第13話 ホワイトハッカー
ナッシュビルにもどる車中でタチアナがスパイ業界の最新の情報を語り始めた。インターネット上にはアマゾンやフェイスブックなど、塚堀などの一般の市民が利用するおびただしいサイトが開設されている。ところが世間には知られていない別のものがこの世には存在するとタチアナがいう。
一般の市民やビジネスが利用するものは”サーフェスウェブ”と呼ばれ、世間がその存在を知らない地下の闇サイトは”ダークウェブ”と呼ばれているそうだ。
このダークウェブのサイトでは、サイバー攻撃のツールや不正に入手した個人情報が売買されて犯罪の温床になっている。タチアナによればこれまでに開設されたウェブの九割がこの種のダークウェブだそうだ。塚堀はウェブの世界の一割も知らないことになる。公認会計士は広い世界を知る業種だと自負してきたが、タチアナの告げる世界の存在に塚堀は驚くばかりだ。
犯罪に悪用される理由は、これらのダークウェブはグーグルなどで検索しても見つからない秘密性にある。特殊な通信手段を利用してアクセスしなければならず、機密軍事情報の通信用に開発されたものが悪用されている例が多い。
反面、民主化運動を支援する機関どうしの情報交換などに利用するには好都合で、米海軍が開発したTor(トーア)は秘かに軍事目的以外にも使用されているらしい。
特殊な通信技術を利用したネットワークがやり取りするデータは厳重に暗号化されていて、通信経路を外部が察知することは難しい。各国のスパイ組織がこの活用に躍起となるのは当然だ。
スパイ仲間では”フューチャー・スキャニング”と呼ばれる活動が最近の関心事だとタチアナが加える。スパイは一般人が知り得ない相手国や敵国の機密情報を秘かに手に入れることがこれまでの任務だった。しかし、情報社会ではその機密情報もすぐに価値を失うことになる。
そこで注目されるようになったのが、将来をスキャンする、すなわち、将来の動向を予測・分析し得る情報を多く集めて対応策を立てる行為にスパイ網を利用することである。
ネット上に情報が溢れる現代では、特定のテーマごとに情報を収集してまとめないと的確な判断ができない。そのようなテーマごとにまとめたキュレーション・サイトをスパイが運営し、データサイエンティストも兼ねるのだ。タチアナの口から聞き慣れないデジタル用語が次々に飛び出す。
そして、そのようにしてまとめた情報から予測される将来が当事者にとって好ましくないとの結論に達すれば、その将来に軌道修正を施す工作をスパイが担うことになる。
その前提になるのが、工作の当事者の身元が探知されないように匿名を使用する通信技術の向上と、メッセージを短時間に多数の目的地に届けることができる高速の通信手段を備えることだ。各国のスパイ組織は、インターネットの高速化と端末機器の携帯化の技術動向を躍起になって探っている。他に先駆けて最先端の技術を駆使するのが今後のスパイ活動の鍵になるからだ。そのための高速インターネットの実例を目にするのが、今回のチャタヌガ訪問の狙いであった。
当時普及していた通信速度は、第三世代と呼ばれる毎秒百メガビットであった。チャタヌガは第四世代である最高速度が一ギガビットを利用した初の実例である。二時間の映画を数十秒でダウンロードできるのは、この光の速さの半分に近い驚異的な高速にある。ところが、タチアナは、十ギガビットへの高速化がすでに秘かに開発計画の俎上に乗っているとの情報をニューヨークで獲ていた。第五世代の高速通信で5Gと呼ばれる。この5Gでは同じ映画を数秒でダウンロードできることになる。タチアナはロシアを出し抜くために、この開発にどこかで一枚加わることを模索している最中だという。
各国が関心を抱くもうひとつの通信機器の携帯化では、数年中に発売が見込まれるアップル社のインターネットを活用する新型の小型携帯電話の存在をスパイ網が察知していた。これが世に出ると、端末で音声、画像、データを交換できることになる。不特定多数の目標に大量のメッセージを送り届け、その反応を瞬時に手にすることが可能になるのだ。
ブラックハッカーと呼ばれる個人情報を盗んだり機密情報をリークするハッカーだけでなく、政府や企業の依頼でハッキングするホワイトハッカーが存在するとタチアナがいう。世間に誤解を与え勝ちなのでその存在は公表されていないが、徐々に増えているそうだ。ダークウェブを逆手に取るこれらのホワイトハッカーたちは、毒には毒をもって対抗していることになる。
ダークウェブ上のハッカーたちは、政府文書や企業の内部情報を世間にリークして損害を及ぼしたり、社会の秩序をかく乱することを狙っている。それに対して、政策当事者や独裁政権に対抗する反政府勢力などが、世論への働きかけにホワイトハッカーを利用するようになった。タチアナが身を置くのはそのホワイトハッカーの世界であった。このホワイトハッカーは微妙な性格を帯びている。ウクライナの独立を目指すグループにとってはホワイトハッカーであるタチアナも、ウクライナの併合を目論むロシアにとっては害を及ぼすハッカーであり他のダークウェブ上のハッカーたちとなんら違いがない。利害が反する者の間では二重の性格を持っていることになる。
説明をするタチアナに高揚感が満ち満ちていて、理知的な容貌がさらに輝きを放っている。前を見つめる塚堀にそれがひしひしと伝わってくる。
「ターニャ、九月末頃の来米は可能かね?」
「二ヶ月先だからなんとでもなるわ。どうして?」
九月にサンフランシスコで会計士協会の総会が開かれる。スーザンと観光を兼ねた西海岸行きを予定していた。その際にシリコンバレーでインターネット技術を開発するベンチャーの訪問も日程に入っていた。とっさに、それに加わったらどうかとタチアナを誘ったのだ。
総会は会計士にとっては納税申告の季節も去った端境期に開かれる親睦会のようなものだ。スーザンは西海岸を訪れたことがない。この機会にフィッシャーマンズ・ウォーフでの蟹や、ナパのワイナリーでワインの試飲を楽しむのが塚堀の狙いであった。
それを知ったスーザンの母が、シリコンバレーにいる遠縁に会ったらと手配をしてくれた。スーザンも幼少時に会っただけで記憶にも残っていないので再会を楽しみにしている。
この遠縁は、英国ウェールズからの移民を先祖に持つインターネットのエキスパートとして知られた技術者で、その名をブライアン・ジョーンズといった。
驚いたことに、その名を塚堀が口にするや、
「その名は我々の世界でも知られているわ。さっき話した5Gでは開発の最先端を走っているのよ。私のような裏の世界の人間が直接話を聞けるのはそうめったにあることではないわ。是非実現してよ。ロシアを出し抜くきっかけになるかもしれない」
「君とスーザンが顔を合わせる格好の機会にもなるしね。スーザンに伝えるよ」
「ひとつ含んで置いて欲しいことがあるわ。ジョーンズにはCIAが協力しているという噂がある。スーザンのお母さんにご迷惑をかけないように、前もって私の名をジョーンズに伝えて欲しいわ」
「君の同席をCIAが邪魔することはないのかい?」
「CIAはウクライナをロシアから離そうといろいろと画策していて、私の参加をむしろ歓迎するんじゃないかしら。支障があれば先方からやんわりと断ってくるはずよ」
塚堀はスパイの世界に片足を突っ込むような奇妙な感情にとらわれた。しかし、スーザンをタチアナに引き合わせる機会をもたらすことになる。
タチアナは夕刻のフライトでニューヨークに帰った。近く再会できるかもしれないことがよほど嬉しかったのか、しきりにそれを口にしていた。
車にもどった塚堀はスーザンに電話を入れた。
どうだった、というスーザンの声に一抹の不安が漂うのを感じ取った塚堀は、タチアナのシリコンバレー訪問案を真っ先に告げた。スーザンをタチアナに引き合わせる好機会になることを強調して訪問手配を依頼すると、マア、それは楽しみだわ、さっそく母に伝える、と弾んだ声が返ってきた。
翌日の金曜日の夕刻、スーザンとレストランで夕食を取りながら、前日にタチアナから聞いたスパイ業界の様子を紹介した。
話題がアラブの春にインターネットが大きな役割を果たしたことや、フューチャー・スキャニングに及ぶと、スーザンは異常な関心を示して塚堀を驚かせた。
タチアナからじかに詳細を聞き出すのが待ち遠しい。ひょっとして、私が探していたのはそれだったかもしれない、と呟くスーザンであった。
突然、塚堀の脳裏にある構想が閃いた。
ホワイトハッカーの世界に通じたタチアナと、卓越した説得力を秘めた文章を駆使するスーザンとを組み合わせると、なにが可能になるか?
それは塚堀が望む世間の常識を転換する工作の機会をもたらすのではないか?
その工作は水面下に深く潜行したものとなり、スーザンがその工作に加わることは、塚堀がスーザンとの肉体関係を断つことも意味する。
しかし、法外な所得の格差を放置したまま貧困層を産み続ける今日の世界を一新する改革、それこそがスーザンと塚堀がこれまでに捜し求めてきたことではないのか。この構想はそれを可能にするのだ。
スーザンとタチアナを引き合わせることが、思わぬ副産物をもたらすことになる。塚堀は大きく頷いた。
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