第8話 日米協会の夏祭り

 その年の日米協会の夏祭りは、ケンタッキーの州都フランクフォートにある日本の某酒造が出資したバーボンの蒸留元が会場であった。

 スーザンは背中に深いスリットが入った白いワンピース姿で現われた。タイトなスカートは膝上のミニだ。日米協会の行事に日米の男女がカップルで参加することは珍しいことではないが、その日のスーザンは参会者の目を奪う存在となった。

 居合わせた大学の同窓の女性と話をするといってスーザンが塚堀の傍を離れた。するとそれを待ち構えていたかのようにひとりの男が塚堀に歩み寄った。

 「塚堀さん、失礼、今は塚堀先生でしたね。ご無沙汰しています」

 「相沢さん、先生は止めて昔通りでお願いしますよ。お元気そうですね」

 日米協会の副会長を務める相沢逸郎だ。同じ機械部門の商社マンで、入社年次は塚堀の十年ほど後だ。部が異なるために仕事上での付き合いはなかったが、昔、通勤電車で頻繁に顔を合わせた間柄だ。

 塚堀はシカゴから帰任すると逗子との境に近い葉山に小さな一戸建てを新築した。新興住宅地の一角で、逗子駅まではバスで十分ほどの地だ。一方の相沢は夫人が資産家の出とかで、逗子駅から近い高級住宅地に住んでいた。

 横須賀線の逗子駅から東京駅まではちょうど一時間の距離で、朝の八時前に逗子駅を発つと丸の内での始業に間に合う。

 通勤ラッシュの時間帯の逗子駅では、横須賀方面から到着した十一両の後尾に四両を増結するのを常としていた。そのため一列車を見送ると必ず席に座ることができる。一駅東京寄りの鎌倉の住民には、下り電車で逗子に来て増結車両に席を取る者もいた。

 出くわしたふたりが肩を並べて列に連なることも珍しくなかった。電車に揺られながら朝刊を広げる塚堀に相沢が社内人事の噂話を耳打ちすることが多い。数週間後の人事欄にその通りの人事異動が公表されていて塚堀は驚いたものだ。

 「先輩、お連れのベッピンさん、タイトスカートがよく似合いいますね。豊麗な女性とはあの方を指すのでしょうね。モデルさんですか?」

 「ただの知人で、近くのNPOに勤める職員ですよ。最近太り気味だと気にしていますので、相沢さんから豊麗だと告げられたことを伝えましょう」

 「いやー、塚堀さんを見つめるあの方の目はただのお知り合いのそれではないですよ。先輩も隅に置けない。チョンガーが羨ましいですよ」

 「そんなことを口にすると罰が当りますよ。奥さんには世話になっていたでしょうに」

 「だから尻に敷かれっぱなしです」

 「きょうは奥さんは?」

 「女房は横飯が苦手でしてね。英語を使わなければならないイベントはいつも欠席。出世の足を引っ張ることになる、と懇願しても馬耳東風です。困ったことですよ。もっともそういう私も米人相手の会話は疲れます。なにせ仕事と異なりすぐに話題が尽きてしまって間が持てません。その点、先輩はすごいですねー。先ほど、協会のある役員から”酒で顔が赤らむのはオリエンタル・フラッシュと呼ばれる蒙古族に特有の現象だ”と聞かされましてね。だれからそんなことを聞いたんだ、と問えば、あそこにいる日本人だ、といって先輩を指すではないですか」

 「あれね。あれはあなたも講読している日刊紙に掲載のコラムの受け売りですよ」

 「それを話題にするところが先輩らしい。先日、海外事業統括の専務がシカゴに来られた折に、中西部の支店長や部長待遇の出向者たちが呼ばれた会食がありましてね。専務はニューヨークで開かれた北米会議の帰途とかでした」

 相沢は商社が出資したオハイオ州南部にある自動車部品メーカーの社長に出向している。

 「食事の最中に先輩の名前が専務の口から飛び出して、出席者の全員がビックリしていましたよ。なんでも塚堀さんから毎週のように”アメリカ事情”と題するメールが届くとか。メディアが報じないアメリカ国内の事情を知ることができて大助かりだ、塚堀は商社マンの鑑だとそれは大変な褒めようでした。役員会でも話題になっているそうですよ」

 「専務とは同窓で、あの方は私の四年上級です。雑文を配信しているだけで、それほど褒めていただくようなものではないのだが」

 「ご存知の通りあの専務は海外人事の総元締めですからね。私もここにおよそ三年、それ以前の国内支店での勤務を合わせると、本社勤務から十年も遠ざかっています。定年退職後の職の斡旋では、本社勤務と地方では明らかに差がありますからね。専務に本社にもどれるようにお願いして置きましたが、塚堀先生からも口添えをよろしくお願いしますよ。この通りです」

 手を合わせる大仰な仕種の相沢。社会人になって三十年余になる塚堀は、転社や転職を経て異国の地で小さな城を構えるまでになった。進むも退くも自分次第。他人から嘴を差し挟まれることはない。その代わり、すべては自力で切り拓く必要がある。

 会社員であれば組織の意向にしたがわねばならない。個々人の勝手な希望を満たしていては組織は機能しない。自らの将来を他人の評価にゆだね、そのために余計なエネルギーを使わねばならない相沢が気の毒に思われた。

 鏡割りのアナウンスがあってスーザンがもどってきた。壇上に置かれた大樽の蓋を協会役員や出席者の中から指名された数人が木槌で割る日本の伝統にしたがった儀式だ。

 その日の来賓のひとりだった共和党選出の州上院議員が最初に紹介されて壇上に上がり短い挨拶をした。その挨拶に続いて相沢が数人を指名した。その中にスーザンが混じっている。

 ハンドバックを塚堀に預けて壇に向かおうとするスーザンに塚堀が耳打ちした。樽の蓋はすでに割られていて木槌は儀式だけのものだから、まともに振落とすとドレスに酒を浴びることになるから注意するようにと。

 壇上の相沢が今にも抱き着かんばかりにして両手でスーザンの手を取って壇上に引き上げた。

 スーザンは会場に背を向けた位置で樽を前にした。亜麻色の髪が揺れる背。タイトなスカートが豊かな腰周りとくびれを浮き出し、そのすぐ上に切り込まれたスリットから日焼けした肌がこぼれている。上院議員が隣だった。二言三言を交わしたスーザンが議員と握手をしている。

 会長の音頭で一斉に槌が振り下ろされた。スーザンは忠告通りの仕種だったが、真正面の位置にいた米人の男性が力任せに槌を叩きつけた。割れた蓋が飛び、本人が酒のしぶきを浴びることになり、会場は爆笑に包まれた。

 樽の傍に積み上げられた小さな枡に酒造の社員たちが酒を注ぐ。それを待ちきれないように出席者による長い列が出現した。並々と満たされたふたつの枡を捧げてスーザンがもどってきた。

 枡の角からそっと試すように酒を含んだスーザンが、美味しいとひと言。樽酒が口に合うようだ。瞬く間に枡を空けてしまった。

 冷酒は酔いの回りが早い。オリエンタル・フラッシュで頬を染めた日本人男女に混じってしばらくは平然としていたスーザンだったが、さすがに塚堀の腕に腕を重ねたその瞳はしっとりと潤っていた。


 八月に入ると企画書のまとめのためにスーザンは毎週末を塚堀のアパートで過ごすようになった。企画書の合間には、貧困をもたらす経済に対する疑念をしきりに口にする。

 アパートの四階の窓から目にする楓が紅葉し始めた九月末に企画書が完成した。いよいよ議会対策に着手する必要がある。

 塚堀は日頃から懇意にしている地元の共和党議員を訪ねた。

 企画書を読み終えた議員が、

 「これは素晴らしい。ペイデー・ローンによる多重債務が問題視され始めたものの、効果的な代案が見当たらず苦慮していたんですよ。次回議会ではこの企画と同時にペイデー・ローン規制法案を議員立法で成立させよう」と大喜びで、その場で商工委員会の委員長に電話を入れてアポイントを取ってくれた。このような企画の法案提出の是非は事前に商工委員会が審査する決まりになっているからだ。

 数日後にシェリルから電話があった。地元の民主党議員とこの共和党議員が超党派の規制法案を次回議会に提出することになったそうだ。地元の両党の議員が手を結ぶことはこれまでにはなかったことでシェリルが驚いていた。


 十一月はじめのある日、塚堀はスーザンを伴って州都のフランクフォートにいる商工委員長を訪れた。

 秘書に続いて議員の個室に踏み入ると、大きな机を前にしていたのは日米協会の夏祭りで挨拶をしたあの議員であった。スーザンの顔を見るなり、あなたの忠告がなければ日本酒を浴びるところでしたよ、と握手を求めてきた。

 すでに企画書に目を通していた委員長は、「シェリル・スミスとは同窓でしてね。私は共和党、彼女は民主党ですから、顔を合わせると議論になるのですが、配下に優秀なスタッフがいるとかねてより耳にしていました。そのスタッフとはあなたのことだったのですね、スーザン。あなたのボスがシェリルでなければ私の事務所に引き抜くのに残念ですよ。企画書は上出来です」

 翌年一月早々に商工委員会がスーザンの企画を議会の採決に付すことを決定した。二月の本議会ではNPOを支援する地元の民主党議員が効果的な賛成スピーチをしたこともあって、企画は賛成多数で可決された。同時にペイデー・ローンの金利率に上限を設ける議員立法も成立した。

 あらたな会計年度は七月にスタートする。いよいよ定期預金支援策が具体化することになった。

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