吸血鬼、アイシャ

「………ラピッド・ブロウ」

 言霊と共に、アイシャが矢を放つ。


 飛来したのは不可視の矢―――避ける気もなく立ち続けた宵虎の顔の横を、不可視の矢が通りぬけていく。


 頬が僅かに裂かれたか………今更多少傷が増えようと構いはしない。

 視線すら向けることなくただアイシャを眺め続ける宵虎………。


 そんな宵虎を前に、アイシャは肩を竦めた。


「あれ?避けないの?まさか、避けられないとか言う?もう遊んできたの?疲れちゃった?……おもしろくな~い、」


 子供のように、どこかわざとらしい仕草を交えながら、アイシャはそんな事を言い出す。

 言葉が通じていると言うただその一点を除けば、その仕草、様子は、見慣れたアイシャと同じだ。


 自由奔放。気ままで気分屋。それこそ、ネロよりも猫のようかもしれない。

 戯れに獲物をなぶる様もまた。

 腕の横を、不可視の矢が通り抜ける。

 また、浅い傷………顔すら顰めない宵虎を前に、アイシャの方が顔を顰める。


「………やる気ないの?何しに来たの?もしかして、私に食べられに来た?」


 応えず、アイシャを眺め続ける宵虎を前に、アイシャは飽きたように呟いた。


「あ、そう……」


 直後、不可視の矢が襲う。

 今度は直撃する軌道―――宵虎の胴めがけて、だ。


 宵虎は………また、かわさなかった。

 不可視の矢が宵虎を貫く……寸前で、弾けた。


 いつも使っている、炸裂矢だろう。独りでにはじけ、周囲を吹き飛ばす空気の爆発。


 もろに受けた宵虎は吹き飛ばされ、壁に背をぶつけて、崩れ落ちる。

 起き上がろうとしてふらつき、転びかけ、だが、宵虎は壁に手をついて、意地で立ち上がる。


 残念ながら……派手に相手をしてやれるだけの体力は残っていない。一々、かわす必要のない攻撃――殺意の篭らないそれをかわす気はない。


 アイシャは、不満げに、宵虎を睨みつけている。


「……なんで避けないの?面白くないじゃん。遊ぼうよ、お兄さん?」


 苛立って感情的になっているのか。

 苛立たせて、太刀を抜かせようとしているのか。


 どちらとも取れる。どちらでも、アイシャの行動として矛盾しないだろう。どちらでもあるのかもしれない。

 感情で動く割に、妙に計算高い。別モノになろうとも、やはりアイシャはアイシャのまま、変わらないらしい。


 僅かに笑みを浮かべた宵虎を、アイシャが睨みつけた。


「何笑ってるの?……なぶられるのが好きなの?もしかして、そういう趣味だった?」


 投げかけられたのは挑発だ。どうやら、アイシャは宵虎を怒らせようとしているらしい。

 戦いたいのか。それとも……切られたいのか。


 甘やかさないでね。その言葉が宵虎の脳裏を掠め、逡巡するように、宵虎の手は太刀へとゆっくりと伸びていく。


 それを眺めながら、アイシャは声を投げてくる。


「そう。……それで良いよ。私ね、眠ってる間。ずっと、夢を見たの。これから私がどうなるかって、夢。こないだのさ、吸血鬼の夢かもしれない。だんだん、だんだん、長い時間をかけて………全部どうでも良くなっちゃう」


 アイシャの顔に浮かんでいるのは、どこかぼんやりとしたような、だが確かにある、恐怖。


「それも良いかな~って思う。忘れたい事は多いし。でも……だからって、友達まで食べる様になっちゃうのは嫌なの。ねえ、お兄さん?いつまで私かわかんないんだよ?お兄さんを食べて、その後………食べに行くのは、ラフートの人達かな?それは、嫌なの」


 真摯な声で……そう言いながら、アイシャは弓を引く。

 直後、一切の躊躇いなく、矢は放たれた。


 顔面へと迫る不可視の矢―――それを前に、宵虎は太刀を抜き、弾く。

 ………今のは、間違いなく、殺す気だった。当てる気で、アイシャは宵虎に矢を放っていた。


 宵虎は目を伏せ………やがて、眼光鋭く、アイシャを睨みつける。


 アイシャは寂しげに、満足そうに笑った。


「……やっと、やる気?」


 その言葉にも、宵虎は応えず………太刀を正眼に、切っ先をアイシャに向ける。


 *


 自身に向けられる、宵虎の刃………それを前に、アイシャの胸中に複雑な感情が走った。

 いや、複雑な割に、一言で済む。

 ムッとした。……結局それだ。


 そうなるように、アイシャの方で誘導した。挑発し、やる気を出させ、アイシャをきらせようとしている。

 だと言うのに、アイシャは少し唇を尖らせる。


 だが、この些細な感情も、後々なくなっていくのだろう………その末路を、アイシャは既に見てきた。


 本当に、延々と、夢を見ていたのだ。

 首筋に噛み付いた青年の……吸血鬼になってからの、だんだんと味を失っていくような、終わりのない孤独を。


 全てがどうでも良くなっていくような感覚………いずれ来る死に怯えるような話で、けれどそれは死ではなく永遠に続く牢獄。


 他人の命を吸って生きる、永遠だ。

 そんなものに、アイシャが耐えられるはずがない。


 一人目を食べた時に、アイシャはきっと壊れるだろう。それで完全に自分が成り代わると、そんな自覚がアイシャにはある。


 人を傷つけたくない。人を殺したくない。それが、アイシャの本質だ。たとえ、居場所を、故郷を失う結果になったとしても、見ず知らずの他人の命を奪う事が出来ない。


 弓を手に取るべきではなかったのかもしれない。あの日の戯れが的に当たらなければ、アイシャはもっと別の生き方を、それこそ何のとりえも無いが平穏な、高飛車な令嬢以外の何者でもなかっただろう。あるいは何処ぞの名家にと継いでいたか……そういう人生だったかも知れない。


 アイシャ・エル・フレイアーク。

 アイシャの歩みには、後悔が多い。空回りが多い。それが巡り巡って、今こんな状況。


 別モノになって、かろうじてまだ一線だけは踏み越えないようにして……けれど、空腹は隠せない。


 良い、匂いがする。

 宵虎が放つ、血の匂い。傷の匂い。色々と混じっているようなその匂いが、まるで焼けたパイの様に香ばしい気がしてくる。


 既に、そういうモノに成りかけているのだ。

 だから、そうなる前に、殺して欲しい。そのために、アイシャは宵虎を挑発して………。


 ……いざ、その気になられたとたんにムッとした。私に剣を向けるなんて、と。

 どうしてもわがままなのも、やはりアイシャの本質だ。

 けれど、その感情もまた、どこか薄くなっていくような気もする。

 アイシャはただ、宵虎を眺めた。


 アイシャに切っ先を向けたまま………けれど、宵虎はそれ以上動こうとしない。

 怪我をしているのはわかる。動く体力がないのか。いや、宵虎は迷っているのだろう。


 アイシャを切るかどうか、決めかねている………そんな雰囲気だ。

 さっきは、それこそ本当に、当てる気で射ったのに、まだ迷うのか。


 結局、宵虎も、そういう甘い人間なのだろう。だから、アイシャも甘え続けていた。

 けれど、今は、だとしても………やる気になってもらわないと困る。


 アイシャはもう、いつまで自分がアイシャか、わかったものでは無いのだから。


 弓を引く―――血で出来た弓。見慣れた形状、形だけはいつも通りで、けれど根本が別のモノで出来ている、真っ赤な、弓を。

 風が手元に集い、不可視の矢を作り上げ………アイシャは、宵虎を眺めた。


「……お兄さん。お願い。………殺させないで」


 呟きと共に放たれた不可視の矢。


 宵虎はそれを、顔面へとまっすぐと飛来するその一矢を、切って捨てる。


 先ほどと同じ防御、けれどその一閃、奔る太刀の軌道には、明確な意味が合ったらしい。

 残る軌道、剣閃に、僅かに炎が瞬いている―――。


「破邪たる灯り、業を喰み、残灰は清く……」


 アイシャを睨みながら、宵虎の口が、言霊を紡いで行く。

 ………漸く、やる気になったらしい。


 そう見て取ったアイシャの内心は、複雑だ。

 また、ムッとした。そんな自分を引いて笑い、けれど、それで良いと納得し。

 おなかがすいたと思い。おいしそうだと思い。

 低い声に耳を傾け。そう、せっかく通じるようになったんだから、もっと、別のこと言ってくれれば良いのに。なんで何にも言わないのか。そんなことも考えて。


 ごちゃごちゃな考えを胸のうちに、アイシャは、ただ、宵虎の演武を眺めた。

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