朴念仁のどらごんはんと

蔵沢 秋

1幕

1章

クラーケン。洒落たその名を男は知らず


 ざざん。


 揺れる白波。嵐に遭ったか、見渡す限りの荒れた海。そこに漂う小舟の上に、一人の男が座していた。


 男の名は宵虎よいとら。故あって国を追われ、宛も何も無いままにただ小舟一つだけで太洋へと送り出された男である。


「温情、か……」


 ともすれば怨嗟にも聞こえる低い声で、宵虎は呟いた。

 しかし、その胸中にあるのは自嘲である。


『その方、天主の剣たる身でありながら、命に背くとは何事か。本来ならば死罪に値する大罪である。だが、これまでのその方の働きに免じ、その命は見逃がそう。

 船はくれてやる。これは温情だ。その身、この地を立ち去りて、再び踏み入る事を禁ずる』


 それが、宵虎に言い渡された罰だ。早い話が、国外追放である。

 宵虎も、その事に文句は無い。甘い罰だとさえ思う。無論、甘んじて受け入れる所存である。己のしでかした事、罰する者を恨む気はない。

 だが、宵虎は自嘲した。その故は一つ。


「……おなかがすいた」


 罰を受ける気であり、あるいは、この宛なき船出の中途で海の藻屑となる覚悟もあるはずだと言うのに、この数刻、腹の虫がいつまでも鳴き続ける。

 とにもかくにも、おなかがすいた。それ以外はもう、どうでも良い。

 そんな事ばかり考えていた矢先である。


 ひと際強く、風が吹き、ひと際大きく、波が跳ね。


「……む、」


 などと声を上げた宵虎の身を、小船ごと大波が飲み込んだ。

 上も下も無く、ただ荒れた海の中に突き落とされながら、宵虎は自嘲し、目を閉じた。


(……ここで果てるか……。それも良かろう)

 そして、今際にこうも思うのだ。

(……お米食べたい……)


『まだ、生きたいか……』


 不意に、宵虎の耳に厳かな声が響いた。

 ここは海中、声など聞こえるはずも無い。耳鳴りか、あるいは幻聴か。


『生まれ持ったその才。練り上げたその技……藻屑と散らすは確かに惜しい』


 確かに聞こえるその声に、宵虎は瞼を開く。

 いつの間にやら、そこは海では無くなっていた。

 ただただ白い、何もない場所。そこに宵虎は立っていて、そして、目の前に何かがいた。


 影の様で、光の様で。捉えどころも形も無く、だが確かにそこに居る何か。


「神か、仏か……」

『海であり、空であり、大地である者』


 宵虎の問いに、その何かは答える。

 宵虎には、その言葉の意味が良くわからなかった。そして、どうでも良かった。

 ただ、宵虎の欲望は一つ。


「何か、食う物はないか?」

『まだ生きたいというのだな』

「……ああ。で、食い物は?」

『良かろう。貴様に機会をやろう。祖国を離れ、我が元で武勇を誇るが良い』

「そうか。で、食い物は無いのか?」


 なおも問い掛けた宵虎を前に、厳かな何かが揺れた。どうも、笑っているらしい。


『自ら勝ち取るが良い。糧も、居場所も。貴様の執着する生、我が貰い受けよう……』


 その声が、あるいはただただ白いその空間そのものが、だんだんと遠く小さくなっていく。


「……む」


 気付くと、宵虎はまた小舟の上に居た。周囲には海。けれど、それまでの荒れ模様が嘘のように、どうにも凪いだ海である。


「夢か……」


 不可思議な夢……などと訝しむ事も無く、ただ、おなかがすいたとばかり頭と腹を悩ます宵虎。


 と、不意に宵虎は立ち上がり、太刀の柄に手をかけ、目の前の海を睨みつけた。


 舟の行く先、青い海の一角だけが、どうにも黒ずんでいる。

 そして、―が、海をかきわけ頭を出した。


 ただただ巨大な剥げ頭。丸い目もまた大きく、吸盤のある、芋虫のような足が何本もついている怪物。その眼は、獲物とでも言いたげに宵虎を睨んでいた。


「海坊主……ではないな」


 クラーケン。洒落たその名を男は知らず。


「イカだかタコだかわからぬ化生。退く気はないか」


 そうと尋ねた宵虎へ、クラーケンは予兆もなにもなくただいきなり、その足を叩きつける。

 ダン。重い音と共に、クラーケンの足は舟を粉砕し、水面には破片ばかりが浮き上がる。

 だがそこに、宵虎の姿は無い。


「退く気は無いな。良かろう……」


 クラーケンの頭上。一撃を逃れた宵虎の姿はそこにあった。

 そして、宵虎はすらりと太刀を抜き、獰猛な笑みと共にこう呟くのである。


「ならば……足の一本。頂こう……」


 ここがどこか。先ほどの夢は何か。この、見慣れぬ化生は何か。

 それらは、宵虎にとってどうでも良い話。

 彼はただ、おなかがすいているのだ。

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