第19話 常識の転換
クリスマスが迫りケンタッキーにも初雪があった。ふたりはクリスマス風景を楽しむためにシカゴにいる。
ミシガン通りの両側には豆電球が灯された街路樹が続く。商社のシカゴ支店があった百階建てのビルの最上階にあるレストランがこの日の夕食の場だ。雪に煙るミシガン湖を見下ろす窓には、ウインディー・シティーの名にふさわしく、風に煽られた粉雪が下から上に向かって舞う。
スーザンが国富論をほぼ読み終えたそうだ。
「大学の授業では強調されなかったけど、スミスは労働が富の源泉と記しているわね」
「そうだ。スミスはファンドという語を使用しているが、国民が生活に必要とする物は労働によって生産される、労働はファンドだと唱えた」
「だから、書のタイトルにある”諸国民の富”を増やすということは、どれだけ多くの物が労働によって生み出されるか、ということね。社会を支配しているかのように振る舞う貴族や大商人ではなく、生産に励む労働者が上流階級を養っていることを、スミスは明らかにしたのよ。資本論のマルクスはスミスの考えを引き継いでいるわね」
塚堀が、「”見えざる手”が国富論のテーマのように評されているが、国富論の貢献は、生産物を生む労働こそが経済の基盤であり、労働者が主役であることを説いたことにあるんだ」
「その生産物の増大を実現するには分業が効果を発揮し、その分業を最も効率的に運用するには、第三者が余計な介入をするのではなく、各個人が自己の利益を追求することによって分業は機能するとして”見えざる手”を持ち出したに過ぎないのね」
スーザンはスミスの著作の意図を正しく解している。
「本来の経済の目的は多くの国民に富をもたらすことにあった。経済学はそれを実現し得る社会の仕組みを明らかにする学問だったはずだ。スミスやマルクスの念頭には、その本来あるべき経済と現状との違いを見比べて、どのようにして本来の姿にすべきかを明らかにしようとする意図があった。十九世紀の英国の経済学者アルフレッド・マーシャルは”ウォーム・ハートとクール・ヘッド”という言葉を残している。ところが、二十世紀に入ると、経済の目的は企業利益の維持・拡大であるとして、ウォーム・ハートは忘れられて企業人が経済学の主役になってしまったのだ」
「あなたに薦められたもうひとつの経済書のケインズの一般理論。難解で読み終えていないけど、ケインズは墓堀も就業機会をもたらして景気の回復には効果があると説いているわ」
「大量失業に見舞われた大恐慌時代には、有効需要の創出を説くケインズ経済学は貢献した。しかし、今のように完全雇用にありながら低成長から抜き出せない経済を説明できない」
「政府の介入が功を奏することがないから、政府の介入を避け、規制を排除して人の自由な経済活動に任せるならば、”見えざる手”が働いて最も効率的な経済が実現する、という経済学説を生んでしまったのね」
「そのような学説が説く最も効率的な経済の下で、一般社員の実質給与は引き下げられる一方なのに、経営者は数百万ドルもの年収を手にする。インターネットが告げる調査結果を見れば、このような経営者は天文学的な高給を手にしながら、はるかに少ない年収の者とさほど違わない幸福感を味わっていることになるね」
「金額が大き過ぎて感覚が麻痺するからか、あるいは金儲け主義に染まって前後の見境を失うからなのか。この異常な感覚を矯正すれば、度外れな高給取りは姿を消すわね。人件費はコスト、という常識を覆し、人間の尊厳を維持するには現行の最低賃金は意味をなさない、という意識を共有すべきなのよ」
スーザンは常識を覆すことで社会を変えるべきだ、と思い始めていた。そして、それは資本主義経済の根底を支える常識を転換する革命でもあることに気付き始めていた。
スーザンの企画した預金制度が実施されて五年ほどになる。参加者の数や預金額の成果は事前の予想を超えるもので、地元の住民から高い評価を得ている。スーザンの案内で塚堀が訪れた製材工場に勤める女性は、この間に三千ドル近い預金をして地元の週刊新聞に大きく取り上げられた。高校卒の資格を得て昇給があったことも預金増に寄与したのだ。スーザンが嬉しそうにその記事を見せてくれた。
その時に同時に立ち寄ったコンビニを兼ねたガソリンスタンドを経営する夫婦は、前年に念願の米国小企業庁の融資を受けることに成功し、調理器などの買い替えができたそうだ。これもローンの条件を満たす頭金を貯めていたからであった。
近くの日本企業を訪れた塚堀は帰途にNPOに立ち寄ってみた。スーザンは所用で不在だったが、シェリルが個室から手招きをする。
「久しぶりですね。あなたのことはスーザンからつぶさに聞いていますのよ。今は経済学の大書を読み終えるように宿題をもらっているとか」
「そんなことまでご存知ですか。ところで、預金制度が順調なことをスーザンから耳にしています。州政府の反応はどうですか?」
「それはそれは高い評価で、企画書の承認に力を貸してくれた同窓の上院議員も鼻高々と喜んでいます。いつもは議論が対立するのに、この件ではまるで同志よ。危惧していたペイデー・ローン業界からの横槍は見当たらないわ。議員立法によって金利率の上限がもうけられ、暴利を稼ぐ旨味が失せたからか、店舗を閉鎖した業者がいますのよ」
「不動産市場がバブル化するのではと心配されるほど活況ですね。サブプライムとか呼ばれる超低利の住宅ローンが出回っていますが」
「過熱して低所得層が被害をこうむるのではと少々気になりますわ」
ところで、と「プロ・スポーツの世界も過熱気味だわ。州立大学の同窓会でバスケット部の監督と立ち話をしたの。今年の卒業生にドラフト上位でプロ・チームに引き抜かれた選手がいるんだけど、その契約金と初年度の年棒が合わせて一千万ドルだそうよ。二十歳過ぎの若者がそんな大金を手にしてなにをするのかしらね。世の中が狂っているとしかいえないわ」
邦貨に換算すると十億円を超える額だ。シェリルでなくとも思いは同じだ。
「その監督の添え状を持ってチームにNPOへの寄付をお願いしに出向いたの。でも、そんな余裕はない、とケンモホロロの返答だったわ」
そこまで語ったシェリルが、ドアーの先に見えるスーザンの席を指差して、
「あそこの壁にスーザンが飾っている仮面ですけど、最近のスーザンの容貌があの仮面のように、アイリッシュの妖精ではないかと思われるほど艶やかなのにお気付きですか?」
シェリルに指摘されるまでもなく、それは塚堀も感じていることであった。最初の一夜で豹変したスーザンは、交わりを重ねるたびに艶麗さを増し、時には妖しい艶やかさが女体からほとばしることに驚かされることがある。
「それに元々芯の強い女性ですが、なにか悟ることがあるのか、近寄り難い雰囲気を感じる時がありますわ」
経済に対する理解が週を重ねるごとに深まるだけでなく、タチアナとのメールの往復があるからか、スーザンが国際政治にも鋭い見方を披歴して塚堀を驚かすことも珍しくなくなった。職場のスーザンが以前とは異なる雰囲気を醸し出していても不思議ではない。
「預金制度が失業中の住民には手助けにならないことをスーザンは気にかけているようです。それに、困窮者が増え続けるのは経済の仕組みに欠陥があり、仕組みを変えなければ困窮者の撲滅は不可能だ、と発言することが多くなったわ。これもあなたとのお付き合いを始めてからのことよ。もう少し若ければ私もいっしょに考えることができるのに。あの人の関心はNPOの枠を越えてしまい、遠くに行ってしまうのでは、と心配ですのよ」
「スーが遠くに行ってしまう、か」
同じ職場を共にするシェリルは、塚堀が思いついた秘かな構想の存在を鋭く嗅ぎ取っているに違いない。シェリルのことばを繰り返す塚堀に、
「あら、失礼。日頃思っていましたのでつい立ち入ったことを申し上げました。スーザンには黙っていてくださいね」
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