第14話 サンフランシスコ
塚堀とスーザンが九月下旬のサンフランシスコ空港に降り立った。スーザンにとってははじめての西海岸である。片側が場所によっては五車線もあるハイウェー上を、米国ではコンバーティブルと呼ばれるオープンカーが走る光景に見とれている。
会計士協会の手で予約されていたダウンタウンのホテルにチェックインしたのは午後の早い時刻であった。夕食までに余裕があるので、レンタカーでゴールデン・ブリッジの見物に出かけることにした。
映画で目にする急坂を上ると、サンフランシスコ湾が車の背後に広がる。そこから西に坂を下る。やがて赤道色の長い吊り橋が行く手に見えてきた。
下を大型船が通過するのを目にしながら橋を渡りきると、塚堀は車を左手にある小高い丘の中腹にある駐車場に乗り入れた。丘の頂からは左に金門橋を、正面には太平洋を一望できる。日本に繋がるその海原をスーザンに見せたくてここに車を進めたのだったが、別の理由もあった。
その頂には大きなコンクリート製の砲台跡が残されている。日米戦争中に日本が米本土に攻撃をしかける恐れがあると、太平洋に向かって大砲を構えていたのだ。事実、米国が恐れたように、日本海軍は現代の原子力潜水艦の大きさに匹敵する、艦長が百メートルを超え小型の爆撃機を搭載した巨大な潜水艦400シリーズを開発していた。米国西海岸だけでなく、パナマ運河の爆破も開発目的に含まれていたといわれる。完成が終戦間際だったことから、その一隻が台湾沖に出動したものの実戦には参加せず、太平洋上で米軍に投降している。
「なぜ、日米両国はあの戦争をしたのかしら?」
「その答えはキーウエストにあるね」
「キーウエスト? あのフロリダ半島の先に浮かぶキーウエスト島のこと?」
「そう、あのキーウエストだ」
海面が夕陽を受けてキラキラ輝く。葉山の海岸から西に相模湾が広がる。夕陽が対岸の伊豆半島に沈む頃の相模湾も同じように輝く。が、今ふたりが目にする海面とはどこか異なる。
科学者によれば、水は水素結合という分子どうしの穏やかな結びつきでできていて、その結合は容易に切れるそうだ。葉山の海はぬめっとしている。水の分子がつながったままなのだろう。ここの海水はさらさらしているように見える。湿り気の多い大気と、乾いたそれとの違いからだろうか。水の違いは、組織を重んじる社会と、個人の個性を強調する社会との違いにも通じるのだろうか。
水と油ほども異なる両国民が相戦った。スーザンは塚堀と並んで夕陽が沈もうとする水平線をじっと眺めている。なぜ、キーウエストなのかしら、と首を傾げながら。
ホテルに引き返したふたりは、サンフランシスコ名物の蟹を楽しむためにケーブルカーを利用してフィッシャーマンズ・ウォーフに向かった。九月の埠頭には肌寒い海風が吹き抜けていた。スーザンはブラウスの上にカーデガンを羽織っている。胸に黄金でできた花弁のペンダントが揺れる。
その前年に塚堀は商用で久方ぶりにシンガポールを訪れた。別の会計事務所から、日系企業のシンガポール邦人の会計処理に不正がないかを調べて欲しいとの依頼があったからだ。夕刻に繁華街を歩いていると、土産店で溶かした純金に蘭の花を丸ごと沈めてペンダントにする実演を目にした。黄金の花弁が輝く。髪が亜麻色のスーザンに似合うだろうとその場で買い求めたものであった。
大鍋で茹で上げた蟹がふたりの前に置かれた。どうしたものかと躊躇するスーザンに、甲羅の内側をはがして見せた。白身の肉と橙色の蟹味噌が溢れている。最初は恐る恐るだったスーザンも、やがて美味しいと殻にかぶりつくまでになった。
レストランの窓越しに対岸のオークランドの街の灯が揺れる。埠頭には餌にありつこうとする海鳥が舞っていた。
その翌日はナパのワイナリー巡りで過ごした。タチアナはその日の深夜に近い時刻にサンフランシスコ空港に着くフライトを予約していた。翌朝の朝食時にふたりに合流することになっている。
Vネックのベージュのノースリーブに同色のスカート姿のスーザンと塚堀がダイニングルームに下りると、そこにはタチアナが待っていた。茶色のブラウスにスラックス姿だ。髪を後ろに束ねて白いうなじが露になっている。
「ターニャ、こちらがスーザンです」
塚堀がスーザンにタチアナのフルネームを伝えて紹介する。
「スーザン、お会いできるのを楽しみにしていました。ツカボリさんからあなたのことはうかがっていました」
「はじめまして。ジムの昔を知る方にはこれまで会ったことがないのでいろいろと聞き出したいわ」
「アツヒコはモスクワ事務所の女性職員が全員憧れた素敵な方でしたよ。その方といっしょ。羨ましいわ」
助手席にスーザンを、後部座席にタチアナを乗せた車はホテルの駐車場を出るとしばらくしてルート5に乗り入れて南に向かった。
ルート5は南はメキシコとの国境を起点に、北はワシントン州からカナダに通じる太平洋岸を南北に縦断する主要幹線だ。片側四車線を占める乗用車の列に大型トレーラーが混じる。スーザンが首を回して後部座席のタチアナにしきりに話しかける。
給油のためにガソリンスタンドに立ち寄った。給油している塚堀にスーザンが後部座席に移るわ、と伝えてタチアナと並んで座った。
タチアナとの初対面はスーザンにとって好ましいものだったようだ。塚堀から聞いていたスパイ稼業がよほど気になるのか質問を繰り返す。タチアナも嫌がらずにKGB時代からの過去を語っていた。塚堀にも初耳のことばかりであった。
塚堀が考えついたあの構想は、案外早い時期に実現可能かもしれないと思われてきた。
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