第7話 イン・ラブ・ウィズ・ユー
塚堀は大学では経済原論を専攻した。教養課程を終えた三年生からは当時は健在だったマルクス経済学のゼミに加わり、資本論を教材に使用した。
この数年の塚堀の関心は、どこの先進国も数パーセントの経済成長率を達成することもままならない低成長に陥ったことと、それにもかかわらず、富裕層の所得が毎年うなぎのぼりのために所得格差が広がる一方の経済にある。
この所得の格差は先進国中でも米国が特出している。身体ひとつで海を渡った移住者たちが、広い前庭の一戸建ちの持ち家に住みガレージには新車を納める、あのアメリカン・ドリームは過去のものになってしまった。どうしてか? 長期にわたる低成長は資本主義経済が終末を迎えようとしているからだろうか?
会計士になって零細企業の実態を知るにつれ、この疑問は深まるばかりであった。疑問への答を探そうと手に入れた経済書や統計の資料が、事務所の書棚だけでなくアパートの居間の壁を埋めている。
スーザンも疑問を抱き続けてきた。身近に多い低所得層や困窮層がどうして生まれ続けるのか、今の経済はなぜその解消の道を閉ざしたままなのか。セミナーの会場で予感したように、塚堀との出会いは、今まで恵まれなかったそのような疑問を語り合う機会をスーザンにもたらした。
その日も昼前に塚堀の事務所に現われたスーザンは、机に向かって書棚から引き出した参考書を繰りながらインターネットを検索している。スーザンがふたりのために持参したサンドイッチでランチを済ませた後も、スーザンは塚堀に背を向けてパソコンや書籍を前にメモ書きを続けていた。
仕事が一段落した塚堀が壁の時計に目を遣ると、すでに五時近い時刻になっている。夏時間のために事務所にはまだ陽が射し込んでいたが、その日は金曜日のために事務所の前の道路には帰宅を急ぐ車が連なっている。
ノースリーブから覗くスーザンの日焼けした素肌の肩が愛くるしい。背後に歩み寄った塚堀がそのスーザンの両肩に手を置いて、
「スー、アイ・アム・イン・ラブ・ウィズ・ユー」
振り返った紺碧の瞳をはにかみと悦びが一瞬駆け抜けた。
”イン・ラブ・ウィズ・ユー”には、”アイ・ラブ・ユー”では伝えきれない、大切なものを共にしたい、そして、心身共に一体に結ばれたい、という熱い願望が込められている。
”アイ・ラブ・ユー”は”さよなら”の代用になるほど日常生活に浸透しているが、他方は、愛し合う男と女の間であってもこれを口にする機会は一生に数度しか出現しない。
表現の微妙なニュアンスにことさら敏感なスーザンが塚堀の意を汲まぬはずはない。椅子から立ち上がるや、両手を塚堀の首に巻きつけて唇を求めてきた。
信念を尊ぶ男女は、愛する異性に同じように確固とした信念の持主を求めるものだ。肉体と肉体が一体に結ばれる初の機会が今夜のふたりに訪れようとしている。
ハイウェーをはさんだ反対側に建つビルの最上階に国内にいくつかの出店を持つステーキハウスがある。高級をセールスポイントにしたレストランのために、塚堀がクライアントとの会食に使用することはなかったが、数年前にアトランタの中心街にある同じ店でステーキを味わったことがある。看板に偽りのないよい味であった。
最上階のレストランからは周囲数十キロを見渡すことができる。ウェイターが、最近入荷したアルゼンチン産のピノ・ノワールが好評だと薦める。
持参したボトルを見せながらそのウェイターがいうには、最近は南米でも葡萄の栽培が盛んで良質のワインを産出するそうだ。そのボトルは南緯四十五度近辺のパタゴニアと呼ばれる地方のもので世界最南端産ワインだ。
ウェイターがその日のおススメ品を告げてメニューを置いて立ち去った。そのメニューを開いたスーザンが、目玉が飛び出しそうな価格だと囁く。今晩はふたりにとって記念すべき一夜になるのだから、と告げると、スーザンの頬が朱を帯びる。塚堀は微笑みながらピノ・ノワールのグラスを傾けた。
アパートに着いたのは九時近くであった。駐車場には日中の暑気がまだ漂っていたが、室内は冷房が効いていて快適だ。髪を洗うので長くかかる、お風呂はお先に、というスーザンにしたがって塚堀は浴室に向かった。
バスタブの上にガラスの引き戸が備わっている。その戸を閉めてシャワーを浴びていた塚堀は、曇りガラスを透して浴室のドアーが開くのが見えた。
”入ってもよい?” スーザンが声をかけてきた。いいとも、と答えると、ガラス戸をそっと引いて髪をアップに巻き上げたスーザンの裸体が滑り込んできた。
塚堀は一瞬たじろいだ。その顔はいつものスーザンとは異なり、画廊で目にしたあのバリケードを踏み越える仮面を脱ぎ捨てた艶美な女のそれであったからだ。
豊満な乳房をいただいたその胸と仮面の女のものが重なり合う。それだけでなく、記憶の彼方から蘇る、いく筋かの血管が浮かぶ白い乳房とも三重に重なり合うのだ。
胸と腰の部分を除いて小麦色に日焼けしている。夏は裏庭で日光浴をするからだそうだ。その小麦色の背中にブラジャーの跡がない。どうして、と問うと、
「背中にスリットが入ったドレスを着るためには背中全体を焼く必要があるのよ」めったに人が出没しない裏庭なので、うつ伏せになるとブラジャーのホックを外しているという。
「そんな洒落たドレスを着ることもあるの?」
「女性だからもちろんよ」
「そのドレス姿を是非とも目にしたいものだ」
「機会をもうけてもらえばいつでもご披露するわよ」
シャワーで濡れた顔が悪戯っぽく微笑む。いつもの顔になっていた。
「最近、体重が増え気味で困っているのよ、ダイエットしないと」と下腹に手を当てる。
「スー、ギリシャやローマ時代の一糸まとわぬヴィーナス像は、どれも腰や腹部がふっくらとしている。後世の人々はその優雅な姿に魅了されてきたのだ」
「そうね。ジムのお好みであれば無理してダイエットしなくて済むわ」
先にベッドに入った塚堀の耳に浴室から漏れるドライヤーのモーター音が届く。同じ屋根の下にもうひとりいる。それも異性だ。
しばらくして音が止んだ。やがて塚堀の脇に裸体が忍び込んできた。
お互いの愛を確かめるように両手の指と指を絡ませたふたり。これからのお互いの人生に欠かせない存在となるであろう男と女。
優しくゆっくりとした男女の動きが次第次第に激しさを増し、待ち焦がれたその時がやってきた。男を包む女に愛液が満ち溢れ、女から悦びの嗚咽が漏れた。男にとっても長い間待ち望んできた仮面の女を射止めた瞬間であった。
結ばれた肉体。快い余韻に浸るふたりの胸中に去来するのは、これから共に築き上げるであろうあらたな世界であった。
どこからか、バイオリンが奏でる”G線上のアリア”が流れてくる。
目が覚めると、シーツの下に背を向けて裸体を横たえたスーザンから微かな寝息が漏れる。いつものランニングのために塚堀はそっとベッドを抜け出した。
ランニングから帰ると、クロゼットに吊るしてあった塚堀のオーバーサイズのワイシャツをまとい髪をアップにしたスーザンが甲斐甲斐しくテーブルを整えているところだった。日焼けした太腿の付け根がシャツの裾から見え隠れする。
その身ごなしには前日までは目にしなかった熟した女の妖気が漂っている。一夜の交わりが女にこれほどの変貌をもたらすものなのか。しばしの間その場に立ちすくむ塚堀であった。
食パンと卵が冷蔵庫にあったのでフレンチ・トーストを用意したとスーザンがテーブルに置いた。
「冷蔵庫は空よ。毎日なにを食べているの? これからは私がしっかり管理するわね」
独り身の生活が長く続き過ぎた。
壁時計が十時前を告げていた。十時には近くのショッピング・モールがオープンする。
ショート・パンツと膝下までのカプリ・パンツ、袖無しのブラウスを二枚、それにビキニスタイルの水着を手に塚堀がレジで勘定を済ませた。女性の洋装品を手にするのはなん年、いや、なん十年ぶりのことだろうか。下着や小物を手にしたスーザンがその支払を済ませ、ふたりはアパートに引き返した。
塚堀が住むアパート・コンプレックスはどれもがワン・ベッドルームのアパートで占められている。半分は近くの総合病院が借り切っているようで、若い医者や看護師の住民が多い。プールは幼児がいないために静かで、塚堀も休日には本や新聞を持参してプールの傍で過ごすことがある。
デッキチェアーの上でビキニ姿のスーザンがうつ伏せになっている。小麦色の背中を金髪の産毛が覆い、腰骨が張り出して日本語で出尻と表現するのが適切な盛り上がった分厚い臀部をビキニのボトムが包む。
「背中の結びを解こうか?」と隣の塚堀が冗談気味に問いかける。
「裸の背中はあなただけのものよ。他人には見せないの!」
塚堀は日米協会から夏祭りの案内が届いていたことを思い出した。毎年の恒例行事だがこの数年は欠席していた。七月末の土曜日の夕刻に開かれる盆踊りや琴の実演が加わった園遊会で、ハイライトは日本酒の樽を割って参会者に樽酒を供する鏡割りのイベントだ。日本食ブームはこのケンタッキー州にも押し寄せて日本酒が知られるようになった。
スーザンが立ち去ったアパートにはクロゼットのハンガーに女物のブラウスやカプリ・パンツが吊り下がり、浴室にはピンクのバスタオルが。洗面台には歯ブラシが二本並ぶ。ダイニング・テーブルには花模様のパットが二枚置かれている。
今まで殺風景だったアパート内が一挙に華やいだものになった。
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