第16話 マンハッタン

 金曜日の夕刻にアパートに着いたスーザンがいつも以上に浮き浮きとしている。なにがあったのかと問うと、

 「ターニャが来月ニューヨークに来るの。フェイスブックにナターシャがニューヨーク訪問とあったのよ」

 スーザンは以前にワシントンで暮らしていた時にマンハッタンを訪れたことがあるが、それは十年以上も前のことでそれ以降は機会に恵まれずにいた。塚堀もスーザンとのニューヨーク観光を、と思いながら実現していなかった。好調な預金制度のお祝いを兼ねてタチアナにまた会うことができる。

 マンハッタンのミドルタウンにあるホテルを予約した。ロックフェラー・センターやティファニーには歩いて行ける距離だ。昼前にホテルにスーツケースを預けたふたりは、近くでランチを済ませてからセントラルパークに向かった。

 広大なセントラルパークにはジョギングやサイクリングを楽しむことができる道路が公園内を一周している。塚堀が通信機メーカーに在勤中に住んだ八十二丁目のアパートから真西に歩くと五番街に沿ったセントラルパークにぶつかった。週末には自転車を持ち込んで楽しんだものだ。

 ふたりは指定された場所を目指した。映画のシーンでお馴染みの公園内の遊歩道路には肩を抱き合って歩むカップルたちの姿がある。

 タチアナはいつもの通り、マンハッタンでは北西端に近い百丁目の近くに居候していた。その近辺には昔からロシア人が多く住む。身を隠すには好都合だ。

 やがて髪をなびかせながら近寄るタチアナの姿が見えてきた。髪を肩に落としている。待ち合わせたモスクワのメトロ駅での光景がそのまま再現したように思われた。その日はジーンズ姿だ。


 夕食はタチアナが手配したロシア料理店であった。個室が予約されていた。米国のロシア料理店の多くはボルシチや肉料理のビーフ・ストロガノフを米人の舌に合わせて手を加えているが、出された料理はその昔に塚堀が駐在事務所の昼食で味わった素朴な味そのものだった。

 タチアナは今回もハッカーたちの集会に参加するのがニューヨーク訪問の目的であった。反ロシア工作に当るタチアナは潤沢な資金を投入するロシア政府を相手にしている。先端技術の情報をロシアに先立って取り込むことが常に課題となっている。

 タチアナはシリコンバレーで耳にした情報が気になっていた。超高速インターネットが普及するとロシアもその恩恵を享受することになる。高速だけでなく同時に多数の端末を接続することが可能となる次々世代の実験段階で、ロシアの出鼻をくじくにはジョーンズと手を結ぶことが不可欠だ。ジョーンズが南半球の過疎地で新技術を試験するという開発技術者のことばも脳裏に焼きついていた。

 表の世界で名が広く知られた塚堀を巻き込むことはできない。ジョーンズの計画にもぐりこむにはスーザンの介在が必須だ。幸い、その後にスーザンを経由した感触では、ジョーンズの姿勢も柔軟性を帯びている。もう一歩を進めることをスーザンと確認することが訪問目的のひとつだった。

 それにスーザンが他人を説得する抜きん出た表現力の持主であることもこれまでのメールの交換で知った。タチアナにはとても真似ができない能力である。タチアナたちの活動はウクライナ内だけでなく、アラブ圏や北アフリカでの女性解放や人権擁護を目指す活動に広がっていた。スーザンの参画は大きな戦力となる。このこともじかに会って打診して置きたかったのだ。

 一方のスーザンもタチアナから聞いたアラブの春の例に深い感銘を受けていた。権力を独り占めする独裁者を追放するほど大衆の力を引き出すことができる。インターネットの威力だ。インターネットを利用して多数の市民に訴えることによって、善意や正義感を呼び起こすことが可能になれば、恵まれない層への支援はNPOの枠を越えて広げることができる。送るべきメッセージを書き上げる自信はあった。それをスーザンの知る世界の外にも送りつけるには、その道のプロの知恵が必要だ。インターネットの裏の世界にも通じたタチアナの協力を得ることが大前提になる。

 ふたりの思惑が交差する会食となった。


 翌日はタチアナは会合に出席したので、塚堀はスーザンを伴って自由の女神像の見物に出かけた。マンハッタンの南端からフェリーで女神像が立つ島に渡る。フェリーの二階のデッキからはマンハッタンが一望できた。

 自由の女神像は独立百周年を記念してフランスから寄贈された。女流詩人のエマ・ラザラスの詩がその土台に刻まれている。

 この十四行詩の最後の五行に、黄金の扉に向かって女神が輝くトーチを掲げるとある。身の回りの物だけを抱えながら、荒波の航海を乗りきって自由を求めて新大陸にたどり着いた移住者たちにとって、この詩は大きな慰めとなった。そのため、女神像は当初の目的だった独立記念碑だけでなく、アメリカの玄関でトーチを掲げて移住者を歓迎するアメリカン・ドリームの象徴となった。

 スーザンは思う。この国はアメリカン・ドリームを実現する機会を提供してきた。ところが二十世紀後半に顕著になったことは、アメリカン・ドリームを手にできない多くの国民が出現し、しかも毎年その数が増える一方なのだ。ラザラスの詩が心に焼きついた。


 翌日キエフに帰るタチアナはウォールストリートに近い東欧食のレストランでふたりを待っていた。このオデッサという名のレストランはどうも東欧のハッカーたちが出入りする場のようだ。ケンタッキーでは目にすることのない人相風体の男女たちで占められている。タチアナは常客らしくそれらの男女から話しかけられていた。

 デザートを待つ間にタチアナがスーザンに紙片を手渡した。一瞥したスーザンがありがとうと微笑む。紙片にはダークウェブの某サイトのアドレスとパス・ワードが記載されていた。このサイトは通常の手段では閲覧することができない。特殊な技術を使用したパス・ワードが必要なのだ。

 ふたりのやり取りを眺める塚堀は、秘めた構想がいよいよ現実のものになる転機が訪れたことを悟った。


 タクシーを利用してタチアナが滞在する百丁目を目指した。少々迂回するが、と運転手に頼んで、グランドセントラル駅から曲がって二番街を通ってもらった。あの画廊がどうなったのか気になっていたからだ。

 その画廊はイタリアン・レストランに衣替えになっていた。スーザンを真ん中にタチアナと後部座席に座るシーンを、あの油絵を手に入れた時に想像し得たであろうか。

 タチアナは今回のニューヨーク訪問で塚堀の分身ともいえるスーザンとの接触ルートを確かなものにすることができた。ジョーンズからの最先端の情報を知ることが可能になり、危険をおかして頻繁にマンハッタンを訪れる必要がなくなった。タクシーを降りたタチアナが、アツヒコと顔を合わせるのもこれが最後になった、これまでありがとう、と塚堀の耳元で囁いだ。懐かしい体臭が一瞬鼻先を過ぎった。

 忽然と現われ、今また突然姿を消してしまうタチアナ。その声が塚堀の耳に残り続けた。

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