第11話 雪のモスクワ

 ソ連取引のベテランになった塚堀はモスクワ駐在員になるものと周囲は見ていた。塚堀自身も異動先の希望欄にはそのように記していた。

 その塚堀に突然、シカゴ駐在を命じる辞令が渡された。

 その異動を本人も知らない一ヶ月ほど前に雪に煙るモスクワに出張した塚堀は、ある日、タチアナから自宅での夕食に誘われた。

 昼過ぎから本格的に降り始めた雪が舞い、歩道には二十センチほどの雪が積もっていたが、この程度ではモスクワっ子は傘を差すこともない。アパートに近いメトロの駅で毛皮の帽子をかぶったタチアナが出迎えてくれた。雪を踏みしめてモスクワに多い高層アパートが建ち並ぶ居住区の一角に向かった。

 タチアナのアパートは十階建てのビルの五階にあった。コの字型の一片にあるアパートのキッチンからは向かい側のアパートの灯が見える。寝室がふたつに広い居間とキッチンが備わったアパート内は、想像以上にモダンな雰囲気で小奇麗な寄木細工のロシア家具が並ぶ。

 タチアナには海外留学をしている画家の夫がいると駐在事務所内では語られていた。不可解に思われたのは、画家に相応しい調度品や作品がアパート内のどこにも見当たらないことであった。

 居間でワインを手に雑談した後は、キッチンの傍に置かれたダイニング・テーブルでタチアナの手になるボルシチを楽しんだ。料理の腕も人並み以上だ。

 デザートのアイスクリームの小皿を置こうとしたタチアナの腰が塚堀の肩に触れた。塚堀がそのタチアナの腰に手を回して引き寄せると、背を向けた女体が膝の上に崩れ落ちてきた。振り向いたタチアナが唇を重ねてくる。

 接吻を終えて立ち上がったタチアナの胸が塚堀の目の前にあった。思わず小豆色のセーターの下に手を差し入れる。

 モスクワの真冬は寒い。窓の外は零下も二桁台の気温だ。それなのにセーターの下のタチアナは素肌だった。手の平に温もりが伝わる。

 塚堀の手がブラジャーにぶつかった。タチアナがちょっと待って、と制して、交差した両手で裾をつかんで引っ張り上げるやセーターをかなぐり捨ててしまった。両方の乳房がこぼれ出るのではないかと思われる、はち切れるような白いブラジャーが露になった。

 ブラジャーのフロントは両腋の下のホックで留められている。タチアナがそのホックを外した。フロントが外れて、塚堀の目の前に窓の外に舞う粉雪のように純白な乳房が躍り出た。いく筋かの血管が透けて見える。

 キッチンの窓はカーテンが開け放たれたままだ。窓越しにいくつかのアパートの灯が見える。そのまま乳房を露にしたタチアナの度胸に塚堀は驚いた。他人の目を気にかけないほど好意を抱いてくれているのか。

 「ヤー・リュブリュー・チェビャー」

 思わず、好きだよ、と口走った塚堀がピンクの乳首を口に含む。バース(あなたを)ではなく、チェビャー(君を、お前を)に、塚堀のタチアナに対する愛おしい想いが籠められていた。

 タチアナが塚堀の頭に回した両腕を引き付けた。押し潰された柔和な乳房が広がり、女の体臭が伝わってくる。香水でない女体が放つ自然の香りが過ぎる。大きく息を吸ったタチアナが小さな声を漏らす。

 再び唇を合わせたふたりが居間のソファーに倒れ込む。


 その時だ。

 突然ドアーの錠を回す音が玄関から聞こえてきた。慌ててセーターに首を突っ込んだタチアナが玄関に向かって走る。

 やがてタチアナが、同居しているバレリーナのナターシャが帰宅したともどってきた。

 ボリショイバレー団の一員であるバレリーナのナターシャは、数日後の公演を控えてその日はリハーサルに参加していた。帰宅は十一時頃になるとタチアナに伝えてあったが、舞踏中に足首をひねってしまい、医者にテープを巻いてもらってリハーサルの途中で帰宅したのだ。

 やがて片足を引き摺るナターシャが居間に入ってきた。美人の産地として知られるコーカサス地方の出身だそうで、水も滴る美人とはこのような女をいうのだろう。タチアナより数歳年下だろうか。

 怪我を案じるタチアナがそっと抱き寄せる。同居人に対する以上の優しさがそこにはあった。

 時計は九時を回っていた。メトロの駅まで雪の中をタチアナが見送ってくれた。別れの熱い接吻の後、手袋を脱いだ素手で塚堀の手をギュッと握りしめたタチアナ。

 モスクワの地下鉄は地中深く走っている。長い下りのエスカレーターの上で、塚堀はこの数時間を振り返っていた。

 これまでにもふたりだけになる機会はいくどもあった。しかし唇を合わせることはあっても、タチアナが素肌を露にすることはなかった。

 今夜のタチアナは違った。ナターシャが突然帰宅しなければ、ふたりは結ばれていただろう。夕食はその誘いではなかったのか。塚堀がシカゴに転勤してからも抱き続けた疑問であった。

 いく筋かの血管が透けて見える真っ白な乳房。いつまでも塚堀の瞼に焼き付いたままであった。

 

 携帯を切った塚堀に、三十数年前のモスクワの光景が蘇ってきた。冬の出張が多かったからか、雪景色だ。雪に煙る赤の広場、隣接するクレムリンの黄色い壁、真向かいには国営百貨店があった。ある日、その店内が枕で溢れた。計画経済が成せる業であった。

 どれもが同じ箱型で薄緑色のタクシー。ホテル代に二十四時間乗り放題のタクシー代が含まれていて、出張中は車の運転を心配せずに済んだ。駐車中のフロントガラスにはワイパーがない。盗まれないように運転手が外すからだ。そのフロントガラスからウォッカの臭いが漂う。凍結を防ぐために、先浄水の代わりに安物のウォッカを利用している。

 キオスクで手にした甘味が皆無で酸っぱいヨーグルト。ピボと呼ばれる水代わりのビール。今の塚堀はもっぱら赤だが、不思議なことにモスクワでは白ワインが美味しかった。

 街で出会うロシア人は素朴で親切だった。ある日、事務所の前に停めた社有車に残したファイルを取るために、塚堀は雪の散る歩道に出た。冬のモスクワでは外出には毛皮の帽子を必ずかぶることが習慣になっていた。ロシア人は黒や濃い茶色の帽子を好むが、塚堀はちょっと洒落た狐の毛皮の帽子を愛用していた。歩道の幅は数メートルだ。その帽子をかぶらずに飛び出した。

 すると丸々と太ったひとりの老婆が転がるように塚堀に近付いて、なにか大声で怒鳴り散らし始めた。タチアナがなにごとかとドアーから顔を突き出す。

 こんどはそのタチアナに向かって老婆が同じように怒鳴る。あんたが居ながら、シャッポをかぶらないあの若者を外に出したのは怪しからん。脳味噌が凍って頭が壊れてしまう、と本気になって心配してくれていたのだ。タチアナがしきりに頭を下げている。

 ロシア人がユーモアを解することも体験した。タチアナがロシア流の小噺を聞かせる小さな劇場に案内してくれたことがあった。

 ロシア語のアルファベットには奇妙なものが混じる。Rを逆にしたものや、PがR、CがS、HがNで、レストランはPECTOPAHとなる。

 文明が遅れて文字を持たないスラブ人たちを哀れんだ神様が、ある時、ローマ字を盆に載せた供を従えてロシアに向かった。ところが、途中の山道でその従者がつまずいて転んでしまった。

 先を歩む神様に遅れては、と従者は慌てて地面に散らばるアルファベットを盆にもどそうとした。が、気が動転していたために、地面にあった地元のアルファベットを間違って混ぜてしまったり、表裏を逆にしてしまった。ロシア語に、他にないローマ字が混じったり順序が狂ってしまったのは、この従者の失態のためなのだ。

 この小噺を聞くロシア人たちが腹を抱えて笑いこける。自分たちの後進性を笑い飛ばしてしまうのだ。

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