第12話 テネシー州チャタヌガ

 約束通り、ニューヨークのタチアナから電話があった。

 「アツヒコ、来週の木曜日にテネシー州のチャタヌガという町にいっしょして欲しいの。可能かしら?」

 「いいとも。チャタヌガ、とは風変わりな地だが、どうして?」

 「詳しいことは会った時に話すわ。アツヒコの名で公立図書館でパソコンを利用する予約を取って置いて欲しいの」

 「承知した。最寄の空港はナッシュビルで、チャタヌガまでは車で空港から二時間弱の距離だ。ニューヨークからは直行便が飛んでいるよ」

 「十時過ぎにナッシュビルに着く便を予約してまた電話するわ。訪問の目的は会った時に話すから、今は我慢してね」

 しばらくして十時十五分にナッシュビル空港に着く便名を連絡してきた。

 テネシー州の州都であるナッシュビルは塚堀のアパートから三時間ちょっとの運転距離だ。ルート65をまっすぐに南に下るとナッシュビルに着く。ルイビルが東部時間帯に位置しているために、中央時間帯のナッシュビルとの間には一時間の時差がある。その日は七時前にアパートを出発した。スーザンもいっしょさせようと誘ったが、あいにく、NPOの行事と重なり同行できなかった。


 空港のセキュリティーのゲートで待つと、やがて髪をなびかせたタチアナがこちらに向かって足早に近付くのが見えた。髪には白いものが混じっていたが、面影は昔のままだ。ダイエットをしているのか体型もスマートだ。

 「アツヒコ、懐かしいわ」といってタチアナが全身をぶつけてきた。

 忘れていたあのかすかな女の香りが過ぎる。両頬に軽くキスをした塚堀が、「昔と変わらないね。相変わらず魅力的だ」

 マア、とタチアナの頬が緩む。

 ふたりは駐車場に停めた塚堀の車に向かった。


 塚堀が運転する車は空港を出てすぐにルート24のサインがかかったハイウェーに乗り入れた。

 「アツヒコ、話したいことがたくさんあって、どこから始めてよいか分からないわ」

 「僕も同じだ。往復の時間を使ってじっくり話を聞くことにしよう。依頼のあったチャタヌガ図書館とのアポイントは一時半になっている。ランチを取ってからでも十分間に合う」

 「ありがとう。図書館訪問の目的も追々お話しするわ」

 「ターニャ、先ず最初に長年の疑問に答えて欲しいのだが、留学していた画家のイワノフさんはどうしいる?」

 ロシア語では夫婦であっても男女間に苗字の変化がある。妻が女性形のイワノバであれば、夫は男性形のイワノフとなる。

 「アツヒコ、察しのよいあなただから知っていると思ったのだけど、そんな旦那はこの世には存在しないわ」

 「薄々そう思ってもいた。最後に出張した時に君が夕食に誘ってくれたな」

 「あの時のことは今でも鮮明に覚えているわ。ナターシャが突然帰宅しなければ私はあなたに抱かれていたわ」

 「あのナターシャがパートナーだったのかい?」

 「そうよ」

 やはりそうだったのだ。

 「でも、あの晩、胸をはだけて僕を抱いてくれたじゃないか」

 「あなたが三十歳過ぎで、私は二十歳の半ば。お互いに若かったわね」

 昔を懐かしむように、

 「あなたは、後にも先にも私が淡い恋心を抱いた唯一の男性なの。いつも優しかったし親切にしてくれたわ。ソニー製のラジカセを贈ってくれたことがあったわね。高性能ラジオで海外の短波放送を聞くには好都合だったわ」

 「ターニャ、僕は君に借りがあるんだ」

 「借りって?」

 「ニューヨークの画廊で油絵を手に入れたんだ。もう二十年ほど昔のことだけどね。油絵には仮面をかぶって胸を露にした女が描かれていて、その露になった乳房が君のそれにそっくりなんだ。それで釘付けになってしまった」

 「マア、私の裸を覚えていたの?」

 「勿論だよ。あの夜のことは忘れることがなかった」

 「それで?」

 「その油絵は不思議な絵でね。一瞬だったけど仮面の下の女の素顔を目にしたんだ」

 「絵の中の女性が仮面を脱いだの?」

 「そうなんだ。そして、ある日、その素顔の女性に出遭ったんだ。それ以来親しくしている。君の乳房を知らなければあの油絵を手にすることはなかっただろうし、その女性と出遭うこともなかっただろう」

 「私の胸がキューピッドの役目を果たしたことになるわね」

 「そうだね。人の触れ合いとは不思議なものだ」

 「私の乳房がネー」

 ふたりの間にしばしの沈黙が宿った。


 チャタヌガまで四十マイルのサインが見えてきた。

 「ところでターニャ、モスクワ事務所では見付け役だったのかい?」

 「そうよ。幼い頃から共産党の幹部になる教育を受けたの。モスクワの街頭で赤いネッカチーフを首に巻いた児童たちを見かけたでしょう。あの子たちはそのような将来の幹部候補だったのよ」

 「もうひとりはあの運転手だった?」

 「そう。あの男は戦後にシベリアの収容所で看守をしていたから日本語に通じていたの。正規の党員ではなかったけど情報収集のために雇われていたのよ」

 「あの事務所で価値のある情報を手に入れることがあったのかい?」

 「商社には後のサハリンでの天然ガス掘削プロジェクトのような大規模な計画を企てる能力があるわよね。それでそのような大型案件を事前に察知するために見守っていたのよ。KGBは日ソ間のテレックスはすべて傍受していたけど、個々の商談の情報までは処理し得ないから、私が提供するアツヒコの情報などは役立たないものばかりだったわ。駐在員や出張者はだれもが真面目で夜の女とのスキャンダルもなかったし。一度だけ、アムール河から間宮海峡へ通じる運河を築くプロジェクトの構想案を手に入れたことがあったわ。あなたの名前が記載されていたわよ」

 「あのプロジェクトはメーカーの協力も得て期待していたのだが、第二シベリア鉄道の建設を優先することになって没になってしまった」

 某商社の駐在員がモスクワを強制退去させられたニュースが日本でも報道されたことがある。外国人だけに利用が許されている金券ショップで買い物をしたロシア人女性が当局に検束された。金券ショップでは市中では手に入らない輸入品が買える。

 女が使用した金券がその日本商社に割り当てられたものだったことから、そこの目付け役が金券を流した駐在員を特定したのだ。事実は、その駐在員から融通された出張者が、自分の買い物に使用せずに娼婦への支払に転用してしまったのだが、その出張者はすでに帰国していた。それで駐在員が罪をかぶることになったのだ。

 「共産党の党員だったらソ連邦崩壊では苦労しただろうな」

 「あなたが米国に転勤になったのは一九七七年だったわよね。アパートでの夕食に招いた直後だったから覚えているわ。今振り返ると、あの頃がソ連経済が曲がりなりにも機能していた最後の時代だったわね。私は党の指導部が掲げる政策には否定的だったけど、ソ連邦がこの世から消え去ることまでは考えが及ばなかったわ。一九八〇年代の半ばになったら、いよいよ計画経済が行き詰まり、それに民主化を要求する世論も無視できなくなって、党内では考えが異なる派閥が林立することになったの。一九八九年のベルリンの壁の崩壊が決め手になったわね。当時は別の外国企業の駐在事務所に移っていたけど、党員にはなにかと風当たりが強くなって。それで、私はモスクワでの生活を切り上げて、両親の故郷だったウクライナに引越ししたの。そこで昔のKGBの仲間たちとウクライナ独立運動の工作を始めたのよ。だから、ロシアに弓引くことになったわけ。今は反ロシア運動の工作員ということね」

 「身に危険はないのかい? 元ソ連の諜報員が英国で毒殺されたことがあったが」

 「私はウクライナの独立を支援するCIAからもマークされているのよ。ロシアも容易には手が出せないわ。でもそれだから、電子メールも携帯もすべて双方から傍受されていると考えるべきなの。きょうのことも来週には知られているかもしれない」

 「これからは僕もマークされることになるのかな?」

 「あなたはインターネット上に会計士と掲載されていて、メールアドレスや事務所の電話番号は公知のことね。でも私があなたの携帯の番号を探し当てるのに時間を要したことは、あなたはスパイ機関にはマークされていないことを語っているわ。私との接触に携帯を使用する限り当面は心配しなくてもよいわ。万一どこかの機関があなたを察知したら。私もそれを秘かに知るので、データベースから情報を削除する技法を使って葬るから心配ご無用よ」

 「スパイの世界も大変だな」

 「映画では”俺は007、ジェームス・ボンドだ”とさっそうと登場するけど、あんなことをしたら翌日には消されているわ。スパイはどこまでも地下に潜行していなければならない黒子の宿命を背負っているのよ。ところで、油絵が取持つ女性には私のことは話してあるの?」

 「あの夜のことも伝えた。昔の彼女との再会なのね、と笑っていた。スーザンという名で、いっしょしたかったのだが、勤務先の行事があって実現しなかった」

 タチアナとの過去を語り終えた時に、スーザンの目に一抹の不安が過ぎるのを塚堀は見逃していなかった。早くタチアナを交えた機会を作らねばならない。

 「あのナターシャはどうした?」

 「今でもウクライナでいっしょよ。ナターシャは政変後もボリショイ劇場で踊っていたけど、十年ほど前にキエフに移ってバレー教室を開いているの」

 「あの時に会っただけだけど、綺麗な女性だった」


 タチアナが改まって、ところでチャタヌガ訪問のことだが、とその目的を語り始めた。

 「インターネットの発達でだれでも世界中の出来事を瞬時に知ることになったわね。そのため、諜報機関も安穏としていると世の中に追い着かれてしまうの。それに、ロシアはウクライナの発電所にサイバー攻撃をしかけて大規模な停電で経済をかく乱するなど、いろいろ画策するので、その一歩先を行かねばならないしね。スパイは表の世界よりも常に先行していなければ役目を果たせなくなる。それに情報を早く手に入れるだけでなく、情報源をハッキングして情報を改ざんすることも任務に加わっているのよ。私がニューヨークを頻繁に訪れるのは、あそこには有力なハッカーたちが集り、時には秘かに集会を開いて最新の技術情報を交換しているからなの。先日の話題は、光速の半分近い高速のインターネット網を築いたチャナヌガ市のことだった。そこで実地にそれを体験するのがきょうの目的なのよ」

 「訪問先は図書館だが、それで目的を達するのかい?」

 「図書館は訪問者にインターネットの利用を公開しているわね。利用者が多いから私がいろいろと検索したりダウンロードしても、その痕跡を他の情報機関が手にするのは先になるわ。それまでには私は次の手を駆使しているという訳。だから図書館は好都合だわ」

 「体験してなにをするのかね?」

 「究極の目的はアップロードした膨大なデータや画像を高速インターネットを利用して目的地に送り届ける、あるいは敏速なハッキングをすることにあるわ」

 「昔の君と違い時代の最先端にいることになるね」

 「これはハッキングの例ではないけれど、インターネットの威力をまざまざと実証した例に、あの”アラブの春”のきっかけになったチュニジアでの政変があるわ。それまで西欧のメディアが注目していなかったので突然の出来事と報道されたけど、水面下ではそれ以前からインターネットを利用した働きかけがあったのよ。インターネットの強みは他の伝達手段と違って、短時間に多くの参加者を巻き込むことができることにあるわね。それにメールを自動的に他に転送するウイルスを付け加えれば、それこそ瞬時に何十万、あるいはそれ以上の人たちにメッセージを送り届けることができる。ハッカーが暗躍するのは当然だわね」


 やがて車はジョージア州との境にあるテネシー川に面したチャナヌガの街に入った。川沿いにバーベキューの店がある。ここから南部の一帯では各地でご当地自慢のベーべキュー料理が味わえる。ニューヨークにない米国料理だからとそのレストランに席を取った。

 チャナヌガは人口がおよそ十七万人で、絶壁を背にした川沿いの景観と世界で最も勾配のきついケーブルカーがあることで知られている。周囲七州を見渡せることから南北戦争では激戦地のひとつで、ここで勝利した北軍が南に逃走する南軍を追って、やがて”風と共に去りぬ”の舞台となったアトランタの陥落を招いている。

 米国の地方都市としては中規模ながら、野外スポーツや文化活動が盛んなユニークな町である。そこに、西半球では初の一ギガビットの高速インターネット網が敷設された。インターネットとしては当時では最高速であった。

 昼食後に訪れた公立図書館ではタチアナはデスクトップを前に、ネット上での検索やダウンロードを繰り返していた。検索は無料だったが、ダウンロードのためには図書館側に小額の利用料を支払い、有料のデータを提供する業者にも別にダウンロード料を払い込む必要があった。タチアナの痕跡を残さぬように塚堀のクレジットカードを使用した。

 タチアナが聞いていた通り、チャタヌガのインターネットは高速だ。二時間の映画をわずかの三十三秒でダウンロードできた。通常のインターネットでは二十五分を要する。タチアナが大きく頷く。持参したメモリーを接続してどこかにファイルを送信している。アップロードは図書館が設定した利用条件では不可能だが、持参した小さなブラック・ボックスを接続すると設定条件を一時的に迂回できるという。塚堀の常識が通じる世界ではなかった。

 二時間ほどデスクトップの前に座っていたタチアナが、来てよかったわ、聞いていたよりもすごい、といいながら図書館に備え付けの新聞を広げていた塚堀に歩み寄った。笑顔は昔と変わらない。

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