第4話 キッシュ

 水曜日の正午前に事務所に現われたスーザンは、淡いブルーのノーカラージャケットのスーツ姿だ。先日のセミナーではカジュアルの装いだったが、スーツもよく似合う。襟がなく腰を覆う長めのジャケットはダイアナ妃が愛用したスタイルだ。先日と異なり左右に分けた亜麻色の髪が肩の上で揺れている。

 奥の書庫にいる塚堀に来客を告げに事務員の女性が席を立った。入口から見渡せるオフィスは、壁一面が書籍やファイルで埋め尽くされているだけで装飾もない。その殺風景なオフィスの壁に大きな油絵がかかっている。胸をはだけた仮面の女が目に飛び込んできた。

 場違いの艶かしい描写に思わず一歩退いたスーザン。しかし落ち着いて目を凝らすと、仮面の緑はアイルランドに特有のものである。

 奥から笑顔の塚堀が現われた。

 「スーザン、ようこそ。またお目にかかれて嬉しいです。迷いませんでしたか?」

 塚堀が差し出した手を握り返すスーザンの握手が力強い。駆け出しの商社マン時代の社内研修の体験が塚堀の脳裏に蘇る。

 フニャッとした握手は女性のものだ。相手の関心を引き込むためには、相手の手を握りつぶさんばかりに力を入れるものだ、と英人講師から繰り返し教えられた。講師の握手は、そのことばの通り、手の甲がつぶれるかと思われる力を込めたものだった。確かに相手の注意を引き付けるには効果的だ。塚堀はその後も忠実に守ってきた。 

 しかし、これは双方が男どうしの場合であり、相手が女性であれば手心を加えるのがエチケットとされている。女性には珍しくスーザンが強く握りしめる。

 「ミスター・ジム、きょうはお時間を割いていただいて、ありがとうございます。途中は交通渋滞もなくスムーズでした」

 「近くのレストランを予約してあります。歩いて数分です」

 塚堀と肩を並べたスーザンが、「この辺りには診療所や医療関連の事務所が多いですね」

 「この先に大きな総合病院が三つもあり、この一帯は医療業界の関係者が集る地になっています。私の事務所のクライアントにも医療関連の人たちが少なくありません」

 昼食時のレストランはほぼ満席だ。白いガウンの医者やユニフォーム姿の看護師らしい姿が混じる。予約のサインが置かれたテーブルは庭を見渡せる窓際であった。

 塚堀がテーブルに置かれたメニューを取り上げながら、

 「このレストランのベーコンとホウレン草入りのキッシュはランチにお薦めです」

 「あら、嬉しい。キッシュは私の好物ですのよ」

 「それはよかった」

 ウェイトレスにキッシュをふたつオーダーした塚堀が、「スーザン、あなたが参加しているNPOのホーム・ページを検索しました。経歴紹介の項にありましたが、卒業した大学はべレア・カレッジではなく、センター・カレッジですね」

 「そうです。どちらも教養学部の単科大学としては高い評価を得ていますが、奨学金の条件がよろしかったのでセンターを選択しました。大学の授業料が高騰し続けていますよね。奨学金がないと高額のローンを利用することになりますので、小さな町の歯科医である父は喜んでいました」

 「センター・カレッジは単科大学では全米でもランク入りする優秀な大学ですね」

 「一八一九年創立の古い学校です。卒業後に法律大学院やMBAに進学して政治家になる卒業生が多いです」

 「センター・カレッジは在学生の八十五パーセントが卒業前に海外留学することでも知られていますね。日本では山口県立大学と提携しているそうですが」

 驚いたスーザンが、「よくご存知ですね。実は離婚した夫は日本を選択して三ヶ月ほどの短期留学をしました。日本は美しい国だと申していました。留学前には海産物を口にすることもなかったのに、帰国するやスシの大家のような口ぶりでしたわ」

 どんな事情があって離婚にいたったのだろうか? 

 塚堀の疑問が通じたのか、スーザンが語り始めた。

 スーザンは大学を卒業後に政治家志望の同級生と結婚して首都のワシントンに移り住んだ。

 将来の政治家を志願する者の典型的な例にもれず夫は連邦下院議員のスタッフの職を得た。日本と異なり議会が解散されることのない米国では、日本の衆議院議員に相当する連邦下院議員の任期は二年間と定められている。そのためどの議員も議席を維持するためには隔年の選挙を勝ち抜く必要がある。どこの世界でも選挙対策に先立つものは政治献金であり、当落はその調達額の多寡で決まるのが実態となっている。スーザンの夫も選挙資金の調達に奔走する毎日を送ることとなった。

 スーザンの卒論は女性の人権擁護や就業機会の改善をテーマにしたものだった。夫と共に米国政治のエピセンターである首都に移ったのも、そのような活動の機会を期待したからだ。

 しかし駆け出しの新卒が政策立案のために意見具申をするような場や、議会やホワイトハウスに働きかける活動に参画する機会が出現することはなかった。議員事務所や政権に影響力を持つ有力なロビー活動事務所に所属して実績を積み上げることが前提になっている。

 政策内容の良否よりも政治献金の提供者の意向に左右されるワシントンの風潮に失望したスーザンは、地道な女性擁護活動を目指して実家のあるケンタッキーにもどることにした。

 やがて別居生活に隙間風が漂うようになって離婚したスーザンは、地元の非営利団体に職を得て、本来の希望であった女性の地位や処遇の向上のための活動に従事しているのだ。夫がイタリア系だったことから、離婚の際に姓を元にもどしてトンプソンを名乗っている。

 セミナーの会場では立ち話に過ぎず、スーザンが塚堀と面と向かってじっくりとことばを交わすのはこれがはじめてのことだ。それにもかかわらず、旧友に再会したかのように私的な事情を語る自分が不思議であった。塚堀にはなぜか心の扉を大きく開くことができる。


 やはり人妻ではなかった。「スー、あなたの留学先はどこでしたか?」

 スー、と愛称で呼びかけられ、ふたりを隔てる垣根がいっきょに消え去ったように思われた。

 「ご存知の通りアイリッシュの血が流れていますので、私はアイルランドのトリニティ・カレッジに半年ほど留学しました」

 キッシュが載った皿をウェイトレスがふたりの前に置いた。二センチほどの厚さに焼き上げられている。冷めないうちにどうぞ、と薦めた塚堀が、「トリニティ・カレッジはダブリン市にありますね」

 「そうです。一五九二年開校の伝統ある大学で、構内を歩くと詩人のイェイツが姿を現しても不思議でない雰囲気が漂っていました」

 「そのイェイツが日本の能を理解していて作品に取り入れていますね」

 数字ばかりを扱うのが会計士とされるが、目の前の会計士には大学のキャンパスで語り合うかのような久しく忘れていた雰囲気が漂っている。

 「現地でそれを知りました。能は、面を着けた役者が演じる伝統的な演劇だそうですね。アイルランドでは仮面をかぶった女が心底愛する男にだけ仮面を外すという古い伝説を耳にしました。先ほど事務所の壁にかかっている油絵を目にして思い出しましたわ」

 「あの油絵をご覧になりましたか。あれは以前にマンハッタンで手に入れたものです。画廊の話ではアイルランドから渡来したそうですが、仮面がなにかを告げようとしている不思議な絵で、ずっと手放さずにいます。実は、あの絵を手に入れた際に、仮面を脱いだ女性の素顔を目にする幻視に襲われたのです。まさにアイルランドの妖怪物語ですね。その素顔がスー、あなたにそっくりで、先日のセミナーの会場では驚きで思わず叫び出しそうになりました」

 「マア、アイルランドから渡来した絵に相応しいお話ですわ。セミナーの会場で私が初対面に思えなかったのも、ひょっとしてその仮面のためかしら。幻視や幻想を信じることでは、日本とアイルランドの精神には相通じるものがあるのかもしれませんね」

 「アイルランド人は草木や道端の石にも神霊を感じるとされ、アイルランド文学には妖精や妖怪物語が多いですね」

 塚堀は怪談で知られた東京帝国大学では夏目漱石の前任者であった小泉八雲を思い出していた。八雲の父親はアイルランド人だ。日本の怪談にはおどろおどろしさが付いて回るが、アイルランドの妖精には憎めないものが少なくない。

 なにかを訴える油絵に遭遇したことも、セミナーで代役を務めたのも、そのおかげでこの女性と出遭ったのも、すべては妖精の成す業なのか。

 「日本は開国して百五十年ほどですが、宗教観に共通したものがあるからか、アイルランドに親近感を持つ者が少なくありません。アイルランド学者と呼ばれる人たちも存在するほどです。アイルランド民謡の”夏の終わりの薔薇”は、日本では”庭の千草”として愛されています」

 「アイルランドと日本は地球のちょうど反対側に位置するのに不思議なことですね」

 「アイルランドは戦時中も日本に対して中立を維持した数少ない西欧の国のひとつで、日本の領事館があったのですよ」

 父親や親戚からも今まで耳にしたことはなかった。

 「マア、交戦国だった英国の鼻先に日本の外交官が駐在していたことになりますね」

 「その通りです。いずれゆっくりアイルランドでの体験を聞かせてください」

 階段教室に座るスーザンを目にした瞬間に浮かんだ予感。この女性とは不思議な縁で結ばれている、という塚堀の想いを秘めた誘いであった。

 スーザンもそれを敏感に感じ取ったのか、微笑みながら頷く。女の勘だろう、目の前の塚堀には身近に女性がいるようには思われない。どのような事情か定かではないが、長い間独り身に違いないと思えてならない。

 大学では日米戦争も授業にあった。開戦直後のバターン半島での捕虜の扱いは国際法違反で、日本人は野蛮で残忍だと講義にあった。だが、目の前の塚堀は温厚なビジネスマンだ。温かい視線が自分に注がれている。

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