七十歳以上が占めることになる。認知症を患う人口増で、その五百兆円の三割を認知症患者が持つ可能性があるそうだ。金融庁や民間の金融機関がその対応策に着手したそうだが、見方を変えれば、タンス預金だけでなく、高齢者によって金融商品に投資された巨額な資産が日本には存在するのだ」

 「一方、日本の単身高齢者の貧困率は世界でも最も高いといわれる。生活保護の受給者の半分近くが六十五歳以上で占められ、ここでも貧富の大きな格差が存在している」

 「資産を抱える高齢者が積極的に参加する社会を実現する基盤が日本にはある。資産の死蔵を促す悲観論ではなく、プラス面を評価する風潮を喚起すべきだな」

 「それが実現できれば、日本は他の先進国の行く末を提供することにもなる」

 「二千兆円の金融資産の一パーセントを資産税で供出すれば、毎年の財政赤字の半分が瞬時に解消される。財政の健全化が実現できれば経済成長にも寄与して、資産の運用益も回復する。二パーセントの資産税の負担も運用益でまかなえることになり、赤字財政は一挙に消滅することになるのだ。その鍵を富裕層の高齢者が握っていることになる」

 「高齢者自身の意識の転換が必要だな。馬車馬のように駆け回って高度経済成長を支え、戦後の荒廃から脱して日本の先進国入りを実現した今の高齢層が、それに応じた報酬を手にしたことは納得できる。しかし使いきれないほどの資産を死蔵したままの高齢者が多い。先日、初めて町内会の高齢者部会に出席して、富裕層が清水の舞台から飛び降りる必要があるとぶち上げてみた。なにを今さら、という反応に混じり頷く者もいた」

 「賛同を得る可能性もあるということだな」

 「このことを伸介にも伝えた。伸介は口を濁したままだが、政府もなにか手を打つことを考えているみたいだ。スエーデンから米国経由で帰国した、どうもあの頃に考えを固めたようだ」


 「ブライアンと連絡があるそうですね」スーザンが伸介に尋ねる。

 「そうです。ブライアン・ジョーンズはあなたの遠縁だそうですね。高速インターネットでは彼の右に出る者はいません。協力を得ることができて感謝しています。あなたがまだヨチヨチ歩きの頃にケンタッキーで親族の集りがあったそうですね。すっかり美人になったあなたが塚堀さんと現われてビックリしたそうですよ」

 「マア、そんなことまで話題になっているのですか」

 「タチアナさんもジョーンズとは密な接触があると聞いています。近々新高速ネットの試験サイトを決めると先日のジョーンズからの暗号メールにありました。タチアナさんはご存知でしょうか?」

 「ブライアンはウェールズからの移住者が多い南米にするのではないかとタチアナが申していました」

 「僕もそうなるのではと見ています。豪州ですと日本に近く日本政府の隠密工作が察知される恐れがあります。その点、南米は日本からですと地球の裏側のことで、まさかそんな地で日本政府がなにかをするとはダークウェブたちも考えが及ばないでしょうから好都合です。米国、ウクライナの反ロシア勢力、それに日本が加わるこの企ては極秘裏に進める必要がありますからね」

 伸介とタチアナの狙いが合致していることに安堵するスーザンであった。

 「新刊本の売れ行きがよいようですね」伸介がスーザンの顔色をうかがうようになにげない風情で問う。

 「アラ、新刊本とはなんのことですの?」

 プロのスパイを前にしたスーザンによる精一杯の演技であった。




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