エピローグ
眠り姫と一人と一匹
講堂の一室。客間か、応接間か。家具一式の揃った個室。
宴会でもやっているのか、そこら中から騒ぎの漏れ聞こえる中、その一室は酷く静かだった。
宵虎は一人、その部屋の中央に胡坐をかく。
眺めるのは、清潔なベット。そこで静かに眠り続ける、一人の少女。
アイシャは、また眠っていた。おそらく、吸血鬼となり、そこからまた人に戻った反動、だろう。変化が急激過ぎて体が付いて行っていないだけ、のはずだ。
………確証がある訳ではない。
邪気は祓った、はずだ。少なくとも迦具土は当てた。宵虎に出来る事はこれ以上、もうない。ただ、起きるのを待っていることのほかには。
もしも、アイシャが吸血鬼のままだったら?
その時は、宵虎はすぐに気付くだろう。言葉が通じれば、魔物。通じなければ、人。
至極わかりやすい、どこかおかしな話だ。
せっかく。……言葉が通じるようになったのに。
アイシャが飲み込んだのはきっと、そんな言葉だ。自分から望んで魔物になったわけではなくとも、状況の中に望みを見つけた。
その程度、と言う気もないが、別段、人のままで叶えられない望みでも無い。
時間は掛かるだろうが、かなえてやれない事は無いのだ。
結局、アイシャが苛立っていたのは、宵虎がろくに返事をしなかったからだろう。
宵虎がろくに返事をしなかったのは?
それもまた結局、最初から切る気など微塵もなかったからかもしれない。
だから姑息に姦計に利用した。………ここで終わりではなく、その後がある事を宵虎は望んでいたから。
静かな部屋で、宵虎は一人、寝顔を眺め続ける。
外でやっているのだろう、宴会に混じる気にもならず。
その内に、部屋を訪れる者があった。
ちらりと横目を向ける。
宵虎の隣に黒猫が現れていた。
ネロは何も言わず、ベットに飛び乗り、眠るアイシャの顔を眺めて、どこか呆れた様に呟く。
「……ホント、黙ってると美人だにゃ」
「喋ってても美人はかわらんだろう」
そういった宵虎を、ネロは意外そうに眺め、言った。
「それ、アイシャに直接言うにゃ」
「………難しい事を言うな」
そう、低い声で唸り、宵虎は視線を部屋の戸へと向ける。
やってきたのはネロだけではなかったらしい。部屋の外に二人分、人の気配がある。
おそらく、キルケーとウェインだろう。入ってこないのは、何か遠慮でもしているのか。
別段、入ってこられたところで文句を言うはずも無い。あの二人も、友人が心配なのだろう。
かといってわざわざ招きいれよう、と言う気にも、宵虎はならなかった。
「……だんにゃ。なんか、食べるものもってくるかにゃ?割と奮発したご馳走があるっぽいにゃ」
ベットから飛び降りながら、ネロはそんな事を言った。
宵虎が戸を眺めていたから、何かしらを勘違いしたのかもしれない。
「いや」
「それどころじゃないかにゃ?」
「……あとで貰う」
「その方が、美味しく食べられるのかにゃ」
そう呟き、ネロは宵虎の隣で丸くなった。
どうやら、ネロも宴会には行かず、ここで待つ気らしい。
まさか追い出すわけも無い。
宵虎は、また静かに鳴った部屋の中で、黒猫を隣に、眠り続ける少女を眺めた。
*
夢。
夢。
夢。
このところ、アイシャは夢ばかりを見ている。
遠い昔の、失敗の夢。
この先にあったのだろう、永遠の夢。
そして、ついさっき向かい合った宵虎との戦いの夢………。
「アイシャ。……悪かったな、」
太刀を腰に構えたままに、宵虎が駆けて来る。
その目はアイシャを睨みつけ………やっと喋ったかと思えば、口にしたのはそんな言葉。
アイシャの手の弓。血の色のそれ、引ききった弦。風の矛は勢いを増し、視線と合わさった狙いは、迫る宵虎を確かに捉えている。
宵虎を殺す気は最初からなかった。
殺される気ではあり、宵虎にやる気を出させようと、アイシャは散々挑発を投げていたのだが………その末にだんだん本気で苛立ってきた。
宵虎が切りかかってきた途端に、苛立ちが一つ深まったのだ。
はしごを外されたような気がした。そんなにあっさり切りかかれるんだ、とかちんと来た。
だから途中から、殺されてあげる前に、ちょっといじめようとかそんな事を思った。
打ち上げて、身動きできなくさせて、散々矢を放ち。
その末に、流石に宵虎も苛立ったのか、反撃してきた。
アイシャは元々身体能力に秀でている上に、人間ではなくなっていた。
いくら反撃されようとかわすのは簡単。
迫る炎の刃、巨大なそれをらくらく避けて、反撃された事にまた苛立って、感情のままに、アイシャの口から文句が飛び出る。
『何?怒ってるの?……文句あるなら言ったら!』
そう、口をついて出た直後……自分の言葉に、アイシャは自身の本心を知った。
なにに苛立っていたのか。
切りかかられた事それ自体に怒っていたわけでも無い。ただ………何の言葉もかけられないままに切られるのが嫌だったのだ。
せっかく、そう、せっかくだ。言葉が通じると言うのに、けれど何も言われることもなくただ切られる。それが、嫌だっただけだろう。寂しかったのだ。
そう気付いた瞬間に、アイシャの苛立ちは迷子の様に行き場を失い、諦めたように、もう終わりにする事を決めた。
急に全部どうでも良くなったような、そんな気分でアイシャは大矛を迫る宵虎へと向け、半ばやけになった様に、宵虎を貫こうとして……やっと宵虎は言う。
「……言葉は、覚える。だから、負けてくれ」
散々黙り続けた挙句、言うのがそれ。割と勝手な言い分だ。
言われた瞬間、アイシャはまたカチンと来た。その一言で動揺を誘おうと、そのために宵虎はずっと黙っていたのだろう。何て卑怯なんだろう、とかちんと来て。
けれど、見透かされたようなその言葉が嬉しかった事も、確かだ。
アイシャは、矢を外す。外したのか、動揺して外れたのか。
結果は同じだ。
外した時点で負ける事にした。……負けてあげる事に。
ずるい、とは思ったけれど………別に、負けで良い。
そもそも、アイシャはそこまで勝ち負けにこだわる方でもない。
そうして、アイシャは切られ、割と満足して負けて。
今、こうして夢を見ている。まだ、死んでいないようだ。
思い返すと、ヒュドラを切った技と同じで、あの時、切られた二人は元に戻っていたから、このままアイシャも人に戻るのだろう。
だが、元通り、にはならない。
負けた。負けたのだ。……殺し文句に。
前に話した時もそんな感じだったが、我ながらチョロい、とアイシャは思う。
だが、今回はあれとは違う。
いつか、誰かに、アイシャは言った。
宵虎は自分を妹の様に思っているのではないか、と。実際の所、宵虎がどう思っているのかはわからないが、夢の中で散々振り返った結果、少なくともアイシャの方はそうだったらしい。
無自覚に、兄の様に思っていた。漠然と甘える対象に過ぎなかった。あるいは、半分ペット扱いだったのかもしれない。慕ってはいた。だが恋慕ではなかった。だから過剰にべたついても別に何も思わなかったし、………無意識に、名前で呼ぶ事も避けていた。
お兄さん、お兄さんと。名前では呼ばない。ただそれだけの些細な言動が全てだ。
ふわりと、浮き上がっていくようで、同時に沈んでいくようで………不意に、そんな気分がアイシャを包み込む。
夢が終わるのだろう………そんな気分で、アイシャは、夢の中で瞼を閉じる。
*
見知らぬ、家具一式の揃った部屋。どれほど眠っていたのか、窓の外は暗く、明かりは差し込む僅かな月光だけ。
そんなどこかで、アイシャは瞼を開けた。
「……ここは…………」
そんな呟きと共に、アイシャは身を起こす。どこかはわからないが、ベットで寝かされているらしい………そんな事を考えたところで、突然、真横で物音がした。
視線を向ける。
そこにいたのは、異国の服……ぼろぼろのそれを身に纏い、裾から包帯が覗いている、大男。
立ち上がった宵虎が、アイシャを見つめている。
憮然とした表情だ。若干、警戒している……と同時に、酷く心配そうな。
そんな視線を前に、吐息と共にアイシャは微笑み、呟く。
「……心配した?」
その、アイシャの一言に、宵虎は息を吐く。大きな身体をしぼめるような、気が抜けたといわんばかりのリアクションで、宵虎は何かを呟いた。
何を言っているかわからん、とか。そんな感じだろうが。
その言葉は、もう、アイシャには理解できない。
ちょっと惜しい気もする。だが、それでも別に構わない。
言質はとった。言葉を覚えてくれるそうだ。だから、おしゃべりはその時まで……いや、おしゃべりしながら教えれば良い。
平和に、緩やかに、時間をかけて。
と、そんな事を思ったアイシャの真横で、不意に、巨体がゆらりと揺らめく。
「え………」
と呟きを漏らすアイシャへと、宵虎は突然、倒れこんできた。
抱きしめられた、ような。押し倒されたような。
これまでなら、それこそ、ワーキャー冗談めかして色々喚いただろう。わあああ、とか、ちょっと!?とか。いきなりそう言うのは、もっと段階を踏んで、とか。
と……アイシャは自分で思うのだが。
「……………」
ベットに倒され、アイシャは何も言えなかった。目を見開き、硬直し、紅潮し、考えはまとまるようでまとまらず、ただ倒されたまま数秒。
聞こえてきたのは、寝息だ。
なんというか、ロマンチックなあれこれでもなく、ただただ単純に体力の限界が来たらしい。
ほっとして、倒れこんだ、とかだろうか。
「コホン。………寝てるし」
咳払いの末、アイシャはそう呟く。
宵虎は寝入っている。アイシャの胸に顔をうずめて。………また、ナチュラルにセクハラしてる。そんな自覚は無いのだろうが。
……やはり、そういう対象と思われていない?もしくは、割と経験豊富で、この程度じゃ何も思わないとか?振り返ると言葉を交わすたびに何処となくジゴロっぽいし………。
そんなあれこれ考えながら、アイシャは宵虎を押しのける事もなく、ただぼんやり、その寝顔を眺める。
傷を負って、疲れて、けれど安心して寝入っている。
「ヨイトラ」
なんとなくその頭を撫でながら、アイシャはそう呟いてみた。
………すさまじく気恥ずかしくなった。
でも、その内、慣れるだろう。甘えさせてくれる誰か、では、もうない。
………アイシャは、負けたのだ。
「あ~あ……」
なんとなく、アイシャはそう呟いた。口元にやわらかな笑みを浮かべて、ただ、あ~あ、と。
そんな部屋の隅で、丸まっていた黒猫は片目を開ける。
(あ~あ、って。………なんか凄い色々言いたいけどあたしは黙っとくにゃ。空気を読むにゃ………)
とかなんとか頭の中を騒がしくしながら、黒猫は足音を忍ばせて、そっと、その部屋を後にした。
邪魔はしないでおこう、とそう思ったのだ。
扉は元からちょっと開いていたから、音を立てる心配はない。
なぜ、扉が開いているか。
それは、覗き見ている者がいるからだ。
「良いな~……あ、いえ。なんでもないです」
当然の様に覗いていたウェインは、ネロの視線を受けてそうなにやら誤魔化し。
やはり覗き見ていたキルケーは、やがてネロに視線を向け、呆れたように呟いた。
「………今の今まで進展していなかったんですか?」
「まあ、そうだにゃ。べたべたしてる割にぜんぜんなんもなかったにゃ」
「そうですか……」
そんな風に呟きながら、キルケーは当然の様に扉を押し開けようとする。
「ま、マスター?……何する気にゃ」
「邪魔するんですが?」
「……なぜ、それを揺るがない目で言えるにゃ」
「散々友達を待たせた挙句更にいちゃいちゃしようなどと、そうは問屋がおろしません。ねえ、ウェインさん」
「いえ、私は別に………そこまで待ってないですし」
「そうまで言うなら仕方がありませんね………ウェイン。先陣は任せます。行きなさい」
「………やっぱり人の話聞かないんですね」
「聞いてはいます。ただ、無視しているだけです」
「いえ、だから……それを人の話を聞かないと………」
そんな風にごちゃごちゃと戸口で話し続けているうちに………部屋の中からアイシャの声が聞こえる。
「聞こえてるよ~、そこの二人と一匹!」
アイシャの声に、キルケーとウェインは顔を見合わせ、堂々と、部屋の中に踏み込んでいく。
そのまま、会話が始まった。
なんでいるの、というアイシャの驚いたような声や。
そんなアイシャをからかおうとするキルケー。
そして、そんな二人の言葉に耳を傾けるうちに、「……って言っといてウェイン」「……と、言っといてくださいウェインさん」と、じゃれあいに巻き込まれるウェイン。
さっきまでの静けさが嘘の様に、すぐに騒がしくなる部屋の中、未だアイシャの胸の中でぼんやり寝ぼけながら、宵虎は唸る。
「うう………うるさい………」
その言葉が通じたのは、ちょっと離れた位置から騒がしさを眺めるネロにだけ。
「それも、いつもの事だにゃ~」
黒猫はそんな風に呟いて、そのまま、騒がしい話し声は、夜遅くまで続いて行った。
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