第3話  亜麻色の髪の女

 その日の塚堀は、ケンタッキー州では二番目に大きいレキシントン市で開かれたセミナーに講師のひとりとして参加していた。内容は、従業員を採用する際に留意しなければならない雇用法や税法の解説であった。米国では全米に共通する連邦法とそれぞれの州に固有の州法が複雑に入り組み、弁護士や会計士でも時には誤まった理解をしている者がいる。

 弁護士資格を持つ別の講師が担当することになっていた。ところが、直前に大きな訴訟事件が起きて手が離せなくなり、この分野に通じた塚堀に急遽代役の依頼があったのだ。セミナーの会場はケンタッキー州立大学の階段教室であった。

 パワー・ポイントを使ったスライドを映し出して講義を始めようと会場を見渡した塚堀は、そのとたん、稲妻に撃たれたような衝撃に見舞われた。

 階段教室の中ほどに、紺碧の瞳で塚堀を見つめる亜麻色の髪の女が座っている。

 書棚を除くと装飾に乏しい塚堀の殺風景な事務所で、唯一華やかな雰囲気をかもすのは事務所の壁にかけてあるあの油絵である。ニューヨークで手に入れて以来十数年になる。

 なにかを訴える仮面をかぶった女。画廊の店主が額を掲げた瞬間に目にしたそのあだめく素顔は塚堀の脳裏に焼き付いたままであった。

 その油絵の妖艶さに比べれば若々しさを帯びてはいるものの、階段教室に座る女性の目鼻立ちは仮面を脱ぎ捨てたあの女性そのものである。


 セミナーの終了後に用意されていた立食形式の懇親会が開かれるや、亜麻色の髪の女が歩み寄った。

 「ミスター・スカボ・・・? ごめんなさい、お名前の発音が難しくて・・・」

 画廊で耳にした叫び声とは異なり落ち着いた語り口調であった。が、忘れもしないあの声だ。

 「私の苗字はTSUで始まり、ツナミと同じツです。でも、ツナミもスナミと発音されることが多いですね。長年お付き合いのある方でもお困りの方が少なくありません。それもあって、私はジムと呼ばれています。そのジムでどうぞ」

 女と塚堀がはじめてことばを交わした時であった。

 「それではおことばに甘えて、これからはミスター・ジムとお呼びします」

 その瞳は相手を引き摺り込んでしまうのではないかと思われるほど深い紺碧色だ。

 「スーザン・トンプソンと申します。私はここから一時間ほど南のべレア市にある非営利組織に勤めています。ミスター・ジム、どこかでお目にかかったことがありますかしら? 教室でお顔を拝見した時にそのように思われたものですから」

 「不思議ですね。私も同じことを考えていました」

 スーザンと名乗る目の前の女性と仮面の女が重なる。古くからの女友だちと立ち話をしているように思われるのは、油絵に描かれた胸をはだけた女のためだ、とはいいはばかった。

 塚堀がセミナーの途中で、少々脱線しますが、と断って、米国では所得の格差が拡大するばかりで低所得層がその上の層に這い上がるアメリカン・ドリームが消え去りつつある、と付け加えた。

 スーザンたちの活動にもかかわらず、NPOの近辺では困窮層が毎年増える一方で、所内の会議でも常に話題になる。そもそも、世界で最も豊かな国のひとつである米国で、なぜ日々の生活に困る層が生まれ続けるのか、スーザンたちの疑問である。所内では母子家庭を対象にあらたな支援策を立案中であった。

 スーザンはこれまでにもいくつかのセミナーに出席してきた。予算に限りがあるNPOのことゆえ、多くは無料のセミナーであった。そのようなセミナーの講師役はボランティア活動だからか、会計士の講師に出会うことはこれまでになかった。

 スーザンは考えていた。目の前の会計士は格差が広がる今の経済に疑いを抱いている。思い切って切り出してみよう。

 「ミスター・ジム、私どものNPOでは母子家庭を対象にしたあらたな支援策を企画中です。会計士さんに厚かましいお願いですが、お知恵を拝借することは可能でしょうか? 予算が限られていますので、交通費程度しか謝礼をお支払できませんが」

 階段教室に座る女と視線が交差するたびに仮面の女の顔が重なり合った。なにかを訴える仮面。その訴えは、塚堀がこの数年の間に関心を深めてきたこの国の貧富の格差ではないか、と思わず脱線してしまったのだ。当っていたようだ。

 「低所得層への支援は私も気にかけてきたことです。喜んでご協力しましょう。謝礼などはご放念ください」

 「ワー、ミスター・ジム。会計士さんのアドバイスを得ることができる。ありがとうございます」

 歳は三十歳の半ばだろうか。大きな瞳がさらに大きく輝く。アップに巻き上げて後頭部で束ねた髪は淡い金髪の亜麻色だ。トンプソンは北欧出身の家族に多い名だ。亜麻色の髪はバイキングの血が流れているからか。仮面の女であれば人妻ではなく、実家の苗字に違いない。

 「トンプソンさん、あなたのお名前はスコットランドやアイルランド出身の家族に多い名ですね。お父さんの祖先はスコットランド出身ですか?」

 会計士から畑違いの分野の問いが突然出されて驚くスーザンが、「そうです。どうしてお分かりになりましたの?」

 勘が当った。

 「私は米国人の苗字の語源に関心を持っていろいろと調べたことがあります。"トンプソン”の語源は”トマスの息子”ということで、同じようにジョンソンはジョンの息子、ジャクソンはジャックの息子ですね。末尾のSONはもともとは北欧のバイキングがそれぞれの一族を呼ぶ際に使用したことから出ています」

 「マア、それは知りませんでしたわ」

 塚堀が続ける。「英国の最北端にシェトランド群島が浮かんでいますね。あの群島はスカンジナビア半島の南端よりも北に位置しています。そのため航海術に長けたバイキングが真西に浮かぶあの島々に上陸し、やがて南下してスコットランドに定住し、現地人と混血したのです」

 外国人、それも日本人から祖先の素性を告げられてスーザンは驚くばかりであった。

 「スコットランドに住み着いたケルト人とバイキングの混血が、あなたのお父さんの祖先ということになりますね」

 「アメリカ人でもそこまで知る者は少ないでしょうね。今晩帰宅して父に伝えます。私、両親宅に居候しているものですから」

 勝手に独身と決め込んでいた塚堀だったが、スーザンの指にリングがないことにはじめて気付いた。

 「父方の縁者の話では、スコットランドからアイルランドに移住した家族の子孫が、十八世紀半ばに新大陸に渡来した初代だったそうです。母方はフランスのノルマンディーから英国に渡来したノルマン人とウェールズ人との混血のようです」

 「英国の西端にあるウェールズは独自の文化や言語を持った、大英帝国でも一風変わった地ですね。米国は建国の父といわれた当時の指導者にアングロ・サクソン系が多かったために、白人はだれもがアングロ・サクソンと考えられ勝ちです。でも、祖先をたどるとスコッチ・アイリッシュやウェールズ人も少なくありません」

 ケンタッキーやテネシーにスコッチ・アイリッシュが多いことはスーザンも知っていた。

 「大統領ではレーガンやクリントンがスコッチ・アイリッシュとされています。ふたりのブッシュ大統領も、シニアはアングロ・サクソンだそうですが、シニアの奥さんはスコッチ・アイリッシュですね」

 大学で米国史を専攻した身にも耳新しい塚堀の説明に聞き入るスーザン。濃い色の眉が印象的だ。髪はブロンドでも眉が濃い色の女性は多い。


 スーザンから電話があったのはその翌月であった。その日の業務を終えた塚堀が机の上の書類を整理していた夕刻時のことだ。携帯電話を耳に当てると、

 「ミスター・ジム、突然のお電話で失礼します。スーザン・トンプソンです」

 あの日、スーザンは、「アイ・ウィル・ビー・シーイング・ユー」といい残して立ち去った。ウィルに続く進行形には”またあいましょう”に加えて、”必ず”という語り手の強い意志が込められている。だからいつか連絡があるはずだと待ち望んでいたのだ。

 「やあ、セミナーに参加されていたトンプソンさんですね」

 「そうです。覚えておられましたか。嬉しい」電話の向こうの声が弾む。

 「来週にでもお時間の余裕がおありの時にお邪魔したいのですが。先日お伝えしましたように、NPO組織ではあらたな企画を計画しています。私が担当することになったものですから」

 「そうですか。来週は水曜日は外出や面談の予定が入っていません。木曜日の午後も空いています。お住まいはべレアでしたね」

 セミナーに参加した翌日、スーザンは塚堀のことばを上司のシェリル・スミスに報告した。シェリルは今までにも会計士に相談したいことがいくたびかあったが、要求される手数料が高過ぎて実現できずにきた。その会計士が無償のサービスを提供するとはにわかには信じられないが、本当であれば心強い。面談を申し出る前にしっかりと企画案の準備をして置くように、とスーザンは念を押されていた。

 覚えていてくれるだろうか、と不安のまじる電話だったが、先日のことば通りに塚堀があっさりと訪問を受け入れてくれた。ホッとしたスーザンが、傍らで成り行きを見守るシェリルに親指を立てて知らせる。

 「そうです。べレアは州の中央部に位置しますので、ルイビルまでは車で二時間ほどでしょうか。水曜日はいかがですか?」

 「スーザン、それでは水曜日にランチを取りながらお話をうかがいましょう。近くのレストランを予約して置きます」

 スーザンとファーストネームで呼ばれて嬉しかった。

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