第15話 シリコンバレー

 車がシリコンバレーに入った。著名なハイテク企業がそこここに点在する中を進んでブライアン・ジョーンズが社長を務める小奇麗な社屋に着いた。

 昼食を取りながら面談しましょうというジョーンズの誘いを受けていた三人は受付でその旨を伝える。

 しばらくしてジョーンズが現われた。年恰好は五十歳前後に見受けられる。日焼けした柔和な顔で、ようこそと皆と握手をして、昼食は屋外のテーブルに用意していると先に立った。

 フロアーを進むと大きなガラス戸の向こうに芝生が広がる中庭が見えてきた。カリフォルニアらしく屋外にもうけられたカフェテリアだ。ビュッフェ方式で好みの料理を皿に盛って日陰に置かれたテーブルに着いた。

 「スーザン、あなたがまだヨチヨチ歩きだった時代に会ったことがあるのですよ」とジョーンズがスーザンに語りかける。

 「母から聞きましたが、なにも覚えていません」

 「そうでしょうね。まだこれくらいでしたからね」といって腕をテーブルの高さにかざす。

 スーザンの母方の親戚がケンタッキーに集合した際のことで、ジョーンズは父親のお供で参加したそうだ。場所はレキシントン市の北にあるホース・パークで、白い柵越にサラブレッドの群を見たと懐かしそうにスーザンを見遣る。今はそのホース・パークのすぐ北側に日本を代表する自動車メーカーが巨大な組み立て工場を持っている、とスーザンがジョーンズに。

 ファミリー・リユニオンと呼ばれるこのような集まりは植民地時代からの伝統である。多くの大都会では廃れてしまったが、ケンタッキーのような地方では今でも引き継がれている。

 ジョーンズ一家は十九世紀に英国島の西部に位置するウェールズから米国に渡来した夫婦が初代であった。ウェールズは英王室では皇太子の領地で、皇太子はプリンス・オブ・ウェールズと呼ばれる。ウェールズ人たちは団結した行動を好むとされ、北米だけでなく豪州やニュージーランドにも住み、一部は南米にも集落をもうけている。

 「そのあなたが今ではこんなに」とスーザンの顔をしげしげと見つめていたジョーンズが、こんどは塚堀に向かって、

 「会計士をされているそうですね。スーザンのお母さんからケンタッキー・カーネルだ、とうかがいました。外国人では珍しいでしょうね」

 「名簿を繰ると日本にも少数ですがいます。ニュースが母校の同窓誌に掲載されてお祝いのメールをもらいました」

 「会計士の前はグローバル企業の経営に携わっておられたとか」

 「実は短期間でしたが、カリフォルニアにも住んだことがあります。ロスの南のオレンジ郡でした。その後転々として全部で六州で暮らしましたが。カリフォルニアは気候が温暖で最も暮らしやすかったですね。物価が高いことが難点ですが」

 「それは昔からですね。それにつけても、今の景気は少々バブル気味です。このシリコンバレーでの不動産価格の高騰は驚くばかりですよ」


 「タチアナさん、シリコンバレーははじめてですか?」とジョーンズがタチアナに話しかける。

 ジョーンズはタチアナの身上書を手に入れていた。タチアナの訪問希望をCIAに伝えると、KGB時代から今のウクライナでの活動までが記された資料が送られてきた。資料には白黒の写真が十数葉挿入されていた。そこにはファイル番号が付された、メトロの駅頭で狐の毛皮の帽子をかぶった男と抱擁するタチアナや、雪が舞うアパートの窓越しに胸を露にしたタチアナが窓に背を向けた男を抱きかかえる写真も含まれていた。ソ連が崩壊した際のドサクサにまぎれて漏洩した昔のKGBファイルからだ。

 ウクライナをロシアから引き離すことが米国政府の狙いであり、反ロシア運動にかかわるタチアナ・イワノバとは利害が反しない。タチアナを抱き込む切っかけを探っていたCIAが望むところであり、歓迎ムードで対応するように。タチアナは口が固いことでは定評だが、CIAとの関係は伏せて置くように、と添え書きがあった。

 「ええ、はじめてです。あなたのお名前は以前から承知していました。直接お話をうかがえる貴重な機会です。訪問を受け入れていただいたことを大変嬉しく思います」

 「食事の後に開発部門の技術者を紹介します。ご遠慮なくお尋ねください」

 笑顔で感謝するタチアナもジョーンズのことを調べ上げていた。CIAからは資金援助だけでなく、新たなプロジェクトを共同で進めていることも察知していた。どうも世界に先んじた超高速ネットの構築のようである。


 昼食後は社長室でパワー・ポイントを使った会社の概要やこれまでの実績の説明を受けた。当然のことながらCIAの名はどこにも見当たらなかったが、随所にそれらしいプロジェクトが記載されたスライドを見るタチアナの目が鋭い。タチアナだけでなくスーザンがことのほか興味を示す。

 続いて開発部門の技術者が三人を前に解説してくれた。

 「ひとつの例ですが、米政府はテロ対策に人工知能を備えたロボットの投入を計画しています。ところが、ひとりのテロリストの顔を識別するためには、少なくとも五万枚の顔写真をインプットしなければなりません。テロを察知した現場にそのような膨大な画像を短時間に送りつけるためには、今以上の高速インターネット網が必要です」

 「ひとつ質問があります」タチアナが手を挙げた。

 「先日チャタヌガで一ギガビットを実際に体験しましたが、ニューヨークで聞きかじった情報では、次の世代は毎秒十ギガビットの高速になるそうですが?」

 「タチアナさんは地獄耳をお持ちですね。それを知る者はまだごく少数です。その通りですよ」

 「いつ頃の実用化が見込まれますか?」

 「その十ギガビットが弊社が開発中のもので、完成までにはいくつもの実験を必要とします。また標準化の作業がそれに先立ちますので、広く実用化されるのは先になるでしょうね」

 ロシアが利用できる前に先行して決定打を撃たねばならない。どのような手段が可能だろうか?

 「高速だけでなく他にも優れた点があるそうですが、どのようなものですか?」

 「タイムラグが千分の一秒以下ですので、距離が離れてもほとんど時間差がなくなりますね。僻地の災害で発生したけが人に遠隔から心臓手術の指示をすることなども可能になるでしょうね。それに、多数の接続が同時に可能になります。チャタヌガの百倍以上ですね」

 タチアナはこの多数の接続が可能になることに魅力を感じたようだ。同じようにスーザンも頷いている。

 塚堀が質問した。「チャタヌガは米国では最初の本格的な高速インターネットだそうですが、他の都市が同じような試みをしても不思議でないのに後続は少ないようですね。どうしてですか?」 

 「それは新たに必要な投資額をユーザーから徴収する低額のインターネット利用料ではカバーできないからです。米国では州政府から認可を受けた通信会社やケーブルTV会社などがネット網を保有していますので、民間の投資基準に左右されますね。弊社による次々世代ネットの実用化テスト地はそのような制限のない海外を検討しています」

 「海外というとどこが候補になりますか?」タチアナが興味深げに尋ねる。

 「紛争地帯や政情不安の地を避けると、北半球ではなく南半球になるでしょうね」

 「具体的にはどこが考えられますか?」 

 「機密保持のためには都会ではなく、人家がまばらな過疎地が好都合です。内陸部に荒地が広がる豪州や、アンデス山脈近辺が候補にあがると思われますが、この件はジョーンズ社長に当てがあるそうなので社長に任せています」

 席を外していたジョーンズがもどってきた。

 「毎日、世界中で数万件も発生するサイバー攻撃ですが、五時間ほど前にイタリアであらたなタイプの攻撃がありましてね。その追跡操作をしています。ご覧になりますか?」

 ぜひ、とタチアナが腰を浮かせる。

 社長の机のすぐ傍の扉を開けると、そこは軍隊の司令室のような壁一面がモニターで埋め尽くされた部屋だった。数人のオペレーターが忙しそうにキーボードを操作している。その都度、壁のモニターの画面が入れ替わる。

 「イタリアの地方銀行がサイバー攻撃を受けたと連絡が入り、いつものように顧客リストの流出かと追跡を始めたのですが、今回はその銀行の傘下にある仮装通貨を扱う業者が狙われたようです。小規模な扱い業者なのに一億ドル相当の資金を手元に保有していたそうで、その全額が引き落とされています」

 「どこのグループか特定できましたか?」タチアナが尋ねる。

 「操作を始めて一時間ほどになりますがまだです」

 タチアナが、空いているデスクを指差して、よいですか?とジョーンズに。

 どうぞ、と答えたジョーンズがパスワードをインプットすると机の上の二台のモニターが起動した。

 タチアナがブリーフケースから取り出したラップトップを開いてそのデータを左側のキーボードに叩き込む。すると、左側のモニターに塚堀やスーザンには見慣れないサーバーのアドレスらしきものが次々に現われた。ジョーンズと並ぶ技術者には思い当たるものが混じるのか頷いている。右側のモニターに現れる画像がそれに応じて変化する。やがて漢字が混じる画像が続くようになった。

 「これは日本語ですか?」ジョーンズが隣に立つ塚堀に尋ねる。

 「日本語ではなく中国語ですね」

 青い龍が映し出されて画面が静止した。

 振り返ったタチアナが、「攻撃はブルー・ドラゴンと呼ばれる中国のハッカー集団によるものですね。ご存知でしょうが、最近になって頻繁に出現するようになった新興のグループで、中国政府の国家安全保障委員会の息がかかっているといわれています」技術者がジョーンズの脇腹を突く。

 タチアナが、「一週間前に一度、ちょうど十時間前にももう一度、小額の引き落としを狙ったハッキングがブルー・ドラゴンの手で起きています。この銀行のセキュリティーの能力を試すもので、反応がなかったので五時間前に全額を奪取したのでしょうね。五時間も経っていますので、今頃は数百箇所に転送されていることでしょう。回収は不可能ですね」


 次々世代の光ファイバーのサンプルや、アップル社製らしい開発途上の小型の端末を見学して三時過ぎに三人は帰途に着いた。

 玄関で三人を見送るジョーンズに技術者が囁く。「先ほどCIAから連絡がありました。イワノバの指摘通りブルー・ドラゴンの仕業だそうです。CIAが一時間かかった追跡をあの女はものの二分でしたよ。社長、立案中のパタゴニア計画に最適の人物ですね」

 「俺も同じことを考えていた。CIAが注目するのももっともだ。敵にするようなことにでもなれば手に負えなくなる。スーザンには気を許しているようだからスーザンを介して抱き込もう」


 帰路も後部座席にタチアナと並んだスーザンが昼前のスパイ談義の続きをしていた。次々に浴びせるスーザンの質問に答えるタチアナは、この日の訪問で獲るところが多かったのか上機嫌だ。

 運転する塚堀がドキッとする会話もあった。

 「ターニャ、ジムのオフィスに大きな油絵があるのよ。そのことを聞いた?」

 「聞いたわよ。チャタヌガに向かう途中でアツヒコが白状したわ。私の裸を覚えていたそうなの。もし私の裸をアツヒコが知らなければ、今のあなたも私もいなかったことになるわね」

 その夕はサンフランシスコの中華街で中華を楽しんだ。紹興酒はスーザンには強過ぎたようだが、タチアナは盃を重ねていた。昔のモスクワにはペキンという名の中華料理店が一軒だけあった。塚堀はロシア料理を苦にしなかったが、日本からの出張者たちはこのロシア風の中華料理店を毎夕のように利用していた。タチアナも頻繁に付き合わされたものだ。

 時差の都合でタチアナは翌朝早朝のニューヨーク行きのフライトを予約していた。ホテルのロビーでスーザンを抱擁したタチアナが塚堀の握手を求めてきた。

 「またスーザンといっしょにぜひ会おう」という塚堀のことばにタチアナが大きく頷く。

 「ダ・スビダーニア!」サヨナラとふたりに手を振ってタチアナがエレベーターに消えた。


 スカートを脱ぎながらスーザンが、

 「ターニャは素敵な人だわ。あなたが恋したのが分かるわ」

 「それはよかった。また機会をもうけよう」

 「そうね」といったスーザンが、タチアナからフェイスブックのアカウントを教えてもらったと付け加えた。差し障りのない世間話であれば削除が容易なフェイスブックを利用できるそうだ。ただ、タチアナではなく名は”ナターシャ”を使い、塚堀を”あの人”と呼ぶことにしたという。

 後部座席の会話は耳に達していたはずだったが、こんなことまで話し合っていたのかと塚堀は驚いた。あの構想の実現に大きく近付いたことになる。

 スーザンの方が一歩早くスパイ稼業に片足を突っ込んでしまったね、というと、その通りよ、と悪戯っぽい微笑みが返ってきた。

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