第22話 内閣府(2)

 「金曜日で道路が混み合いますから空港に向かいましょう」と伸介をうながしてふたりは事務所を出た。

 「伸介さん、日本の財政赤字が改善されませんね」

 「首相が三本の矢からなる政策を進めていますが、三番目の矢である経済成長は今ひとつで、そのため相変わらず歳入不足のために国債の発行が続いています」

 「歳出が多過ぎるのか、税収が少な過ぎるのか。やはり後者でしょうね、高齢化で年金や医療費の負担が増える一方ですから歳出の削減には限界があるでしょう」

 「その通りです。歳出が百兆円を超えるのに、日本の税収は六十兆円にも届きません。これまでの最高はバブル期だった二十年も前の五十九兆円です。米国のトップIT五社が溜め込んだ手元資金が六十二兆円相当だそうですね。国税の総額が私企業の手元資金にも及ばない。日本でも最大手の自動車メーカーの現金保有高が二十兆円を超え、塚堀さんや父が在籍した丸の内の商社でさえ七兆円近くの現金を抱えています。徴税額が少な過ぎるのは明らかですね。でも、消費税率の引き上げでさえ大変な抵抗ですから、所得税率や法人税率をいじくるのは政治的に不可能です。強行すれば政権交代をもたらすだけですからね。税制の専門家である塚堀さんにはなにかアイディアはありませんか?」

 「外野席からの見方に過ぎませんが、抜本的には国民のだれもが安心して日々を送ることができる所得水準の実現、その結果が徴税額を伸ばす、というよい循環を創りだすことでしょうね。しかし所得水準を大幅に引き上げるためには、世間の常識を根底から変える必要がありますね。当面は課税ベースの拡大を狙った、資産税の導入はどうですか? これまでの税制の基本は、所得税に見られるようにお金のフローに課税していますよね。お金が溜まっている状態、例は個人が保有する金融資産ですが、そのようなストックへの課税を加える案です」

 「政府内でもその考えは以前から話題になっています。六十五歳以上の家計が抱える金融資産がおよそ千九百兆円で、その半分は七十五歳以上が保有しています。しかしシルバー族は与党の支持基盤ですから、だれも猫に鈴を付けたがらないことと、課税対象になる資産価値をどのようにして把握するかという技術的な課題もあります」

 「日本は他国に比べて通貨の発行額が飛びぬけて高いですね。百兆円近くもあり、その大半が一万円札で九十三兆円を超えたと報道されました。しかもその内の半分が私蔵されたいわゆるタンス預金だそうですね」

 「その通りです。タンス預金の存在は相続税回避がその大きな要因で、その額はこれから増えることはあっても減ることはないでしょうね。お陰で金庫メーカーが大繁盛だそうです」

 「その報道も目しました。以前は容量が二十リットルの金庫が多かったそうですが、最近は四億円を保管する五十リットルのサイズに人気があるとか。個人が四億円もの札束を自宅に置いているのですから驚きです。五千円札と一万円札を廃止してしまう案がありますね。一定期間に千円札への交換を認め、それ以降は無効とすれば、一挙にタンス預金が市場に出回ることになるのでは? 千円札で自宅に置けば、今の十倍の大きさの金庫が必要になりますから、金融機関への預金や有価証券の購買に回り、死んでいたお金が市場活性化の一助にもなるでしょう」

 「なるほど」と伸介が頷く。

 「私は二十ドル以上のお札を携行していません。五十ドル紙幣でお釣りを求めると嫌な顔をされますし、ファースト・フーズのレストランには”百ドル紙幣お断り”が張り出されています。五十ドル以上の買い物はクレジットかデビットのカードを使用することになりますね。携帯電話の小型化と多機能化が進めば支払いも端末で済む時代になります。現金離れはさらに進むでしょう」

 「一万円札を数枚財布に持っていないと不安になる日本とはだいぶ異なりますね」

 「このように保有資産を”見える化”して置けば、資産税の税収が期待できることになりますね」

 「高額紙幣の廃止は世界の潮流でもありますしね」

 「それでも現在の国債発行残を消し去るには長期間を要することは覚悟しなければならないでしょう。経済成長による税収の自然増も、二パーセントの経済成長もおぼつかないのでは大きな期待が持てません。話題になる消費税の引き上げは、貧富の格差を広げることになりますのでお薦めできません」

 「消費税は所得に占める日常の生活品の比率が高い低所得層の負担率が増え、生活品の比率が低い高所得層の負担率は低くなりますからね」

 「抜本的には、先ほど申し上げたように、勤労者の個人所得を大幅に引き上げることでしょうね」

 塚堀の指摘は伸介がこのところ考えていることでもあった。

 「そうですね。日本の若い世代の家計貯蓄はすでのゼロに近い水準に低下しています。この世代の多くは目一杯の消費をしていることになりますから、家計の収入が増えなければ今以上の消費が増えず、相変わらず低成長から脱出することも期待できないことになります」

 「伸介さん、三本の矢の政策のような、超金融緩和策による経済成長を目指すのではなく、発想を逆転して、先ず、国民と企業人の意識を根底から覆して、個人所得を大幅に引き上げ、それによって消費経済を刺激して相応の経済成長を実現する。また、若い世代に将来の宿題を残さないためには、高度経済成長を体験し個人資産を貯えた裕福な高齢者が進んで財政負担の一端を担うことも必要でしょう。その結果が税収増や歳出減をもたらして赤字財政の是正に貢献し、ひいては将来の福祉策や老後の年金にたっぷりお金を投入することが可能になる。伸介さん、このような政策に転換すべき時期にいたったのではないですか」

 「私もそう思います。働き方改革など目の前の政策も大切ですが、チマチマした小手先ではなく大きな夢を国民に提供して発想の転換をもたらす。そのためにはホワイトハッカーの活用が鍵を握っているのかもしれませんね」自らに説くように呟く伸介であった。


 車が空港の出発カウンターがある階に停まった。

 「塚堀さん、ありがとうございました。予定を変更してお邪魔した甲斐がありました。イワノバさんとの接触が可能となるようですし、スーザンさんまでご紹介いただきまして、これからが楽しみです。塚堀さんの日本経済に対するご見解も役立ちます」

 「日本国のスパイの元締めを知人に持つ栄誉を口外できないのが残念ですよ」

 「今夕シカゴから西海岸に飛び、明日一番のフライトですと成田着は日曜日ですので、月曜日の閣議に間に合います。どうしても陪席しなければならない案件がありましてね。宮仕えの身ですからね。スーザンさんにお目にかかれなかったことが心残りです。おふたりで日本にお越しの節はぜひご一報ください」

 「スーザンにも日本を見せたく思っています。近く日本旅行を実現しましょう。お父上によろしく」


 伸介を見送ってアパートに帰ると、スーザンもちょうど駐車場にSUVを停めるところであった。

 ミスター・オダは日本政府のスパイなのかと問いかける。伸介との会話を掻い摘んで伝えると、ターニャも日本政府と関係ができることを歓迎するだろうと、と早速秘密ルートでメールを送っていた。

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