第21話 内閣府(1)

 織田一郎は塚堀と同じ年に商社に入社した仲間のひとりである。配属先が別々の商品部門だったことからふたりが同じ職場で机を並べることはなかった。しかし入社時に共に独身寮にいたことや、同じ頃に米国に駐在したことから親しくなり、塚堀が転職後も交友が続いている。

 織田は本社の役員を経て、関連会社では大きな上場企業の社長を務めて今年に入って引退したばかりだ。今では読書三昧の毎日を送っている。

 塚堀は織田を含めた同年入社の友人たちに”アメリカ事情”と題した小文を定期的に配信している。新聞やテレビが報道しないローカルの話題を伝えるこの小文は好評で始めてから十数年になる。

 織田がそのアメリカ事情へのコメントと共に、長男の織田伸介の来米を伝えてきた。欧州へ出張中の伸介が帰途に米国に立ち寄るので、その際にケンタッキーまで足を延ばすのでよろしくとある。日本からの訪問者は滅多にいない。塚堀は伸介と面識はなかったが大歓迎だとメールを送り返した。

 織田伸介は経済学部を首席で卒業した一郎自慢の息子だ。公務員試験の成績がトップだったことから、法学部出身者の多い大蔵省でも出世頭で、いずれ次官になるのではと囁かれるほどであった。大蔵省時代にはハーバードの経営大学院に留学している。

 ところが、二〇〇一年に大蔵省が金融部門を切り離して財務省に改編された際に、自ら志願して同時期に創設された少人数で構成される内閣府に移ってしまった。内閣府では創設時にそれぞれの省庁から課長クラスが二年間ほど出向する内規を定めていた。しかし、伸介は出向ではなく移籍であって内規とは別の人事異動であった。

 移籍の理由にはいろいろと取り沙汰された。高齢化社会に突入した日本経済は、それまでの大蔵官僚による財政や金融政策だけでは対処できず、政府が総合的に政策を策定しなければならない切実な事態に陥っているからだろう、あるいは、かっての厚生省や労働省にトップクラスの人材を配さなかった公務員制度のつけを払わされたのだとも囁かれた。

 伸介はスエーデンで開かれているコンピューター・セキュリティー対策の国際会議に政府代表団の一員として出席中、と一郎のメールにあった。会議後にワシントンの駐米大使館を訪問する日程になっているが、そのワシントンからの帰途に急遽ケンタッキーに立ち寄りたい、との伸介の希望であった。夕刻の便でシカゴ経由西海岸に移動し、翌日の成田行きのフライトを利用するスケジュールで、ルイビル滞在は数時間しかない。


 ルイビル空港で出迎えた伸介にはどこか一郎の面影が漂っていた。

 「塚堀大佐殿、はじめまして、織田伸介です。よろしくお願いします」

 「大佐は抜きにしてください。大仰過ぎます」

 「大佐を付け加えるのを忘れないように、民間人では最高位なのだから、と父に念を押されましてね」

 思わず噴出しそうになった塚堀が、「それは十九世紀のことですよ。もっとも、ケンタッキー・フライド・チキンのカーネル・サンダースと同格になりましたがね」

 「今回は突然のお願いで申し訳ありませんでした」

 「お忙しそうですね。私の事務所でお話をうかがいましょう」

 駐車場から塚堀の事務所に向かう車中で伸介が伝える訪問目的に塚堀は驚くことになる。

 「スエーデンでの国際会議出席は煙幕でしてね。出張目的はスコットランドのエディンバラで秘かに開かれた会議に出席することでした。先進主要国のウイルスやハッキング対策の責任者が集って最近の情報を交換する会議でして、会場だったエディンバラ郊外の古城には三十人ほどが集りました。脛に傷を持つロシアと中国は出席を辞退してきました」

 伸介によれば、出席者の身分を隠すためにコード番号が使われ、出席者の出身国と数名の講演者の名が記された一枚の紙が配られただけであった。解説にはスライドが使用され、録音だけでなくメモを取ることも禁じられ、資料の配布もないほど厳重な機密保持が施された会議であった。


 駐車場から事務所に向かう。納税シーズンが過ぎ去ったこの時期には、塚堀の事務所では事務員は週に三日間だけ出勤していて、この日は事務員が休みの日だった。伸介を案内した塚堀がコーヒーの紙コップを伸介の前に置いた。

 「塚堀さん、今回はあるお願いがあってお邪魔しました。そのお願いをお伝えする前に背景を説明して置きます」

 威儀を正した伸介が、「私は表向きは経済官僚を名乗っていますが、実はそれだけでなく、政府の諜報部門の統括にも当っています。平たい表現を使えばスパイの元締めということになりますね」

 驚くことが続く。

 「お父さんから今までにそのことをうかがったことはありませんね。お父上がご承知のこと?」

 「父には伝えていません。すべての役職から退任した父ですが、ご存知の通り付き合いが広範囲ですので、どこで漏れるかもしれませんので」

 「それでいつから兼務しているのですか?」

 「内閣府への移籍が私の希望だったことは間違いないのですが、別に政府内の事情もありました。東京にある主要国の大使館はどこもスパイの巣窟ですが、最近は母国からインターネットを利用して日本国民や団体に直接働きかける動きが出ています。米国でも大統領選挙がネット上の細工で影響を受けたという報道がありましたね。それにウイルスが氾濫してデータがハッキングされる時代になり、国のデータが改竄されたり盗まれるリスクがあります。警察庁や防衛省に置かれた公安部だけでは手に負えないことから、国として総合的な対策を講じよ、という方針が出ましてね。偶々、インターネットに通じているからということで、私にお鉢が回ってきたというわけです。IT関連は政府内も人材不足でしてね」

 自嘲気味の伸介だが、将来の次官級をスパイ組織の親分に回さざるを得ない国の事情が出ている。

 伸介が続ける。「当所は国のデータの防御が主目的でしたが、あらゆるモノがネットにつながるIoTが急速に普及したために、そちらをサイバー攻撃から守るための体制整備も課題になっています。世界のIoT機器は近く三百億個に達するといわれています。日本だけでも一日平均二千件もの攻撃と見られるアクセスがありますので、テロ集団によって攻撃された家電や防犯カメラが、鉄道の信号系統や救急病院の医療機器を一斉に停める、あるいは金融界の決裁事務が全土で同時に中断されるような事態に陥る可能性があります」IoT対策は米国でも議論されている。

 「それに加えて、大企業のセキュリティー対策が強化されつつあることから、対策が手薄な中小企業がハッキングに狙われる例が報告されています。大企業への納入業者やサービス提供業者を攻撃して、数珠つなぎに大手企業のデータベースに入り込む迂回作戦ですね。これからは中小企業も対策を講じないとビジネス機会が閉ざされる可能性があります。この対策も課題です」

 ところで、と伸介が話題を転じる。

 「本格的にインターネットの実態や可能性を調べ始めると、この世界の奥の深さに驚きましたね。通常の市民が利用しているインターネットはウェブ全体の一割に過ぎないのですよ。九割はいわゆるダークウェブと呼ばれる、麻薬の取引や人身売買、高額の手数料が目的の難民の仲介、あるいは機密情報を盗んで暴露するハッカーたちが暗躍する地下の世界で利用されています」タチアナから聞いた通りだ。

 「日米の大手企業が保有する顧客情報がリークされるのは、このような世界で高額で売買されるからです。これは民間企業に限られたことではなく、先日には米国の外交機密情報が暴露される事件が起きましたね」

 「伸介さん、各国政府がその対策に躍起となるのは当然ですね。それに、高速インターネットが今以上に普及すると、ダークウェブも大量のデータを瞬時に取り交わすでしょうから、より高度の対策が必要になりますね。私企業で対応可能なレベルを超えてしまうでしょう」

 「その通りです。インターネットの高速化は経済や社会の発展に大いに寄与することで政府も積極的に取組む必要があります。そうしないと他国の後塵を拝することになりますからね。ところが、日本はこのようなソフトの分野では後進国で、例えば、国の統計に関与する日本の職員数が二千人に対して、米国には一万三千人もいて、英国でさえの日本の倍です。国力の指標となるGDP統計でもこれですから、他は推して知るべしですね。しかも、今後のセキュリティー対策のコストはうなぎのぼりで、赤字財政下の日本にとっては新たな頭痛の種です」

 それもあるのですが、実はもっと差し迫った理由があって会議が持たれました、といって伸介が語った差し迫った理由とはこのような事情であった。

 インターネットの進歩でダークウェブが急成長する一方で、ホワイトウェブなる活動も注目を浴びつつある。このホワイトウェブは難民救済や女性の人権拡大を訴えるもの、あるいは独裁政権の転覆を企てる反政府グループや民主化運動家などによる発信で、匿名による発信や発信源を隠蔽する地下インターネットの利点を活用している。ウイルスを利用して数次の感染を繰り返すことによって、主張を不特定多数の大衆に届けることが可能だ。また、敵対する公的機関をハッキングすることによって機密情報を手に入れることも活動には含まれる(これもタチアナから聞いた通りだ、と塚堀が頷く)。

 ホワイトハッカーたちの多くは、それまではダークウェブを悪用して世間をかく乱してきた者たちだ。当局に検挙されて処罰と引き換えに転身に応じた者や、宗教の感化や身内の不幸から義侠心を抱いた者など様々だ。

 各国の政府はそれらのホワイトウェブを裏で支援しながら、国政に都合のよい状況を作り出す工作を繰り返している。日本もその例外ではなく、伸介はこの分野の元締め的存在なのだ。

 「申し上げたことがこれまでの地下インターネットと政府の関係です。ところが、ホワイトウェブを支援したり裏から操作するのではなく、政府がホワイトウェブを自ら運用したらどうか、という新たな動きがあります。三権分立が基本の先進国ですが、どこも有権者の政治離れや極端なポピュリズムの台頭で議会が空転する傾向にあります。議会を飛び越えた政治はあるべき姿ではありませんが、国の将来を左右する政策の投入が、議会内の駆け引きや些細な不祥事に端を発した政争で頓挫したまま長期間経過する事態も起きかねません。政府としては国民のために補完的な非常手段を備えて置くべき段階にいたっています」

 伸介の解説は塚堀にとっても頷けることであった。日本では国有地の払い下げにまつわる高級官僚が絡んだスキャンダル騒ぎで国会が空転した。米国でも議会が国民の大意を代弁せず、それがポピュリズムの台頭を招いて、近い将来にとんでもない人物を大統領に選出してしまうリスクが議論されている。

 「それで会議の結果はどうでしたか?」

 「まだ実際に政府が運営する地下ウェブは存在しないようです。なにせ会議の目的が目的ですから、出席者の出身国は明らかにされていましたが、氏名や職位は伏せたままでしたので、確たる情報を手に入れることはできませんでした。参加者には先日までダークウェブで暗躍した者も混じり、いつまた変心するか皆が疑心暗鬼ですから当然の措置ですね。会議場がスコットランドの人里離れた古城の中で、参加者はひと癖もふた癖もあるスパイ連中ですから、まるで中世の面を着けた仮装舞踏会の再現でしたよ」

 さて、と伸介が訪問目的の核心に迫る。

 「講演者は身分が明らかにされていまして、そのひとりは塚堀さんも面識をお持ちのブライアン・ジョーンズでした。ジョーンズはご存知のように高速インターネットの最先端を走る男ですから、講演内容は最新の高速化技術の開発状況でした。伝達速度を左右するグラスファイバーの改良が進み、次々世代の毎秒十ギガビットの開発は目前とのことでした。ジョーンズの名は承知していましたが、それまでに面識はなく、講演後に秘かに身分を明らかにして会話を持つことができました。その会話でジョーンズから意外な人物の名が告げられて驚きました。ナターシャこと、タチアナ・イワノバです」塚堀にとっても驚きだ。

 「父から転送される塚堀さんの”アメリカ事情”をとっさに思い浮かべました。数年前にシリコンバレーのジョーンズを訪ねた際に元KGBスパイのイワノバさんとごいっしょだったとありましたね」

 超多忙の官僚である伸介が目を通していることが嬉しかった。

 「ジョーンズによれば、水面下で最も注目されているホワイトハッカーはイワノバさんだろうということでした。ジョーンズはここ数年接触を続けており、新高速インターネットの実用化試験ではその効果を見極めるためにイワノバさんと組むことになりそうだともいっていました。地下のインターネットを活用するための知恵を得るには最適の人物で、まだ接触がないのなら日本政府も試みるべきであろうと薦められましてね。そこで塚堀さんに仲介の労をお願いしたくて、突然のお邪魔と成った次第です」

 タチアナとは直接接触できない塚堀にとっては、スーザンの介在が不可欠だ。塚堀が温めてきた秘かな構想は、日本政府も巻き込む大掛かりなものになるのかもしれない。

 「伸介さん、私とタチアナの関係は小文に記した通りですが、実は機密保持のためにタチアナとは直接コンタクトせず、ある友人を介して連絡を取っています」机の上の写真を指差しながら、「スーザン・トンプソンという名のNPOに勤める米人女性です」

 「そうだったのですか」伸介が大きく頷く。

 「それで腑に落ちます。ワシントンからルイビルへの直行便がないために昨夜はマンハッタンに泊まりました。秘密会議で隣り合わせだったポーランドの男と親しくなりましてね。この男は米国をベースに諜報活動をしていて、ポーランド系が多く住むニューヨークとシカゴに拠点を持っています。昨夜はその男の招きでマンハッタンの南端に近い東欧料理のオデッサというレストランで夕食をいっしょしました。数年前まではイワノバさんがそのレストラにしばしば姿を見せたそうです」

 あのレストラン・オデッサだ。世間とは狭いとはこのことか、と驚く塚堀であった。

 「そのポーランド人がいうには、そこに集うスパイ仲間の間では、イワノバさんがこの数年ですっかり変身したともっぱらの噂だそうです。元々反ロシア工作の闘士で知られたイワノバさんに、ウクライナ以外の中東や北アフリカでの女権や人権拡大を訴える発信が多くなり、しかもその文が読む者を感動させる素晴らしいものだそうです。エチオピアとソマリアに挟まれたソマリランドという小国があります。国際的には認知されていないその国の高校生たちが、最近になってハーバード大やプリンストン大に入学を許されたそうです。これもイワノバさんの積極的な働きかけがあった結果だそうなんです。ただ、英語を駆使するイワノバさんでも、あのような凝ったメールの文章は無理だろう、だれかゴースト・ライターか共同執筆者がいるに違いない、とミステリーが続いているとのことでした。この写真の方ではないですか?」

 塚堀にも間違いないと思われた。塚堀が期待する構想がすでに効果を生んでいるのだ。壁の時計は三時を指していた。

 「多分当っているでしょうね。私にも思い当たる節があります。伸介さん、スーザンをお引き合わせしましょう。まだ事務所にいるでしょうから電話を入れましょう」塚堀が卓上の電話をスピーカー・フォーンに切り替えてボタンを押す。

 間もなくスーザンの声が届いた。「ジム、どうしたの? きょうは金曜日だから、間もなくここを発ってそちらに向かおうとしていたのよ」

 「スー、実はここに昔からの友人の息子さんがいらっしゃる。夕刻の便でシカゴに向かうので君を待てないのだが、電話で挨拶を交わして置いたらと電話したんだ。詳しいことは後で話す。息子さんのシンスケ・オダさんだ」

 「トンプソンさん、突然の電話をお許しください。トンプソンさんにお願いしたいことが出てきました。事情は塚堀さんから後刻お聞きください」

 「ミスター・オダ、はじめまして。今回はお目にかかれず残念ですが、次回を楽しみにします」

 伸介が告げる要点だけを耳にしたスーザンが、無事日本にお帰りください、と電話を切った。

 

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