第5話 NPO
さて、きょうの本題ですが、と断ったスーザンが、
「私の属するNPOでは未婚の母の救済や、義務教育を終えることができなかった女性たちの履修支援など、生活環境の改善に協力しています。これまでの活動で常に問題視されてきたことに、これらの女性たち、特にシングル・マザーの母子家庭での貯えの不足があります。親が貯金を持たなかったために、今の若い世代は、幼少時から不慮に備えて小金を貯金する慣わしを見聞きしないまま家庭を持つことになっています。そのため急病や予期せぬ出費に遭遇すると、自己資金が皆無のために高利貸しに駆け込んだり、公的な福祉策に依存することになります」
続けて、「そこで、NPOのプログラムにあらたに貯金を奨励する策を加えることにしました。最初は小額で始めて、目指すのは、自宅購入のための頭金や、高等教育や技能修得のための教育資金、あるいは現役を退職後の老後の生活資金などを各家庭が貯えることです。当地の低所得層は社会保障制度で定める国民年金の受給額も低額で、年金だけでは老後の生活に窮する家庭も少なくありません」
スーザンによれば同じような試みは他の都市にも存在するそうで、その実例も参考にして基本的な案を策定した、と概要を塚堀に紹介した。
それは、勤労所得を持つ者を対象に、給与から一定額を金融機関に設けた定期預金口座に振り込ませる企画で、その奨励策に州政府からの助成金を充てたいという。
これまでに起業や企業買収、あるいは事業の再建のために塚堀が受けた相談は百件近くにのぼる。案件を持ち込んだ本人の思いのほどや知識の度合いを見極めるために、当初は質問やコメントを避けて聞き役に徹するのが塚堀の常だ。計画の細部を聞くまでもなく、小一時間ほどの面談で案件を進める価値があるかないかは見当がつくものだ。塚堀が注目するのは、相手がどこまで客観的にものごとを見ているかということだ。
その点、スーザンは客観的なデータをもとに企画を立案していることが説明から汲み取れる。他の例を冷静に分析しているのは賢明だ。
「スー、うかがった概要から進める価値のある企画と判断できます。できるだけの協力を致しましょう。詳細が固まった段階で企画書の草案を送ってください。検討します」
「ジムのような方の賛同を得て心強いわ。数週間中に郵送します」
いつの間にか、ミスター・ジムはジムだけに変わっていた。
企画書の草案ができあがるまでにスーザンから疑問点や確認事項に関して頻繁に電話があった。送られてきた草案は、スーザンが属するNPOがカバーするケンタッキー州東部における貧困層の実態を端的に語っている。これまでの貧困問題と異なる特徴は、低所得層の主体が黒人層ではなく大半が白人層で占められることだ。この数年の間に米国におけるあらたな社会問題として、全国的な白人層の貧困化が問題視され始めていた。
日本の国税庁に相当する米国の内国歳入庁は驚くほど広範囲のデータを公開している。塚堀はスーザンにこのデータベースの存在を教えて企画書の資料に利用するように薦めた。頻繁に電話があったのはこのデータベースに関する質問であった。
これらのデータから、NPOが対象にする地域では、夫婦ふたりからなる家庭の月当たりの平均所得は二千三百ドル、年間所得は三万ドルを下回ると試算された。時給に換算すれば、ふたり合わせても十五ドルに満たず、連邦政府が定める最低賃金のレベルだ。これらの所帯では、預金は皆無か、あってもその残高は最高でも二百ドル前後と考えられた。
各家庭が無理せずに預金に回せる額をスーザンは月当たり三十ドル前後と見積もっていた。毎月預金を実行すると、一年間に口座に振り込まれる額は四百ドル弱だ。
スーザンはペイデー・ローン業者との競合を本プロジェクトの潜在的な障害に指摘していた。このペイデー・ローンとは、文字通り、給与日に返済することを条件に短期の融資を提供する高利貸しを指す。
米国では低所得層が勤める工場や零細企業はほぼ例外なく週給制で、支給日の午前中に給与が社員の銀行口座に振り込まれたり、小切手が手渡される。
銀行に口座を設けると普通預金の口座であっても最低限の残高を維持するように求められ、地方の銀行ではそれが百ドルの例が多い。そのために低所得層ではその制限を嫌って銀行口座を持たない家庭が多い。これらの社員は受取った小切手をスーパーなどで小額の買い物に使って、釣りを現金で受取ることで換金している。一ドル余のソーダ水を買って九十八ドル余の釣り銭を受取るのだ。
この換金の習慣に便乗したのがペイデー・ローンで、小切手を持参した者に小額の手数料を差引いて換金する。やがて換金だけでなく、翌週の給与を引き当てた短期ローンを提供し始めた。
翌週の給与の手取り額が百ドルの者は、手数料の三ドルを差引いた九十七ドルを受取る。週末のレジャー資金や急病のための医療費、あるいは故障した車の修理費に充てるためで、この短期ローンは低所得層の間に瞬く間に広まった。
三ドルはコーラのボトル二本分に過ぎず、借り手は気にかけない。しかし、冷静に算盤勘定をすれば、一週間で三パーセントは、年率に換算すれば百五十パーセントもの高金利に相当する。業者には三パーセントを超える手数料を徴収する者もいる。算数に弱い米国民が陥る特質を悪用したビジネスといえよう。
このローンは借りた翌週には返済しなければならないが、元々銀行口座も持たない者が多い層である。その返済資金に困るのは目に見えている。こうして、いったんこのペイデー・ローンを利用すると、ローンの更改を毎週繰り返すことになる。
日本と異なり夏・冬のボーナス制度が存在しない米国である。クリスマス・ボーナスを支給する企業も存在するが、その場合でも七面鳥の現物支給や一週間程度の給与に相当する額に過ぎない。積もり積もった元金と利子を完済するのは不可能で、その結果はローン会社に訴えられて借り手は個人破産に追い込まれることになる。
二〇〇七年から八年にかけて起きた金融危機以前にはこの層にも個人融資を認める銀行が存在したが、危機後の規制強化のためにそのようなローンは姿を消した。それもペイデー・ローンへの依存度を高めた理由であった。
高利貸しというレッテルを恐れるこれらペイデー・ローン業者は、自己保身のために政治家に多額の政治献金をしている。そのためどこにでもこの業界の利益代表ともいえる議員たちが存在する。これらの議員は、ペイデー・ローンが通常の金融機関から融資を受けることのできない低所得層への救済手段であることを支持理由に掲げるのが常だ。預金制度への助成金を州政府に申請した際には、これらの議員たちが大きな抵抗勢力となる。対応策を考えて置かねばならない。
企画書の草案を読み終えた塚堀は、それまでに目にした多くの計画書にも心当たりがない説得力に富んだその文章に感じ入った。読む者の心を誘い寄せる魔力が潜んでいる。スーザンに電話を入れた。
「スー、草案はよくまとまっている。近くそちらにおじゃましえ要点を詰めたいのだが」
「マア、それはありがとう。当事務所であれば上司のシェリル・スミスにも同席してもらえるので好都合だわ」いつもの明るいスーザンの声が一層弾んだ。
「その際に、スーの事務所に近い個人や零細企業の訪問を手配して置いて欲しいな。地元の人たちの期待度を知りたいから」
「分かったわ。ご来訪が楽しみ!」
スーザンが勤務するNPOがあるべレア市は、ケンタッキー州を南北に走るルート75に面した人口が一万人弱の小さな町だ。州の北部に日本を代表する自動車メーカーが大規模な組立工場を持っていることから州内には自動車部品メーカーが多い。べレア近辺にも数社の日本の部品メーカーや鋼板加工センターが工場を構えていて、その一社は塚堀のクライアントでもあった。NPOは町の中心部にある。
午後の早い時刻に訪れた塚堀をスーザンとシェリルが出迎えた。
「ジム、こちらがこのNPOの創設者であるシェリル・スミスです」
「スミスさん、意義ある活動をされていることに敬意を表します」
「ジム、お名前の発音が難しく、スーザンの薦めでジムと呼ばせていただきます。本日はわざわざ当所のために遠路をお越しいただきましてありがとうございます。それに、このたびは無償のサービスをお願いすることになり、恐縮しております」
シェリルは塚堀と同じ五十歳台の落ち着いた立ち居振る舞いの女性だ。
二階の会議室に案内された。
「企画書の草案を拝見しました。簡潔明瞭に作成されていて、その上説得力に富みます」
「スー、よかったわね。ジム、会社経営や起業の相談では多くの企画書や事業計画を手にされるのでしょうね」
「シェリル、そうです。ですから、この種の企画書を簡潔に作成するのが並大抵ではないことを承知しています。どうしても自身の計画への思い入れが先行してしまい、冷静に第三者の目で見ることを避けてしまい勝ちです。吟味する者は第三者の見解や統計など客観的なデータに裏付けられた計画書を好むものです。でも、他方では、作者の熱情が伝わらない計画書には心を動かされません。客観的であると共に、想いが読む者に伝わるものでなければなりません。スーザンの草案はその点でも秀でていますね」
シェリルが、「スーザンは大学時代に論文コンテストで毎年のように優勝したのですよ。作文では右に出る者がいませんので、当所の行事の案内文書はスーザンに頼むことにしていますのよ」
スーザンの頬に朱が差す。
だから、魔力を秘めた文章なんだ、と塚堀は納得できた。
「いくつか確認したいことがあります」
持参したメモ書きを手に塚堀が、「基本的な点です。期待できる年間の預金額が当面は多くても四百ドル程度ですね。この程度で人々の意識の転換を実現できるものでしょうか?」
その点はスーザンとも議論を重ねたことだ、と頷いたシェリルが、あなたから我々の狙いを説明しては、とスーザンを促す。
「ジム、同じような貯蓄奨励策を導入した他の例も参考にしました。五年ほど経過した代表的な例では、預金口座の残高の平均は千五百ドルちょっととありました。年平均では三百ドルですので私の試算よりも低額です。それでもその地では導入後に低所得層に顕著な変化が見られたそうです。親の代から貯金に疎遠な若い層は、額の大小よりも自力で貯えることに大きな意義を感じるようです。この地域にも同じような効果が期待できます」
年間にわずか数百ドルを貯めることで人の意識が変わるのか。貧困層の実態は塚堀がこれまで想像していたレベルをはるかに下回っていることになる。数百万ドルの年棒を手にする者が存在する一方で、生まれてはじめて数百ドルを貯める者がいる。世界の最先端国とされる米国でこのような歪んだ経済が放置されているのだ。驚くと同時に憤りさえ覚える塚堀であった。
「提案されている、利息の上乗せ案は有効でしょうね」
企画書を準備していた当時の金融機関が払う定期預金利率はおよそ四パーセントであった。しかし全世界的な不景気の影響で米国でも連銀による金利引き下げが話題にされ、ほどなく市中金利は三パーセントあるいはそれ以下に引き下げられることが想定された。スーザン案では州とNPOの折半負担で最低五パーセントを保証することが提案されていた。
他に二、三の細かな点を指摘した後に、ペイデー・ローンとの競合に話題を進めた。
スーザンが、「所内でもこの点を話し合いました。参加が期待される母子家庭にもこれまでにペイデー・ローンを利用して返済不能に陥った例がありますのよ。この企画は借金を避けて将来の出費に備える基金を設けることですので、ペイデー・ローンとは正反対となります。この企画が浸透し始めると業者が客を失うことは明らかですから、業界による反対運動は必至でしょうね」
シェリルが続けて、「近辺にローン会社の出張所がいくつかあり、地元選出の議員にも献金をしているようですわ」
「共和党議員がビジネス寄りなのは不思議ではありませんが、議会では双方から横槍が入る可能性がありますね。NPOの存在をよく知る当地の民主党議員には、シェリルとスーザンおふたりによる説得が効果的と思われます。懇意にしている共和党議員にペイデー・ローンに批判的な者がいます。協力を依頼しましょう」
助言だけでなく企画の実現に力を貸してくれる。塚堀の好意がスーザンには嬉しかった。今朝自宅を出る際に、塚堀を自宅での夕食に誘うかもしれない、と両親に伝えてあった。どうしたものかと逡巡していたのだが、機を見て切り出してみよう。
「それは大助かりですわ。このNPOの設立に際しては民主党の後援を得ましたので民主党対策はなんとかなると思います」シェリルも感激している。
「この企画を州議会が審議するのは次の議会ですので来年の二月頃になるでしょう。今は七月。九月末頃には企画書を有力議員に送り届ける必要がありますね」
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