第17話 資本論の前に簿記を

 給与とはなにか? なにを基準にして決められるものか?

 米国におけるその当時の最低賃金は時給七ドル二十五セントで、年収に換算するとおよそ一万五千ドルだ。邦貨では百六十万円ほどに過ぎない。

 これがハンバーグ店でレジに立つ男女の給与である。ところがウォールストリートに本社を構える投資銀行の幹部社員は数百万ドル、時には数千万ドルの報酬を手にする。

 一方は義務教育の高校を卒業しただけ、あるいは修了もせずに退学してしまった者たち。他方は多くが経営大学院を出た者たちで、その学歴の違いは歴然としている。しかし、その違いが数百倍や数千倍もの所得差を生むのだろうか?

 コーナー・オフィスに机を構えて億単位の金を動かすことが、客からオーダーを取り代金と引き換えにハンバーグを手渡す者の数百年分の年収に匹敵する仕事なのだろうか?

 スーザンが受講した学生時代の経済学のクラスでは、アダム・スミスが唱えた”見えざる手”に任せれば、経済は最も効率よく運営されるという教授の解説であった。

 報酬に差が生まれるのは、機会を活用すべく努力を惜しまない者と落ちこぼれ組の当然の結果に過ぎないとしていた。競争に勝った者が金メダルを手にし、敗れた者はなにも手にしないスポーツ界と同じ扱いをすべきだ、という考えだ。

 しかし、そもそも人類が経済という概念を編み出したのは、だれもが幸せな日々を送るためだったのではないか。経済とは民を救済するという意味を持つ語だ。動物社会からの飛躍を果たした人類は、弱肉強食社会からの脱皮を目指してきたはずだ。それなのに弱肉強食の結果である法外な所得格差を容認している。

 スーザンの疑問は尽きない。所得格差を話題に持ち出すと、塚堀は資本論では国富論では、と昔の古典を引き合いに出す。


 塚堀が引き合いに出す古典を読んでみようと決心したスーザンがそれを塚堀に告げた。それはよい考えだ、と笑顔を返す塚堀が、意外なものをスーザンに薦めた。

 「資本論や国富論を手にする前に、これを一読することを薦めるよ」

 塚堀は大学の会計学の講座で使用されている教科書を書棚から引き抜いた。塚堀が会計士試験の受験対策に利用したもので、中級とタイトルにある。これも役に立つかもしれないと、簿記の入門書もいっしょに手渡した。

 なぜ会計や簿記など、と訝るスーザンに、古典を理解する上でプラスになるはずだ、とだけ塚堀は告げた。

 それからの数週間、週末のアパートにはテーブルに会計の教科書を広げるスーザンの姿があった。そのスーザンのために塚堀は大きな白板を手に入れた。テーブルの傍に置いたその白板に、スーザンがしきりにT字の両側に数字を書いては消している。それを眺める塚堀が満足そうに微笑む。


 ケンタッキーの秋は黄金色や紅色の紅葉でどこもが満たされる。土曜日の午後を紅葉が真っ盛りの公園で過ごしたふたりがアパートにもどった。白板にスーザンが書き残したT字の仕訳を見ながら塚堀が、

 「会計の教科書を終えた感想は?」

 「ためになったわ。大学の選択科目に会計の講座もあったのだけど、経理の職場に就職することはなさそうだったので選択しなかったの。悔やまれるわ。それに、簿記を知ると会計の教科書が一層おもしろくなるわね」

 「それはよかった。簿記がすべてだからね」

 「ベニスの商人たちが複式簿記を活用したのね。簿記は人類の発明としても最上のひとつだわ。この世界はなにごともプラスとマイナスがバランスするという簿記の原則を学ぶと人生観や世界観も変わるわね。授業の案内書にそうとあれば選択したのに」

 君の理解を確かめよう、と白板に向かった塚堀が、

 「文房具を売る株式会社があったとしよう。一月一日にオーナーが三百ドルの現金を投じてこの会社を設立した。会社に三百ドルの現金が振り込まれる」

 現金が増えるから簿記のルールではT字の帳簿の左側に三百ドル、と白板に書き込む。「この時の右側は?」

 「設立時の資本金が三百ドル」とスーザンが書き加える。

 「これで左右がバランスするわ」

 「先ず、五百ドルの文房具を問屋から買ったとする。資産の在庫としてT字の左側に五百ドル」と記入して、「右側は?」

 「現金は三百ドルしかないから、掛け買いかローンが必要になるわね」

 「百ドルの現金を残して二百ドルの現金を払い、一ヵ月後に支払う条件で百ドルを掛けで買い、残りの二百ドルは銀行ローンを組んだとする」

 「すると、T字の右側は、二百ドルの現金、百ドルの買掛金、二百ドルのローンとなるわね。これで左右がバランスしている」

 「そうだ。次に、ひとりいる従業員に百ドルの給与を現金で支給したとする。現金が減るから」と、別のT字の右側に百ドルを記入する。「左側は?」

 「百ドルの人件費が計上されるわ。これまでの三つのT字を合わせると、この会社は左側には三百ドルの現金、五百ドルの在庫と百ドルの人件費が、右側には三百ドルの資本金、二百ドルの現金、百ドルの買掛金、二百ドルの銀行ローン、そして百ドルの現金が記載され、左右がバランスしているわね」

 「年末までにこの在庫から二百ドル分を二百七十ドルで売ることができたとする。差の七十ドルがマークアップ分で期待粗利益だ。二百七十ドルの売上金のうち、百ドルを現金で受け取り、残りの百七十ドルを掛売りしたとする。この時のT字は?」

 「現金が百ドル増えるから左側に現金百ドル、売掛金という資産が発生したので百七十ドルの売掛金を同じように左側に記入する。合計は二百七十ドルになるわ」

 「二百七十ドルのセールスは、簿記のルールではT字の右側に売上として計上する。セールスをマイナス表示するのが複式簿記のミソだね」

 「これで左右がバランスするわ」

 白板に向かって立つスーザンはジーンズ姿だ。腰の位置が高いからかよく似合う。臀部の分かれ目が深く切れ上がり尻の肉が張り出した後姿はアーリア人種に見かける特徴だ。”小股の切れ上がった女”という表現が思い起こされる。かなり以前の某雑誌に掲載された小文によれば、この日本人女性の小股がなにを指すのかには諸説があって定かではないそうだが、塚堀にはスーザンの後姿にぴったりの表現に思われる。

 

 「さて、資産の在庫が二百ドル減少したから、T字の右側に在庫二百ドルと記入する。この時の左側は?」

 「売った商品のコストだわね」

 これまでのいくつかのT字を指差した塚堀が、

 「このすべてのT字の左右に現われた同じアイテムを相殺すると?」

 スーザンが白板の上で左右を見比べながら、左側は、人件費百、現金百、売掛金百七十、在庫三百、原価が二百で、合計八百七十ドル。右側は買掛金百、ローン二百、セールス二百七十、資本金が三百で合計八百七十ドル、とまとめて、

 「これで左右がバランスしている」

 「その通りだね。ところで、会社のバランスシートに掲載されるアイテムはなんだった?」 

 「右側の資産の部は、現金、すぐに現金化される売掛金や短期の貸付金、在庫、その次に設備や建屋などの動産や不動産、そしてパテントやコピーライトなどの無形資産。左側の負債の部は、買掛金、短期・長期の借入金やその他の負債だわ」

 「それではこの文房具販売会社のバランスシートに記載するものだけを集めると」

 「現金が百、売掛金百七十、在庫が三百で、左側の合計が五百七十ドル。右側は買掛金百、ローン二百、資本金三百で、合計は六百ドルで、右側が三十ドル多くて左右はバランスしていないわ」

 続けてスーザンが、バランスシートに記載しないものは、といいながら、「左側は人件費が百、原価が二百で計三百ドル。右はセールスの二百七十ドルで、こちらも左側が三十ドル多くてバランスしていないわ」

 「この差額の三十ドルは、百ドルの人件費と七十ドルの販売利益との差額に等しい。経費が利益を上回ったこの会社は、一年後に三十ドルの損を計上したことになるね。年末のバランスシートは?」

 「現金が百、売掛金が百七十、在庫が三百で、左側の資産の合計は五百七十ドル。右側は買掛金百、ローン二百、資本金三百、資本の部のマイナス分が三十で合計五百七十ドル。これで左右がバランスしている」

 一ヶ月ほどの間に会計や簿記の基礎をマスターしたスーザンに感心する塚堀であった。


 「この白板の例は単純化した例だが、巨大なグローバル企業であっても同じだ。簿記が先に存在して経済が生まれたのではなく、簿記や会計は経済活動を説明する道具に過ぎない。商業資本しかなかったベニスの商人時代も、産業革命を経て産業資本が誕生した現代の経済でも通用するのが複式簿記の優れた点だね」

 「簿記を学ぶと、会社の実力を示すバランスシートに計上する項目には社員は含まれないことを知るわね。会計処理では、左に人件費が、右側に現金の減少が記録されるけど、この人件費はバランスシートには現われないわ」

 塚堀は嬉しかった。これこそが資本論や国富論に先立ってスーザンの理解を得たい核心だったからだ。

 「その通りだ。それが資本主義経済の仕組みを理解する際の鍵になる。社員は資産としては認識されていない。それが資本主義経済なのだ」

 「従業員の人身売買はないから、社員を資産に計上することもないのね」

 「だから、市場で売買されていた奴隷はプランテーション主の財産として扱われていた。奴隷解放とは、人格の備わった肉体を資産として売買することから、形のない労働力という商品の売買に変えたことを意味するね。人権を認めた奴隷解放は、皮肉なことに、企業の資産としては価値を持たない労働者を生んだことになるのだ」

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